讃美の家批判22(修正) | ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

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  「讃美の家」批判22
   聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
 
 
まず聖書の話から始まる。
>「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。
>たといたくさんの物を持っていても、
>人のいのちは、持ち物にはよらないのである」
・・・
(倉に入れるものが多すぎるので、倉を大きいのに建て直して
 安心している金持ちだが、その命はその夜のうちに取り去られる
 という譬え話)
・・・
>自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。」
>(新約・ルカによる福音書12章13~21節)
2011/10/21(金) 午前 5:49[ st5402jp ]
 
>人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
>また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
>(マルコによる福音書8章36~37節)
 
>人はなぜ虚しい〈生の冒険〉の歩みを始めたのでしょう。
>それは生ける神の言葉を退けたアダムとエバに始まり、
>弟アベルを殺したカインの姿に見ることができるます。
>またバベルの塔を築こうとしている人の姿に見ることができるでしょう。
 
ここまでは聖書解釈の話として読むことができそうな気がしたが、
アダムとエバは、神に従うしかないのであって、
生ける神の言葉を退けるばかりではなかったはずです。
 
シャロームの話は、アベルとカイン、そしてバベルの塔まで
大きく広がってゆきます。しかし、自分の罪と偽善について語ることはないのです。
2011/10/21(金) 午前 5:50[ st5402jp ]
(2019年05月03日、修正)
 
しかし自称牧者シャロームは、この文脈で唐突に大きな現実問題を持ってくる。
 
>今、日本中が震災復興と原発問題と年金問題で混乱しています。
>単なる自然災害と言う以上に戦後の経済(モノ)至上主義の蔓延の結果でもあり、
>それ以上に偽りの〈生の冒険〉の旅の果てだということではないでしょうか。
>問題の本質はまさに生ける神を畏れることを拒む人のわざの末路なのです。
 
(私)
後に、私が、シャロームのボロクソ節、と呼んでいる語り口です。
大きな問題だろうが何だろうが、シャロームは、自分の聖書解釈に結び付けて、
自分と同じ信仰がないからだ、という短絡したまとめを語るのです。
そして、社会と政治と経済となんでもかんでもボロクソに言うのですが、
自分のしでかした罪、偽善、非道には目もくれないままなのです。
これが8年間、恐らくそれ以前から、変わらないのです。
極めて単純化した短絡以外何も言えないシャロームです。
 
>ここに越えられない渕が神と人、人と人、人と自然の間に出来たのです
 
>主なる神はその人に命じて言われた、
>「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
>しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
>それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記2章16~17節)
>このことばによってすべての問題の本質が言い表されています。
2011/10/21(金) 午前 5:52[ st5402jp ]
 
(私)
アダムとエバの話は人間の本質的な原罪が表されています。
どんな問題でも聖書を語れば言い得たことになるなんてことはないのです。
(私)
大きな問題の本質には現実の諸問題が関わってきます。
しかしシャロームは、そういう考察が全く出来ず語れないので
アダムとエバのせいにして問題の本質と言い、
原罪ですから、侵さないようにはできないのに、
シャロームは、彼のボロクソ節で、大きな問題を
どうしようもないような絶望へと向かわせます。
 
聖書から学ぶ人間の本質として語っておきながら、
なぜ途中で現実問題を強引に聖書のほうに引っ張ってくるのでしょう。
しかも「人のわざの末路」「すべての問題の本質」とまで言って、
これが震災や原発や年金の問題の答えになりうるだろうか。
解決の手がかりにでもなるだろうか。
そう言って答えを述べた気分で
気が済むのは牧者自身だけではないだろうか。
 
このあとは、また創世記とダビデ王の聖書の話を書いて
・・・記事は終わるのである。
 
被災者と被害者がいる現実問題、つまり
震災・原発・年金問題という言葉さえ
書かれているのは上の引用部分だけなのである。
責任の所在、現実的解決策などは一切述べず、
本質は聖書にあると言って聖書の話をすれば
本質が分かって、それで事足りたつもりなのだろうか。
2011/10/21(金) 午前 5:54[ st5402jp ]
 
現実問題を語りたいのか。
聖書に書かれている人間の本質を語りたいのか。
なぜ聖書解釈にとどめておかないのだろうか。
 
これではまるで現実の天災と人災の問題は、
聖書を語るために「こんなことにも現れている」
「その本質はちゃんと聖書に書いてある」
という感じでちょっと触れてみた材料に過ぎなくなる。
そんなに軽く扱ってよい問題ではないはずだ。
 
現実問題の答えを
聖書から導いたと思わないと気が済まないのだろうか。
 
自分で話の焦点がずれていることに気づかないのだろうか。
 
現実の天災も人災もアダムとエバに始まる「人のわざの末路」であり、
だとすれば、すべての人に責任があると言っているようなものだ。
 
現実には被害者と加害者がいるのである。
 
2011/10/21(金) 午前 5:55[ st5402jp ]
 
(私)
シャロームは、政治も経済も震災も語るべきではないのです。
にもかかわらず、シャロームが語れると思うのは、反省がなく傲慢だからです。
 
天災と人災、すべての災いは信仰を持たないからだ、
さらに牧者自身と同じ信仰を持たないからだ
と言っているようなものである。
 
何でも偏屈に聖書に集中して、生きている人間の立場を考えなくなり、
信仰が人間離れする姿を垣間見る思いである。
 
多くの人が悩んで解決に苦しんでいる問題を
自分が好きなように単純化して「モノ化」しているのは誰だろう。
この牧者が「モノ化」を社会批判として使うときは、
社会の「モノ化」を嘆きながら
平気で人を「モノ化」するところがあるので要注意だと思う。
「決め付け」て、「そっと差し出す」謙虚さがないのも特徴である。
それこそ「偽りの〈生の冒険(傍観?)〉の旅の果て」と言えよう。
 
聖書について語る信仰者が、現実問題を語るときに、
こういう文章で済ませてはいけない
という反面教師にしかならないと思います。
 
2011/10/21(金) 午前 5:59[ st5402jp ]
 
(私)
経済至上主義のことを、モノ至上主義と呼び、モノ化と呼んでいます。
何でも、それで説明したつもりで、ボロクソ節の主要な要素になっています。
いちばん信仰も人も世界も、モノ化して豪語するのはシャロームその人です。
(私)
最近では、本を読んだらしく「日本教」という言葉を使って、日本の社会と政治と歴史をボロクソに言って、他のサイトに尊大にコメントしているようでした。シャロームは、本を読むと、自分を悪の圏外に置いた無反省な誇大妄想を生み出して、他者をボロクソに言いますが、実際にはシャロームが、自らの身勝手な思い込みがその本に斬られている、ということに気づかないだけなのです。
 
 
(2011年10月21日)
(2019年05月04日、修正加筆)
 
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