神の国は3
2018年11月22日
私の記事「神の国はいつどこに」に加筆して再録
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111016.html
再録+
信仰者の中には
神は、キリストは、聖霊はと
聖三位のことばかり語ろうとする人がいます。
信仰のことといったら奇跡のことばかり語り
物や肉体に起こる奇跡を信じることが信仰だ
と思っている人もいるようです。
神聖の仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。
信仰について、大真面目に、現実離れしてはいないでしょうか。
得々と、お伽噺を語ってはいないでしょうか。救いは現実のものなのですが。
(ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
(ルカ17:20-21、新約聖書)
神の国について、キリストは、人々の中にある、と言っています。神聖の救いの仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。信仰は超常を思い込むためにあるのではなく、信仰は、人間が、人間と人生を考えるためにあり、その中にあります。
神が人を救うということを知らせることは福音ですが、人間が信仰者になることは、どうして起こるのでしょうか。神が人を救うと言うだけで救いを信じるでしょうか。そうではなく、聖書によって、キリストと人の交わりを知るからこそ、人は救いを求めるのだと思います。
なぜなら、そこに人は、心が、いろいろな執着から解放され、人間に救いが与えられることに実感が持てるからです。さらに、そのことを、救われたとさえ感じられるからです。そのとき、神の国は、いつどこに?という問いは、救われたと感じる人にとって、今まさに垣間見ているからです。
何故なら、人は、救いの仕組みのような、あるいは、記録映画のような視聴覚ではなく、お伽噺でもなく、知識や理屈としてでもなく、人間として既に生きて人生を体験し続けているからです。神の側の話をいくら聞かされても、それは、人の側とは、かけ離れた神聖の世界の話です。
さらに、人を救うと言われて奇跡を信じる人、つまり、救われるという話だけで夢中になる人は、救われるにふさわしい成長をする気になりません。そういう人は、全て、奇跡だから救われるのだと、自動的に救われることを信じてしまいます。
最悪の場合、救われる立場から
神の恵みなのだと言うだけで、
自分を例にして自慢して讃美するだけになり
救いを求める心に答える話が出来なくなるかもしれません。
そこには愛という言葉はあっても
愛そのものは、ないのです。
なぜ、キリストと人が関わった話に、人は胸を打たれるのでしょう。それは、キリストが、救いのために犠牲になったという役割でなく、その言行において、教えだけでなく、キリストと、低さを知るしかない人間たちとの交わりが、溢れるばかりの共感を与えてくれるからです。
聖書を通して、キリストと交わったら、人間の心には忘れられないものが残るのです。それは、聖書を読むことからの、人生において大きな体験なので、物や肉体の魔法のような奇跡ではなく、救いの辻褄でもなく、人間の心に響く共感、 "魂の奇跡"、あるいは "心の奇跡" と呼んでもいいでしょう。
その大切なものが、弟子たちを使徒に変え、人をクリスチャンとして成長させるのです。奇跡が分かり、奇跡に守られるようになる・・などと、思っているなら、それは、超常願望に過ぎません。神は、人の願望や欲望を成就して讃美されるためではなく、生きている心を救うために信仰を与えるのです。
恵みだけを語る者、つまり、恵みなのです、恵みなのです、ということばかりを繰り返す者を警戒してください。そういう者には、信仰の芯について、まだ知らない人と、勘違いしている人と、知ろうとしない人がいます。
上の人は、キリスト信仰者ではありません。まだ、神と人の、憐れみも愛も知らないのです。だから神もキリストも、救いの仕組みの工作のような知識だけしか知らない者です。そこには血も涙も命もありません。人間らしい温もりも潤いもありません。そこにあるのは、机上の辻褄合わせだけなのです。
偽者者は、神の仲間になったかのように思い上がっており、全て知っているという慢心から、学ぼうとしないために成長がなく、むしろ鈍くなり、やがて自他を破壊してゆくのです。そういう者は、世辞の丁寧さによって、見かけの憐れみと敬虔を装っています。
そういう者の傲慢が、言葉や振る舞いに直ぐには見えないことがあります。しかし、突っ込んで質問すれば答えられず、しかも分からないとは言わず、それが一回ではなく重なると、最後には質問者を無視し拒否してくることで分かります。それが偽善者なのです。
偽善者は、キリストを殺した者たちと同じ体質を持っています。しかもその不感不応で悔いることのない体質を、不動の信仰だと思い込んでいます。
(マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
(マタイ9:12-13、新約聖書)
キリストが引用した言葉は旧約聖書ホセア書のようです。
(ホセア書、口語訳)6:6
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
(ホセア6:6、旧約聖書)
