ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。

 
  昔ポエム
 
 
  御国への希望
 
来世に寄せる望みは儚(はかな)い
見えない何かは やはり見えない
天国は見えない
地獄は見たくもない
今度生まれてくるときは・・・
この世には生まれてきたくない
しかし
召されて死んで
御国に至る希望に生きる
ほかにない それでよい
死後の世界など分からない
御国がどんなところか
知らない しかし
希望は抱(いだ)かれるとき
常に現在形である
 
 
 
  エゼキエル書 (抜粋)
 
わたしは生きている
わたしは悪人の死を喜ばない
むしろ悪人が
その道を離れて生きるのを喜ぶ
 
義人の義は
彼が罪を犯すときには彼を救わない
わたしが義人に
彼は必ず生きると言っても
もし彼が
自分の義を頼んで罪を犯すなら
彼の総ての義は覚えられない
 
と主は言われる
 
正しいと思ってすることも
それが自分の義か
主の義であるか
を考えることは大切である
それを考えれば答えは
「わからない」 よって
もし自分の義に過ぎないのならば
主の義に導いてください
もし罪を犯したのならば
お赦しください という
祈りに至るから
 
私は主の羊
主の牧場(まきば)の羊
心安らかに荒野(あらの)に住み
森の中に眠りたい
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている
 
拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
 
  黒い土
 
やっと見つけた黒い土を
しばらく見つめたのち
手に掬(すく)って
握りすぎて指の間からこぼれないように
持って帰って鉢(はち)に入れた
何も植えずに毎日水をかけた
ときどきは目を閉じて触ってもみた
日光に明るく照らされて土
寒い季節が終わる頃
知らない小さな芽を出してきた
未熟な緑
切り取らず
切り取られず
踏み付けず
踏み付けられず今度は
たくましく生きられたらと
語りかけた芽の下に
古い友人が眠っている
 
 
 
  こぴぺ
 
つめたくなでられる
ネガになる
みやすい
やすやすと
きえる
あらわれる
けされる
はられる
もどせる
としをとらない
でんし
おぼえる
わすれる
としをとる
ひと
ネガになる
もどせない
きかない もう・・・
フリーズ
 
 
 
 (抜粋)
 
 とても小さくて
 どこへ行ったのだろう
 とても小さくて心細そうだったのだけれど
 傷心のうちに隠れて見えないのだろうか
 闇の中に潜んでいるのか
 遠くからの光に吸い込まれたのだろうか
 光の中に散乱したのだろうか
 大きさも重さもない点の存在が
 広く広く果てもない波動に同期して
 焦点に向かって終息したというのか
 それとも収束と発散を
 宇宙と木陰を
 高慢と心貧しさを
 一筋の清らかな
 直線でも曲線でもなく
 時空とも呼べないところへ
 透き通ったまま通り抜けて行ったのだろうか
 水とも火とも
 あれは〇○○と
 名付けられる前に
 
 
      
            希望は いつも 現在形
 
 
(2022年07月03日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
反省が出来ないことを「自分もそんな風です」などと、誰でもそうみたいに一般化できるでしょうか。否です。折に触れて反省、ときに謝罪は、人間らしさです。できないのは人間として異常なのです。それを「難しいんだよなあ」「人間の性」で済ませるのは、さらに異常~病気なのです。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は、アンチを論破したら粘着されたと言うけど、現実はこうでしょ。
① 棒氏はアンチに噛みつくも、返り討ちにあってアカ削除
② 新アカつくってアンチに噛みつくも、またもや返り討ちにあってアカ削除
③ ②を繰り返す。
論破されて粘着してるのは、アンチでなく、棒氏の方だよ。

 
楽山は、誰を論破したわけでもなく、しかも、いちゃもんを宗教批判に見せかけながら、ネットに粘着しています。化かし合いを楽しんでいるのです。良心を傷つけることを楽しんでいるのです。浮いてきた垢として、一日も早く、削除されるべきは、楽山の嘘と詭弁です。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は相変わらずだね。
年齢など、議題とは関係ない話に論点をずらしたり、慇懃無礼なやりかたで侮辱したり、アンチを論破したと嘘をついたり、粘着されてると被害者コスプレしたり…。

 
論点をずらして迷路に誘導して酷い疲労を与えたり、丁寧語や世辞で、慇懃無礼な言い方で、侮辱したり、平気で嘘を吐いたり、粘着されてると被害者面をしたりしてきたのが楽山です。そして節操もなく発作的に長い長い記事を書いたり、泡を吹くように、だらだら引用したりするのが楽山です。
 
楽山は、何の根拠もなくネットに寄生して、何の貢献もせず、人をディスってきたり、さらに、こちらが根拠をあげて批判しても、あざ笑って無視してきました。もはや、楽山の顔は、ひょっとこのように、人間らしさを失って、冥界のコメディアンならぬ受けない経読みの独り言師なのです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
これは典型的な棒四季論法ですね。
棒氏は、自分にとって都合の悪い話題になると、
そんなことには無関心なポーズをとり、
上から目線で適当にあしらうようなことを言い、
早々に話を打ち切ろうとします。

 
楽山は、自分に都合の悪い話題になると、何事もないかのように無視し、「上から目線で」「あしらう」ようなことを言い、勝手に、話を打ち切ったつもりです。しかも、その後、批判者を粘着ストーカー呼ばわりして雑言を言いまくっておいて、何事もなかったような顔をします。楽山ブーメラン全開です。
 
 
 
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  楽山の悪用2
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子著
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25292787.html
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、キリスト者(信仰者)でもないのに、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 
 

「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。

 
「人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている」・・これは、人間だから、信仰に疑いはつきものだという意味です。人間としての信仰者には共感できることです。信仰の欠片もない楽山が、これを書いているのは、反キリストの企みであり、余計なお世話なのです。
 
反キリストである楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 
 

次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。

 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。何も明らかにできず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を、信仰者と読者に刷り込む企みの詭弁です。
 
 

そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。

 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・真っ赤な嘘です。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりません。つまり100%の信仰など気色悪いばかりで、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。
 
楽山は、自身のカルト教祖願望の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊だけの我欲のために悪用するような、楽山の言を信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。楽山は、キリスト教を1%も理解していません。
 
 

そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。

 
信仰を字面の小理屈で語り、否定したり、肯定したりして、しかも、嘘を吐き、かつ、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしている楽山は、求道する心がないために、それこそ、信じる心の1%の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
嘘や詭弁をチャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、発言の断片だけの悪用であろうと思います。狙いが、とても、卑しいのです。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山は、その作為のわざとらしさから、3年余り、どこにも見るべきところがなく、ずっと真っ黒だと思います。
 
信仰は有無であります。何%ではありません。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この1年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)を見て、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25309964.html
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類で、理路が成立しません。
 
楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。人のことを言う資格の全くない人であり、自分の不能に、全く不覚の病者であります。
 
 

福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。

 
「ミスを認めることができない」「我が強い」「間違ったということが認められず」・・楽山に当てはまることが書いてあると思います。「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」・・楽山の宗教批判を貫く妄想です。
 
楽山という無神教カルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないのです。児戯にも等しい思い込みから書いているので、書いた文章に斬られる結果になっても気づきません。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性があります。ゆえに、体質として未熟で浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきています。
 
まさに、我が強く、いつまでも、いつまでも、楽山自らの過ちを認めることなく、自分が正しいと判断した自分は正しいという循環に陥って、自覚なく、自分には本質を見抜く眼力がある、という自己催眠によって、書き続ける亡者となっているのが、楽山その人です。
 
 

自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、

 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、楽山の嫌らしさと愚かさが増幅されて表れるだけなのです。自己顕示欲のベースから何を書いても、表れてくるのは、人に向けた悪口が自分に返ってくるブーメランだけになり、いかなる救済の余地もなくなってゆくのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習障害だけではなく、感動経験のなく鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機だけで、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 
 

それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。

 
「思い込んでしまったら」「修正することは困難になることはよく分かっているつもり」・・まるで分かっていません。幼稚な先入観と偏見に凝り固まっている訂正不能が、議論不能となって、今の楽山を作っているのです。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型動物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、無反省と無責任で、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある成長可能な人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、という単純なことです。よって、楽山の、言い訳がましく人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ批判を貼りつけてゆく方針です。
 
 

自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。

 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の言辞を平気で続ける、人の間違いを言っても、自分の間違いを真摯に認めたことが一度もない、というような者には、出てくる文章ごとに、批判を当ててゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という判断が、3年余りの間に、減ることはなく、次から次に、積み重なってきました。
 
そういう嘘とともに、楽山が、シャロームの反キリストの信条に賛成したのが、実に、遠い昔のように思われますが、今に至るまで、訂正などは、一度もしたことがないのです。
 
他者に「頑張ってほしい」と言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者が、言論のブログから去るまで、甘く見てはならず、妥協してはならないのです。
 
 

そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。

 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、今は、もう、誰も、だまされてはいけません。楽山は、神ではなく、人として欠格している自分を、インテリ気取りで飾って自己顕示してくるだけの異常者なのです。
 
楽山は、精神的な疲労だけを与える人であり、青空を曇らせる人であり、何の実感もなく字面のきれいごとの無感動を並べ、高慢によって膨れ上がり、経過と結果において情緒障害を来たして、まともに見せかける芝居だけで、口先だけのインチキを、インテリに見せかけようと必死です。
 
楽山は、自分を見つめるという機能を育て損なっているので、他者のことばかり云々していますが、知性と共感性がないために、わがままな幼児が拗言(すねごと)を繰り返すような堂々巡りばかりしています。そして批判というより揶揄になって、ニヤニヤ笑うのが生き甲斐となっているようです。
 
 
      
                 破綻者の気取り
 
 
(2020年)
(2022年07月02日、再録+加筆)
 
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
 
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
  ルナティク・顔 (冬)
 
世馴れした顔が気軽に友と呼び
話す語尾の後にハ行とも?行とも
濁音とも清音とも
撥音とも促音ともつかぬ笑いを付けて
きっぱりと冷たい締めを弛ませる
 
世馴れできない洟(はな)垂れ顔は
やりきれなくて夜独りああ~と笑う
二つ目の「あ」に濁点をつけて
ときに強勢を付け語尾を上げてまで
 
それは血迷いの狂(ふ)れ姿か
少なくとも装うのではなく
自己の在るべき領域が崩れゆくとき
隠せなくなった濁りも澱(おり)も灰汁(あく)も
何もかもが締まりなく流れ出しているのだ
 
それで少しでも楽になるなら
目一杯溜められるだけ溜めてきた生ゴミの
袋の破れ目から液汁は流れるだろう
(それで少しでも楽になるなら)
 
人に物に風景にまで
蔑(さげす)まれ責められるかのようなとき
夜ふらりと外に出て空を眺めれば
手に受けようとする白い息を散らせ
顔を刺すような寒気の向こう彼方に
月も星も冷たくきっぱりと無関係
どうしようもなく有り難く無関係
光り輝く無関係
泣くことを忘れた顔に
目汁鼻汁冬の夜
 
 
  主観
 
今が一番幸福なのかもしれない
と考えることがある
過去そして人生は大方
現在によって評価される
今が不幸なら
過去のいかなる幸運も
転落のための落差に過ぎない
今が幸福なら
過去のいかなる不運も
懐かしい思い出になる
未来だけでなく
過去も変わるのだ
 
未来はもちろん変わりうるものだが
どこへ向かおうとしても
門があり玄関があり
守衛か受付が居て
冷淡に丁重に
断られ拒まれそうな現在に在って
ただ自分にとって大切な
一片の希望を捨てない限り
未来も現在も
それゆえ過去も変わる
 
