やっと、見つかった。
確か「場所取り投稿」として、何も書かずにタイトルだけ付けて仮保存した記事があったのだ。
現在のタイトルとは違うと思うが、仮保存したときの記事タイトルは「常盤屋の歴史に幕が降りるとき」としていた。
今だから言うのだが、この記事を仮保存した日に私は決断していた。
「もう止めよう。
このクラブは終わりだ。」
この記事を探して読んでいる一部の方ならご存じかも知れないが、常盤屋とは私が名付けたバドミントンクラブで、常盤小学校で開催しているクラブの分派である。
当初は常盤小学校のクラブだけでは物足りないという人たちのために、じゃあ別の日時とコートを確保するから一緒に遊ぼうよと開設したクラブである。常盤小学校のクラブからのスピンアウトではなく、初期は相互にメンバーの行き来があった。だから敵対関係にあるわけではない。むしろ常盤屋はいつまでも常盤小学校が発祥の地と認識していたし、敬意を表して「常盤屋本舗」と呼んでいた。
宇部には勤労者を対象とするバドミントン教室があり、初級・中級と一通りの技能を得た人が毎年卒業していく。市内にバドクラブはいくつもあったが、遊びがてらに参加するクラブは不足気味だった。最初は常盤屋本舗のメンバーが主流だったが、私も教室へ通っていたこともあり、少しずつ教室生がやって来るようになった。特に開催を原則日曜日の午後3時からと固定してからは、中途半端な時間帯なものの、口コミ効果もあって次第にメンバーが増えていた。
(その裏でレベルの違いなどから常盤屋本舗のメンバーで来られなくなった方々があることは否めない)
クラブの運営としてすべきことは、雑用とは言え多岐にわたる。2ヶ月先までのコート予約をはじめ、シャトルの整理と調達、会場の変更に関しての連絡、会費の徴収と会計である。人数に応じてコート数を増減する必要もあった。
初期はサポートしてくれる人(今は全く行き来はない)があり、早期にネットでメンバー紹介のホームページを作ったり、予定表をウェブ公開したこともあって、ネットからの参加も順調に集まっていた。特に未だ YouTube なる動画専門サイトが存在しなかったときから動画の重要性に気付き、試合風景の中から面白いショットを逐一動画に収めて公開したことも人気を博した。最盛期にはバドミントン関連の会社からリンク掲載のオファーも頂いている。
クラブはみんなのものであり、私はメンバーが気持ちよく参加して頂けるように、おおよそ考えられる限りのことをやった。冬場に電気ポットを持ち込んでコーヒーを出したり、夏の暑い時期は会費の中から冷たい氷菓子を買って配ったこともある。どうせ自分用としても必要だから…とレジャー用の大きなポットも買い、氷麦茶を作って会場に持ち込んでいた。
バドは激しいスポーツながら、意外に年齢層が広いことで知られる。実際、現役の高校生が親に紹介されて参加していたし、上は定年退職された60代後半の方もあった。年齢や職業などの違いを越え、同じコートで愉しむことができる…私はバドを通して参加者が出会い、和み合うのを見ることに至上の満足を覚えた。このまま生涯スポーツの場としていつまでも続き、宇部の名物クラブに育て上げるんだという野望すら抱いていた。
私は、そのクラブを自らの手で「叩き潰した」。
幕を下ろす決断をしたのは、恐らくこの記事を仮保存した日だろうと思う。クラブへ通っていた方々、あるいは通ったことのある方にとっては些か唐突で、暴力的な幕切れと感じられたに違いない。まさか店仕舞いされると思ってなかったという意見もあったし、クラブが無くなると困るという声も正直あった。
決断に至った理由には、複合的要因がある。キッカケとなったのは(はからずも個人攻撃になってしまうのだが)ある人物の言動だった。しかし2年も経つ今、再度当時を冷静に分析すれば、私の意図するのとは逆方向への転落を促し、クラブ運営の熱を冷めさせるに値する出来事も一因だったことは否めない。
聞きたいだろうか?