したがって、神を知るというのは、神の憐れみを知るということなのでしょう。決して、神の辻褄を知ることではありません。神の憐れみを知るために必要なのは、奇跡を信じることでもなく、教理を鵜呑みにすることでもなく、人間に分かる愛に共感できることです。
聖書ではそれがキリストを動かし、聖書を読んで学ぼうと努める私たちは、キリストが施す愛に共感するゆえに、キリストを信じるに至ります。上の例外的な偽善者を除いて、殆どの人は共感できる心を持っています。
儀式的信仰の習慣や言葉中心の教条や、たとえ奇跡体験があったとしても、解釈に詳しくなったとしても、人間の潤いに満ちた温かい共感を捨てて、人間としての心を損なうならば、全ては無意味です。共感の温もりと潤いこそが、人間が持ちうる信仰であり、人間が知りうる神の国に他ならないからです。
キリスト信仰は、良いことをしたから救われるという行為義認ではありません。信仰のみによって救われる信仰義認ですが、信仰、つまり、神を信じることは、いったい何を意味しているのでしょう。神を造り主、キリストを救い主と信じる者の信仰とは何でしょう。救われる唯一の条件とは何でしょう。
それは、
自分の罪を認めるがゆえに祈り
神の前に罪深い自分を正直に差し出すことです。
聖書の罪人たちは、それが出来たから救われました。
それが救われる唯一の条件ですし、
信仰そのものであると言ってもよいのです。
神の憐れみと共感を示す聖句です。
(詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
(詩篇、旧約聖書)
信仰は共感
(2018年)
(2020年)
(2021年)
(2022年12月04日、再録+加筆)
神の業(かみのわざ)
溢れる(あふれる)
個と種
違う遺伝子を持ち
違う学習を経た
個はあくまで個であるから
完全に理解し合えることはないだろう
同じ遺伝子と学習経過を
一部に持っている種は
あくまで種であるから
他の種との協力よりは親密に
協力し合うことはあり得るだろう
誤解を許容した上での話で
他の種との共存を肯定した上での話で
はるかにヒトより永い淘汰の歴史を持ち
一途(いちず)に子孫を残すことだけのために
強化された遺伝子を持っている他の種に
無謀な戦いを挑もうとしなければの話だが
色褪(あ)せる死
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死
そ
年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない
ま
先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色(たいしょく)が包んでゆく
死
年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと
あ
いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴(どうけつ)から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼(あお)い風のひととき
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
楽山は、HS問題について、ツイッターで批判と議論を続けているつもりのようです。高級霊、次元構造、波長同通、憑依など、皆、超常の言葉ばかりで、人間について何も語れない貧相をあらわにしています。自尊だけを求めるペテン師だと思います。楽山に近づかないでください。
楽山は、自身の問題を、全く自覚できない人です。だから、平気で、傍観者として、アドバイザーであるかのように、他者のことばかり言っています。他者のことを、"トンデモ発言" などと言っている楽山こそ、トンデモな正体を隠しているのです。
無反省、無責任で、自分のもたらす害を、全て人のせいにするような、冷血の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を隠そうとする楽山は、議論をする資格も能力もないのに、ただ、人間離れした超常を、理屈めいた言葉で語って、自己満悦しているだけなのです。
楽山の言は、言論ではなく、生殖器のようなものです。そこから詭弁を放出して、人が騙されて受け容れるのを見て、快感を得るのが、楽山の生き甲斐なのでしょう。楽山の人生には、真善美がなく、正義もなく、怠慢ゆえに、努力も学習もしない結末の、ゴミ問題となってゆくのです。
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
偽善者の特徴でもあります。
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
奇怪な単細胞。
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
訂正不能の偏執。
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
慢心して中身の無い形骸。
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、繰り返し載せることになるでしょう。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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