底の薄い小舟
揺れる細い吊り橋
踏めば破れそうな床
進むしかない
希望よりも見通しの利かない
過去の移ろいへ
 
今が一番幸福なのかもしれない
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)される
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山とは数か月コメントの遣り取りをしたことがあります。疑問を指摘しても、的を射た返事はなく、自らの同じ前提でしか応答しません。だらだらと続く応答に異常に疲れました。ゆえに、楽山とは二度と遣り取りはしません。楽山が楽山のサイトに何か書けば、それを批判対象にするだけです。
 
楽山は、否定を書き、肯定を書き、断定していないのだから、責任問題は生じないと言いました。。楽山は、否定すれば否定の、肯定すれば肯定の責任が、その都度、発生することを弁えていません。小学生以下の未熟です。楽山は理路を組み立てられずに詭弁に走る幼児性の嘘吐きに過ぎません。
 
自己中に固まっている楽山は、誰の味方にもなれません。何かを批判するときに楽山に頼ってはいけません。楽山は、図に乗れば乗るほど頼った人を虫食んでゆく寄生虫です。深みにはまる前に離れてください。自分の体験を語り、気持ちを語ることが、誰かを頼るより、はるかに人を動かします。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
またもや棒氏は、ストローマン手法で嘘をばらまいてる。
私の意見は「アンチは悪い事はしてない」というのではなく、「棒氏は、自分がアンチにしたことをやり返されてるだけで自業自得だ。自分の加害行為を隠して、被害者コスプレしている」というものですよ。

 
「自分の加害行為を隠して、被害者コスプレしている」・・楽山のことでしょう。被害の自覚はあっても、自分の、無反省、無責任、詭弁などによる加害を無視していられる体質の病気なのです。これは、自己愛性人格障害から来ているので、人格を批判し続けることになります。
 
もはや、楽山は、人間としての良識と感受性が欠落して、反省も出来ないわけですから、言論者としては成り立たないのです。まだ、ふつうみたいに、物を言ってくることが、症状であり、こういう人には、関わることが、何らかの影響を受けることが、既に、病魔にさらされることになります。
 
楽山自身が、既に、ストローマンあるいは藁人形か案山子(かかし)のように、実体が無いのかもしれません。だから、楽山は、好きなように屁理屈を宛がって、かつ、責任を負わないのでしょう。もはや、人間を相手にしているとは思わないほうがいいと思います。
 
楽山は、ネットというバーチャル世界でのみ存在に見えているゴーストだから、いつでも好きなように物を言って、無反省で無責任でいられるのでしょう。ネットは無責任と言われますが、それを、空っぽの人格で体現し、害だけが働いている状態なのでしょう。だから何も感じない案山子でいられる。
 
ネットだけの存在ということは、実体のないゴーストと同じです。だとすると、楽山の発言は、バーチャルのゲームのようなもので、言ったら言いっぱなしの無責任ということなら、放屁と同じようなものでしょう。そう言えば、楽山の発言には、一度も、感動も感心もしたことはないのでした。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法は、『仏陀再誕』で、仏陀である自分を信じないのは偽物の信仰だとし、
『フランクリースピーキング』では、イエスの悟りが掌の上に見えたと豪語し、
『永遠の仏陀』では自分を信じることを止めれば地獄に堕ちるとしてます。
幸福グループで説く信仰には、こういう一面があります。ご注意を。

 
このように、楽山は、カルトの奇妙な発言を指摘し揶揄していますが、一方で楽山自身が超常と心霊への傾倒があるために、理路や感受性が歪んでいます。そのために、霊が分かるっぽい自覚だったり、思考が、まとまらなかったり、平気で嘘を吐き、詭弁を弄して、印象操作や、刷り込みをしてきます。
 
楽山は、言論の基礎である公共の福祉に合わないような、趣味と真実追求を混同して、宗教を趣味的に扱ったり、調子外れに長い記事や引用を書いたりします。ゆえに、人を批判する資格はないと思うのですが、自己顕示欲がどうしても働いて、執拗に、自身の地獄を表しています。
 
今さらのように「ご注意を」と、HSを批判するのも、正常人そして賢者アピールなのでしょう。しかし、無反省、無責任、無視、無頓着、無神経、無節操な書き方を止めることが出来ず、自分の状況が分からないままです。ご注意を、というより、警戒、にとどまらず、近づかないようにしてください。
 
どうしても、我執から、評論家気取りや、インテリ気取りで、やっていけるという思い込みが、妄想的な前提になっているのでしょう。ここでも、人の悪口や異常を振り撒きたいようですが、楽山の異常のほうが、楽山が隠している分、災いが大きいのです。どうか、楽山の発言を受け取らないでください。
 
 
 
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  楽山の悪魔性2
 
 『對立を超えて 日本文化の將來』安倍能成著編代表者
 2021年06月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29604388.html
 
 
楽山の言う道学が道楽であるように、楽山が積読を減らすというとき、妄想を積んで置くことになります。今回の、文章の質の悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。むしろ、楽山は、そのサイコパシーを、書いて表すことによって、逆説的に、明らかにしてゆくのです。
 
楽山は、茶色に変色した本のページを画像として出していますが、省略します。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ですから、また、実際に読んでみても、決して、対立を超えて日本文化の将来を考えられるような人ではありません。
 
 

*積読本を減らしたい
この間から積読本を減らそうと頑張っているのだが、残念ながらなかなかうまくゆかぬ。でも今回はとりあえずこの本にざっと目を通してみた。
本書は昭和23年の座談会をまとめたものであり、昭和25年に出版されたものである。座談会の参加者は表紙にある通り、和辻哲郎、渡辺慧、前田陽一、谷川徹三、竹山道雄、小宮豊隆、木村健康、安倍能成である。

 
このように学識経験者の名前を挙げるのは、自己顕示の強い者が、憧れ、そして、妄想的に同一性をいだいている症状として、それこそ、自らの傲慢と高慢を表している症状なのです。
 
 