まあ、じっくり話そう。
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私がバドクラブを持つのは、常盤屋が初めてではない。初回はずっと昔まで遡り、まだ私が教室の初級に通っていた頃である。やり始めというのは何でも面白いもので、私は当時一緒に活動していた人と組んでクラブを立ち上げた。最低2人いるから、あと2人ほど調達すれば試合できるからという安易な理由だった。その時も私は会場の予約から会計から、すべて引き受けていた。
いつも同じ時間帯で確実に開催されるとなると、それなりに人は集まった。当時は月曜日の夜という人気のない時間帯なら、市街部の体育館でも比較的容易に予約を取れた。誰でも行けば必ず4人以上居て試合ができる。その当時はさほど重要視しなかったのだが、それがある程度続いた大きな要因だった。
初期の頃は少人数ながらもそれなりにクラブとして回っていた。しかし集まりの主体が運動系クラブである以上、どうしても技能の巧拙がでてくる。そして体育会系の全く悪い性癖なのだが、往々にして技巧のある者が強い発言権を持つようになる。自分より年上や巧い人の一部からクラブの運営に口出しされるようになった。
もっともこれは私が作ったクラブなのだから私は全く与しなかったし、彼らも足を運ばなくなった。人数が減るのは残念だが、来て下さいなどと頭を下げる気持ちなど毛頭無かった。
その後私はクラブの運営を自分一人ではなく常連メンバー共同名義にしてコートの準備や会計などを持ち回りにした。ところがそれからおかしくなった。まずある人は”会計を任されてまでクラブに来る積もりはない”とばかりに来なくなった。シャトルや場所代はクラブ会費から出ているので、私は立て替え払いしたのだが、結局踏み倒された形でクラブは頓挫した。
この経験があったから、常盤屋を始めた当初から自分が責任を持って運営する代わりに、クラブの空気は自分が造り出すことに決めていた。自分が造ったクラブなら、外から来て勝手なことは出来ない。しかし多くのメンバーが気持ちよく参加できるように、最大限空気の良さを心掛けていた。
私が念頭に置いているクラブのコンセプトは、各人のレベルと価値観においてのバドを実現する場としていた。そのことは間違いなく、かつて開かれていたホームページのコンセプトに記載していた。技を極めて大会に出たい人はそういう環境を提供したいし、生涯スポーツとして楽しみたい人には楽しく遊べるように。おおよそ分別ある大人なのだから、コンセプトを提示すれば、いちいち規約などで縛らなくても理解されるものと思っていた。
常盤屋崩壊への最初の一撃は、全く私の与り知らぬところで進んでいた「引き抜き」に始まった。
事実だから差し付けるのだが、ある時期を境にうちのクラブから女性メンバーをゴッソリ引き抜かれたのである。それも私には何らの相談もなしに。
それまで常盤屋のメンバーは男女が半々くらいだった。これは意図されたものではなく、自然とそうなっていたのだが、私はそれを好ましい環境と考えていた。女性が全く居なければ、新規に入会しようとするも普通はまず躊躇するだろう。ある程度女性メンバーが居ることが呼び水になる。
うちのメンバーは、男女とも意外に未婚者が多かった。別に常盤屋を出会いクラブの延長のように考えて貰っても困るのだが、趣味が同じで時と場所を共有する男女なら、何かの発展は期待できるだろう。間接的にうちのクラブがそういう環境を提供できるなら、大いに社会貢献になると感じていた。常盤屋が縁で出会い、交際してゴールインした…というカップルが現れてもいいだろうと…
(但し断っておくが、私自身は結婚願望がないので女性メンバーのどなたにも想いを寄せたことはないし、そのこと自体全く期待していなかった)
ある日を境に女性メンバーがぱたっと来なくなったので、私は何のことやらさっぱり分からなかった。やがてあろうことか、全く同じ日の同じ時間に別コートで彼女たちが活動しているではないか。その事実を通じて、私は教室のインストラクターを中核として、女性メンバーの技能向上を目指したクラブが立ち上がったことを知った。
そのこと自体、実際は何ら問題もないことなのだろう。彼女たちも魅力があるからスピンアウトしていったのだ。引き留めることはもちろん出来ないし、恐らくしなかっただろう。しかし私には仁義として「有り得ない話」と感じた。
普通なら女性たちを受け皿にするクラブを立ち上げようと思っている…という話があって然るべきだろう。それが私に何の相談もなく引っこ抜かれたも同然で、うちのクラブ運営が今後どうなるかなど全く考慮の欠片もなされなかったのである。
夫婦で参加するメンバーをはじめ、一部の女性は常盤屋にとどまったものの、常盤屋の空気は明らかに変わってしまった。私はこのとき既に常盤屋は半分潰されたも同然だと悲嘆に暮れた。
(今思えばこの時点で店仕舞いするか他の方にオーナーをお願いすべきだったと感じている)
男性主体になると、プレーは当然ながら熾烈なものになる。激しいラリーの応酬は、そのようなプレーを志向する人々には面白いだろう。私も確かにその価値観は認めつつも、疲労度が増してならなかった。元から生涯スポーツを念頭に置いていただけに、ベクトルが違う。それも自分の意思で変更したのではなく、無理やり変質させられたも同然だった。
女性が居れば、そんなラフなプレーなど起きないものである。男性ばかりでそれも一端に技巧派が揃えば、仮借なきプレーが増えた。浮いたサービスを強打され、目の近くにシャトルを撃ち付けられたことがある。それでも何の謝罪もなく、ペアは「そんなサービスを出す方が悪い」とほざきやがった。私はすんでのところでそいつの胸ぐらを掴み、この右拳でシャトルよりも数千倍きつい実弾をかましてやろうかと震えが走った。
明らかに常盤屋は、弱肉強食めいたクラブになってしまっていた。
こんな筈ではない…
そう思いたかったものの、既に常盤屋は私が高く掲げていた崇高な理想とは程遠い集まりになってしまっていた。しかも一部の人は全く気付いていないどころか、むしろ男性主体で思う存分暴れ回れるクラブと映っていた。だから私より年長で技巧もそれなりにある人間は露骨に発言権を行使し、勝手で好き放題なことを平気で口にするようになった。
(私はこの種の人間を「絶対に許さない」…私が常々体育系の輩を「似非たいく系」と揶揄し、コイツらが生涯スポーツを潰して回っている破壊主義者だと明言して憚らない)
私は次第に減っていく参加者に気付いていた。微妙に空気の変わった常盤屋から気持ちが離れていくように思われた。無理もなかった。他ならぬ運営者の私自身、既に救いようのないほど心が離れていたのであった。
「常盤屋の歴史に幕が降りるとき【中】」に続く