座談会の話題は、冒頭から明治維新は上からの革命で本当の革命ではなかっただとか、世界国家の建設を目指すべきだという主張があって失笑させられるが、その後は日本文化について有意義な対話が為されていて勉強になる。

 
楽山の主張の特徴は、全ての発言において、その根拠が全く示されていないことをもって妄想だと判断できることです。有名人なのでしょうか、私は、よく知りませんが、楽山の決めつけであれば、意に介する必要もないということです。
 
 

一読したかぎりでは、この中ではやはり和辻哲郎がもっとも尊敬され、一目置かれているようだ。安倍能成も存在感がある。ただ個人的には竹山道雄の意見にもっとも共感できた。
以下には、この座談会において特に興味をひかれた話についてメモしておきたい。

 
楽山は、有名人や学者の名前一人では物足りないのか、座談会の本を持ち出してきました。人数を増やしても無駄なのは、具体的でない記事の質と、記事の短さに表れています。楽山は、面倒臭いのでしょう。でも、読んだことにしたいのでしょう。読んだとアピールして、むしろ無知と無理解を表す結果です。
 
そういう短絡が、記事の短さに表れます。読んだことにはならないことが、記事に表れるのです。「興味をひかれた話について」の記事がこの量と質でしょうか。名前だけは、たくさんあげて、興味と言い、積読を減らしたいそうです。楽山は、楽山の妄想を積んで置くことになります。
 
誰が尊敬されているかが重要でしょうか。「一目置かれて」「存在感」「共感」・・思った通り、これが感想か・・と呆れるほど中身の空っぽな自慢の、誰がどうこうと、単純な褒め言葉を並べているだけです。読んだことにしたいだけだと分かります。楽山のメモは、哀れなほど、ランダムでインチキです。
 
 

*内村鑑三
まず本書には、師としての内村鑑三について次の証言がある。
Scan0047 内村鑑三と武士道、儒者
これは人によっては、封建的でけしからんだとか、古臭く堅苦しいととる人もいるかもしれないが、自分には非常にさっぱりしていて愉快に思える。

 
画像を出してこれだけです。何が "けしからん" のでしょう。これで、書籍の案内にもなりません。推測するに、内村鑑三、武士道、儒者のうち、武士道のことでしょうか。どう、さっぱりしているのでしょう。どうして愉快なのでしょう。楽山は愉快犯ということになってゆくだけでしょうか。
 
 

*日本語
二つ目は、日本語には「信ずる」という言葉はないという話。
Scan0048 日本語に「信ずる」はない
これは意外だが、「信ずる」は訓読みでなく、音読みであることを思えば合点が行く。
日本に無宗教者が多いのも、これと関係があるのかもしれぬ。

 
信だけでなく、愛、介、感、禁、高、講、察、・・等々、音読み+『する(ずる)』で出来ている言葉は多いですが、既に使われているのに、それが、どうして、日本語にないと合点が行くのでしょう。メチャクチャ雑な話です。さらに無宗教と結び付けるとは、言葉の現実的な中身を失っています。
 
 

*祈り
三つ目は、祈りについてである。
Scan0050 祈りの効果。カレル著「祈り」より。
祈りについては、良い効果があるという話を聞いたこともあれば、そうとばかりもいえないという話も聞いたことはある。たとえば入院患者たちを自分の病気平癒を祈ってくれている人々がいることを知らされたグループと、知らされないグループに分けて、その後の患者の様態を調べると、前者は後者よりもよくなかったという結果が出たという話など。
祈りは効果があるのかないのか、一体どちらが本当なのだろうなと思う。

 
楽山は、祈りについて、治癒したかどうか、つまりご利益の有無で判断しています。祈りの心が無い証拠なのです。祈りは治療効果があるから祈るのでしょうか、薬じゃあるまいし、祈りというものを効果の有無で判断する楽山の甚だしい無理解です。
 
もはや楽山の知能を疑いたくなりますが、ひょっとしたら悪質な揶揄かもしれません。判断の基準について、一般教養としても稚拙すぎます。上と併せて、もはや、マンガでしょう。しかも、面白くもなく、中身が、悪意の無思慮の揶揄以外、皆無です。
 
 

*藤井武
最後に本書中で、もっとも興味をひかれた箇所について保存しておきたい。内村鑑三の弟子の藤井武という人物は、次の主張をしていたという。
神の計画的な導き、思想展開
堕落した日本はいったん滅ぼされたあとに新生される神の計画によって、各時代、各地域において新たな教えが説かれた

 
神の計画を、人間は完全に走りえない、という分別を持つべきです。軽口で、しかも決めつけて豪語するから、このように、楽山のような外道の企みに利用されるのです。新生される神の計画など、誰も知っているとはいえず、毛ほども知る由もない楽山が、勝手な豪語に至っています。
 
 

キリスト教において来世問題(霊界? 転生?)を明らかにする
これらは一見したところでは新規なものにも思えるが、よく考えてみれば必ずしもそういうわけでもないことがわかる。たとえば一つ目についてはその根っ子にはキリスト教的な世界観があるのだろう。

 
キリスト教に折れる来世問題は、推測と創造であって、決定事項ではありません。おとぎ話的なところもあるでしょう。キリスト教の世界観を、キリストの愛と共感を知らずに考えてしまう楽山のような、無節操こそが、あらゆる宗教と信仰の敵となります。
 
 

また戦前の日本では大本教が、近々、世の中が立て直されることを予言し、騒ぎになっていたというからその影響もあるのかもしれない。あとの二つについては、スピリチュアリズム方面で語られていることだろう。よってこれらの考え方には目新しいところは特にない。

 
「新生」も「転生」も、キリスト教の中心ではありません。大本教は神道の一派でしょう。神の業は、神に任せる、という重要なポイントを抜きにして、心の問題を語れない楽山が、知ったかぶりで語る座談会は、もはや、楽山流に歪曲されたチープな雑言短絡のゴミ箱になっています。
 
宗教やスピリチュアルを気取って、ここまで、説得力のない詭弁を吐く人も珍しいでしょう。楽山の記事には、陳腐だったり、詭弁だったり、曲解だったりしますが、目新しい卓見のようなものはあった例がないのです。
 
宗教を知らない、神を知らない、聖霊を知らない、そして、人間を知らない、さらに、読書できない、理解できない、分別がない、理路がない、深い情緒がない、節操がない、立小便のようにメモと言って垂れ流す・・ネタにされた古本も気の毒です。
 
 
>思うに、宗教思想というものは個別に見ればあっと驚かされることがあったとしても、<
 
「あっと驚かされる」という、どこかで聞いたようなセリフでしか表せないことが、先ず、感想になっていないということです。この記事が、本の言葉とは思えなくなります。楽山は、知的にも、成人男性とは思えない遅れを、今回、あらわにしています。
 
 

横断的に広く見渡してみれば相互に影響されており、それぞれ単独で発生しているわけではないということがわかるものだ。新たな宗教は、神の啓示によって突然に説かれるのではなく、人と人の間から生まれてくるものなのだろう。

 
来世問題や世界観が、どう相互に影響しているのでしょう。楽山の説明が拙劣なために、宗教が、人と人の間から生まれるというのは、無神論が前提になった暴論に過ぎなくなっています。来世問題を語りながら、人と人の間?・・寄せ集めて、語ろうとして、滅裂です。
 
信じないなら、信じなくていいが、その無理解で、人を惑わすような、知ったかぶりをされては、たまりません。楽山は、宗教について、神と人の関係について、何も分かっていない。来世どころか、この地上、そして、人間について、何も分かっていません。真善美に、いちばん邪魔になる自己中です。
 
これも、憎まれ口として、楽山が、故意に言っているなら、その質と量が、そのまま、楽山の体質的な悪魔性だということです。理解できず、理解しようとも思わないで、迷惑な雑言だけをまき散らす楽山には、一日も早く黙ってほしいとだけ、切に思います。
 
 

信者にとっては自分の信じる宗教こそが絶対的なものに見えがちではあるが、実際のところはどの宗教も相対的ものにすぎないのである。

 
楽山が、そういう判断をするということは、自分は、絶対の立場に立っていると言っているようなものです。楽山は、絶対に絶対ではなく、人間としても、情けないほど、人間としての自立した思考を持っていない人です。偏見だけで、宗教をまとめたつもりでしょうか。・・病気です。
 
何が絶対ということなのか、全く分かっていないまま、軽口で絶対性を否定する楽山です。神の絶対性は、信じる前提ですが、絶対性自体を、人が理解することはありません。神に対しては、人は、絶対性ではなく、ただ、神と違う己の、人としての相対性を弁え、恐れ、正直に祈るべきなのです。
 
そういうことが全く理解できない楽山は、宗教を、ゆえに、神を、相対のオモチャ箱に入れようとするような、恐ろしい傲慢を表しています。やはり、この記事は、本の中の文章ではなく、楽山が歪曲した理解つまり曲解を書いているだけです。人間を見ないで宗教を語るとこうなります。
 
 

自分はこの辺りのことに気づくことができず、上の三つと同じようなことを説くとある宗教を絶対視し、のめり込んで失敗した過去があるのでひたすら反省である…。

 
それ以前に、このクズのような記事を反省してほしいと思います。こうやって、自己愛性人格障害の楽山は、宗教なんかクズだよ・・と、言いふらすつもりなのでしょうが、ここまで来ると、宗教と神に対する、楽山の病質からの、悪魔性に満ちた、あからさまで不細工な、自己破滅的な侮辱でしかありません。
 
よく、反省・・などと書けるものです。過去を反省した今の自分は正しいというニュアンスを読み取ってほしいと思います。楽山が、本当に悔いて反省することは、一度もなかったと思います。病質から言っても、記事を見ても、これからも、あるとは思えません。
 
自己愛性の病質とはこういうものなのか、進行すると、これほど人間離れして、人格が壊れてしまうものなのか、という感を新たにしています。澱(おり)のようなものになって、掬いようがなく、救いようがない、それほど、手の施しようのないものになっています。
 
 
      
               干からびる無神教カルト
 
 
(2021年06月29日)
(2022年07月01日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
最終2行は、そうでなければ、物や肉体の奇跡話だけでは長続きしないし、救われないと思うからです。現代、物や肉体の奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないわけだし・・、人間の心を疎かにするのは信仰ではないと思います。
 
超常の話が増えれば増えるほど、楽山のような、何も分かっていない部外者が、偽善者として蔓延り、霊能者気取りや学者気取りで、本来のキリスト信仰を、否定しようとするでしょう。それに対して、逐一、批判する以外に方法はないのです。
 
楽山の攻撃性は、罵詈雑言よりも、理路の散逸と、共感の欠如です。人間と遣り取りをしているとは思えないのです。自己愛性人格障害の怖いところは、罪悪感がなく、極めて諦めの悪い執拗さです。こちらの頭も心も、煙に巻かれたように、疲労しボンヤリしてきます。
 
 
あるカルトの人は、キリスト者であることを疑ったところ、ヒステリックになって、何やら書類のようなものを写真に撮って出してきました。それが信仰の証明になると思っているのです。役所の手続きか生命保険の契約のように信仰を考えているようです。
 
信仰の証しは、免許証でも保険証でもありません。信仰の救いは、神に向かって祈り、自分を見ていただく以外にありません。人が祈る時、既に、神によって全て見抜かれています。神は、人間からの正直な告白を待っておられます。人には、それ以上捧げるものは無いからです。
 
聖書において救われた人々を見ると、救われるためには、完全な正義ではなく、完全な善でもなく、神の前に、努めて正直であることだけが必要十分であります。正直以外、神には通用しません。神の前で人は生きていますから、常習的な神への嘘吐きは、救いから、最初に除外されます。
 
教条絶対を語る者は、言葉だけでなく心の底まで見抜かれる神の存在を信じていないと思います。私たち信仰者が地上を生きることは、神の前で生きることであり、神に向かって祈ることであり、人の体裁も善行も正義も誉れとはならず、正直な祈りだけが信仰の義となる生き方なのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
  自棄と慈悲
 
人と人との適正な距離を
維持するだけの平静な
路面さえも失いつつある
復讐の念に燃え狂い
のたうちまわる欲求不満に
無気力・無為が横たわる
そういう自閉の距離を取るだけで
今世界中の人が死んで
自分一人になっても
冷蔵庫があって食べ物があれば
普段と同じように食べるかもしれない
今世界中の人がいても
同じだから
いや少し違う
 
これ以上近づきませんから
何もしませんから
と昔ハンセン氏病の慈悲深く
心貧しき偉人が言ったのを
真似ようとするかのような
苦し紛れの距離の取り方
 
二十年あまり前に戻って
二十年後を見てきたと
ひとこと言って
胸を突いて果てたいのだが
それができる仕組みではないし
今できないことを
二十年前に戻ってできるはずもないから
神様でも悪魔でも
恥さらしと知って恥をさらす
この生ける屍の肉体の
後始末をお任せするしかないのだが
少し楽になったことがある
 
肉親の安否を前より気遣わなくなった
自分の安否はもっと気遣わなくなった
 
(※ 40歳頃の作)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山の気楽さで宗教を考えていると、宗教も信仰も何の意味もないものになるでしょう。そういう刷り込みを楽山はしているのです。そうやって、楽山自身が、全く救いようのない前途を自ら表しています。楽山に期待するのは、とうに諦めています。楽山の影響を誰も受けることのないように願っています。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
 > 長期間「攻撃的プロフィール」の被害に遭っています。
棒氏は、自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けているかのように書いてるけど、そういう嘘はよくない。
しっかりと霊的人生観をもち、閻魔様と向き合うときのことを想像し、反省して下さい。
https://twitter.com/niw46hz8qr2ge/status/1541336308433719296

 
楽山は、数えきれない嘘を吐き、詭弁を弄してきました。楽山こそ「自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けている」つもりで、自らへの批判を無視しているわけで、その時点で、楽山の発言の信頼度は、ゼロなのです。
 
「嘘はよくない」・・ブーメランです。楽山が、楽山に言われています。自分の嘘を省みず、よくも、そんなことが言えるものだ・・と、ブーメランは帰ってくるわけです。自分が言えば言うだけ、自分が落とされてゆきます。楽山は地獄の憑き物です。
 
人生観に「霊的」を付けるのも教祖願望の表れでしょうか。「閻魔様」と向き合うことになるのは誰でしょう。超常趣味で、嘘吐きで、詭弁屋の、楽山は、焼きが回って、いずれ、焼き切れるのでしょうか。良きものを、一度も、しっかり持ったことのない楽山が、身の程を知らずに、吹いています。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
(省略)
自分は間違ったと気づいても、だんまりを決め込み、うやむやにする人が多いですから、これだけでも立派なことだと思います。

 
「自分は間違ったと」気づかず、あるいは、認めず、隠して、無視するのが、「うやむや」人生の楽山です。人に「立派なこと」を教える資格など、あるはずもありません。堕ちてゆく楽山は、落山でしかありません。このブーメランは、隠し事の報いでしょう。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
では、HSの場合はどうかと言えば、他の方が提示してくれた画像を使わせてもらうと、こうなってます。
伝道目標は、教祖が期限を設けて決めていることが明らかになった時点で議論終了です。

 
教組みたいになって目立ちたいだけのペテン師、楽山の、議論に見せかけた自己中妄想語りは、楽山の嘘と詭弁と無反省と無責任と自己愛性パーソナリティ障害が明らかになった時点で、邪悪な言論無資格であり「終了」というより、始まってもいなかったということです。
 
 
 
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  偽アンチ:楽山の機関銃
 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 「アンチ論法」と「棒四季論法」2022年06月27日

 http://mmknky21.blog.jp/archives/15340373.html

   を批判。
 

 
楽山の発作的引用による投稿です。HSを批判しているつもりです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山には、反省することや共感することが出来ません。楽山の、上から評論家口調で語るのも、学術用語を好んで使うのも、自己愛という妄想の産物です。
 
HS側の意見は画像なので省略します。HSについては知識不足で、かつ、そこに楽山を批判する焦点はないからです。楽山はHSを批判していますが、その批判に、楽山が無視しているか、気づかない、病質的な欠陥からの悪意と作為が表れていると判断して書いています。
 
決して楽山と遣り取りをしてはいけません。とても異常な疲労を受け取ることになります。
決して楽山を味方と思ってはいけません。楽山は平気で裏切ります、逃げます。
楽山は異常者です。信頼関係を築くことの出来ない人です。
 
 

棒氏のアンチ論法の感想を書いとこう。
まず①について。
大概のアンチ諸氏は、信者の意見でも、まともなものはまともだとします。何でも反対ではない。
棒氏に反対意見が殺到するのは、他人にしたことは自分に戻ってくる、批判したら批判されるというだけのことです。

 
「まともなものはまともだとします」・・楽山の肯定は、世辞か、何らかの狙いがあってもことですから、真に受けないでください。楽山は、人のことなど、どうでもいいのです。自分を高めたいだけです。楽山には「他人にしたことは自分に戻ってくる、批判したら批判される」が起こりつつあります。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
②について
棒氏は、「誤読だ! 誤読だ!」と騒ぐくせに、文意についての質問には、答えをはぐらかして逃げてばかりです。
どこがどう誤読かの説明はしません。
ようするに、アンチに反対したいだけなのでしょう。

 
楽山は、自分に都合の悪いことには、屁理屈を並べるか、平気で無視してきます。無視の虫です。楽山は、正当な理路がないために、相手の理路が分からず、それを、ごまかし、疲れさせる迷路を用意しています。決して関わっていけない人です。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
③について
棒氏は、ブーメラン発言ばかりするから、文意を入れ替えて返されるんですよ。
盛大なブーメラン発言をしておきながら、それを指摘するなというのは無理な注文だし、これを避けたいなら、人を責めるより、まず自分が気をつけることです(笑

 
批判したら、その批判が自分に向かってくる、というブーメランは、楽山に、ほぼ常態として表れてくる現象です。自分を見て反省するということが出来ないからです。「人を責めるより、まず自分が気をつけること」・・これは明らかに、楽山に向けられるべきことなのです。「(笑 」の嫌らしさ・・。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
④について
これは⑫と矛盾してますね。
アンチ諸氏は基本的に、相手の発言に対する感想を述べるだけです。事実から離れて推論に推論は重ねません。
どちらかというと、棒氏の方が相手の心理を邪推し、相手の発言とは真逆の結論に持っていきがちです。

 
楽山の推論は、結論から始まります。「真逆の結論に持っていきがち」・・楽山の場合、自己中の結論から始まるのです。「事実から離れて推論に推論は重ねません」・・これは、いけないことでしょうか。推論は、理路によって、新たな水路に至ることはあるでしょう。
 
問題なのは、事実~現実から離れて、話を捏ねまわすことです。楽山は、霊能者気取りから、また、学者気取りなどの、現実離れしたことが大好きで、現実離れしてゆく傾向があります。それが、楽山の、履歴なのに、よく他者のことを言えるものです。楽山から楽山へのブーメラン全開です。
 
「相手の心理」を推測することが、邪推であるかどうか分かる前提で、楽山は言っているようですが、言ってみなければわからないこともあるでしょう。反省は、いつも、後から必要なことです。反省という言葉だけ書いて、反省をしたことのない楽山に言われたくはないものです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
⑤⑥について。
棒氏は、アンチは嘘をついていると繰り返してますが、これまでのところ、一度もアンチの嘘を証明できてません。
棒氏は「アンチは必ず嘘をつく」という暴言を吐いてましたけど、そういう嘘、侮辱は止めるべきです。

 
楽山は、他者の嘘を証明できない人です。いつも、別世界の自己満ワールドから物を言うので、楽山の理路の、始まりも、途中も、結論も、信頼するに値しないものになっています。だから、私は、楽山と、直接の遣り取りはしません。楽山の地獄のような詭弁ワールドの影響を防ぐためです。
 
楽山には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病識が全くありません。いつも、気取って物を言うけれど、そこから学べるものは、欠片ほどもないのです。他者を、人を、悩ませ、混乱させるのが、楽山の唯一の生き方であり、生き甲斐なのです。どうか楽山から離れてください。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
⑦について。
HSの中にいるなら、HSの意見が主流だと勘違いするのも仕方ないかもしれません。
でも現実には、HSは少数派です。このことは幸福実現党の選挙結果からも分かるはずです。
HSは信じないのが多数派であり、一般の意見だというのが現実ですよ。

 
楽山と交わっていると、楽山の意見が、まともに見える人がいるでしょう。しかし、そこから汲み取れる真実も救いも、楽山は用意していません。楽山は、ただ、対立者に文句を言って、おとしめてくるだけです。説得力に見せかけている発言は、みな、自分自身を除外して言っているのです。
 
楽山には教祖願望、リーダー願望があると思います。元々霊能者気取りと、霊能を礼賛する性根があります。無神教カルトである楽山が信じているのは、いつか自分がリーダーになる欲望であり、そこに、救いとか愛とか共感とかの、人間らしい思いやりが、まるで無いのです。
 
リーダーの資格から最初に除外されるのが、楽山のような罪悪感のないサイコパスなのです。理屈屋の、いたずら小僧が、いい気になりたいために、思いやり芝居や、柔和芝居や、中立芝居をしているのが楽山です。高慢ちきとも言います。
 
(ネットより)
高慢ちき:
〘名〙 (形動) (「ちき」は接尾語) 年齢、経歴、実力などの点で、威張る資格がないのに、高慢であること。また、そのさま。また、その人をののしっていう語。
コトバンクより
 
楽山は、見せかけだけに生きている、とても惨めな人です。自分をコントロールできず、学者気取りで物を言い、よく読めば、恥ずかしい無理が、明らかになっています。拠るべき何ものもなく、その腹いせのように、通らない嘘と詭弁をぶつけて、あとは忘れて、責任を負わない人です。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
⑧について。
一つ、二つの小さな難点があるからといって、全体を否定するのは大雑把すぎます。
でも、たとえ小さな難点でも、それが無数にあるなら、全体も駄目と結論づけるのは妥当でしょう。
ちなみに私は、演繹より帰納、合理主義より経験主義が好みです。

 
難点が、小さいのではなく、無数にあり、全体にわたっているのが、楽山です。そして「演繹より帰納、合理主義より経験主義」に見せかけてきます。実際には、バラバラな、その場しのぎの屁理屈に過ぎません。楽山の論理芝居に、騙されないでください。矛盾が矛盾を指摘する矛盾、それが楽山です。
 
楽山については、全体が身勝手で、難点というより、作為の矛盾、即ち、三文芝居の机上の辻褄でしかなく、生きている人間の実感がありません。本当と嘘を混ぜてくるのがいちばん厄介、という例になっているのが、楽山です。我が身を振り返ることのない自己中なのです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
⑨について。
既に指摘されてるけど、棒氏はノルマ議論において、「ノルマはなかった」⇔「過去の一定期間の出来事」と意見を変えてました。
他の議論では、行き詰まる度に「どうぞ、ご自由に」と逃げることを繰り返してた。
論点ズラシと逃避は、アンチでなく棒氏の得意技ですよ。

 
論点がなく、あるように見えても、一切、責任を負わないのが、楽山です。否定を言い、肯定を言ったから、断定してないから、責任問題は生じない・・とは、楽山の発言です。その場その場で、責任を捨ててゆく楽山の人生に、付き合ってはいけません。楽山の格好付けは、もはや襤褸(ボロ)なのです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
⑩について。
これは棒氏の誤読です。
アンチ諸氏は、過去の経験は、過去の経験として語ってます。またHS内で、大改革の号令がなければ、今もさして変わってないだろうとするの当然です。アンチ諸氏は経験と推論はきちんと分けて語ってますよ。

 
楽山の得意技は、自分が言ったことを、人の言ったことを、そっくり無視することです。いつも、その時の思いつきから言い始めて、過去を無視し、現在を否定し、未来を何も語れません。ゆえに、希望につながる感動が、まるでありません。その場しのぎなのです。
 
楽山を相手にすると、ふつうの理路が通じないことに苛立ち、疲労し、空しくなり、知情意が、そっくり鈍麻してゆきます。病原と言ったのは、このことです。病的ナルシストは、何も気にしません。都合の悪いことは、その感覚も、脳にも心にも残らないからです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
⑪について。
アンチ諸氏は、相手の発言をそのまま引用した上で、意見を述べてます。
一方、棒氏は、相手の発言を、歪めて要約した上で、否定してます。
ストローマン論法をしてるのは、棒氏の方ですよ。

 
(ネットより)
ストローマン(英: straw man)は、議論において、相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す[1]。ストローマン手法、藁人形論法、案山子論法(かかし論法)ともいう。
1.相手が示した意見を歪め、あるいは一部のみを取り出して解釈し、それを相手が発言したかのように言い返す。
2.さらに発言を引用する形で一見では否定しがたい持論を作り出し、自らの発言の正当性を補強する。
3.相手の意見に同調する不完全な擁護意見を持ち出し、充分な主張・再反論がされたようにみせかける。
4.発言の中から一見関係ありそうな問題や考え方を取り出し、さも相手側の意見はこれを象徴するものとして非難する。
ストローマン(Wiki)
 
楽山は説明をしません。公共お構いなしの怠慢ですが、学があると見せかけるためです。人は、だいたい自分の器に合わせて、生きてゆきます。多くの経験と学習がそうさせるのですが、自己愛者は、学習しないので、自我を拡大して、人より大きく見せて満悦するのです。
 
ストローマン(案山子(かかし)、藁人形)は、楽山です。両手を広げて、世辞を言い、おとしめてくるが、自分は少しも動いていないのです。いつも、圏外から、評論家気取りで書いて、インテリを気取り、独りで満悦する世界に住んでいます。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
⑫について。
引用は最小限に留めるのがルールです。
それなら引用スクショも最小限にするのは当然です。
にも関わらず、棒氏は「都合の良い部分だけスクショ」と、いかにも悪意でしているかのように決め付けてます。
棒氏はこういう邪推、印象操作が多いです。いい加減に止めて下さい。

 
スクショをどうのこうのと言っていますが、楽山は、呆れるような多数の記事を書いたり、偏見を根拠に悪口を言ったり、ルール外の、いかなる手段も使ってきます。個人情報の扱いには、十分、注意してください。楽山は、自分に有利なら、手段を選びません。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏はいつものパターンになってますね。
①棒氏はアンチ批判の長文を書き連ねる
②アンチから論破される
③アンチを愚弄する捨て台詞を吐いて逃げる。自らのツイート削除
④しばらくすると、棒氏はまたアンチ批判を始めて、①②③を繰り返す

 
長文について、楽山に何が言えるのでしょう。楽山が削除しているものは深刻です。・・良心、反省力、責任感、思いやり、共感、修正機能、学習と成長、学者やインテリなど様々な気取り、等々、多くの良きものを捨ててきた楽山です。
 
似たようなことを何度も書いて繰り返すのも楽山の特講です。特に神否定については執拗です。代わりの救いを何も用意できていないのに、楽山は、助言者気取りで書いてきます。楽山のようになったら、人間は終わりだと思います。
 
 

*負けず嫌い
ツイッターをみてると、今も棒氏はアンチ批判を書き続けている。これを止めるつもりは、まったく無いらしい。なかなかの負けず嫌いだ。

 
楽山は「負けず嫌い」ではなく、一切の負けを認めない詭弁屋です。これは、自己愛性人格障害のベースにあり、症状を発現するところの、訂正不能の確信であり、しばしば、非合理で確信が強く訂正不能という妄想の定義に当てはまります。しかも、その内容は現実に影響するところ大です。
 
 ※
 
私は、楽山が書いた文章に表れるところの、私が考えてきた楽山の実像と異なるものや、楽山の体質的な精神の欠陥、そして、人の振り見て我が身を直さない楽山の病質などを、指摘して批判してきました。良心や共感のない者が、どのように暴走するかということを見てきました。
 
やたら長い、または、やたら数が多い、というのが、楽山の書く文章の特徴ですが、一方で、それ以外の文章には、何が言いたいのか分からない、実感のない、とても短い文章もありました。何ごとにも、自分の都合しか考えない自己愛性人格障害らしい筆致と内容と症状になっています。
 
まだまだ説明の足りないところがいっぱいあるでしょうが、神の前に、私は、修正可能の位置にいるつもりですから、楽山のような病的発作ではなく、できるだけ考えて、命があって書けるあいだは、こつことと批判を続けてゆこうと思っています。
 
 
      
                   乱心の装い
 
 
(2022年06月30日)
 
 
 
  イザヤ書抜粋
 
イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 
イザヤ書54:7-8
「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、
大いなるあわれみをもってあなたを集める。
あふれる憤りをもって、
しばしばわが顔を隠したけれども、
とこしえのいつくしみをもって、
あなたをあわれむ」と
あなたをあがなわれる主は言われる。
 
イザヤ書57:15より
わたしは高く、聖なる所に住み、
また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、
砕けたる者の心をいかす。
 
イザヤ書60:15
あなたは捨てられ、憎まれて、
その中を過ぎる者もなかったが、
わたしはあなたを、とこしえの誇(ほこり)、
世々の喜びとする。
 
 
  イザヤ書53抜粋
 
53:3
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
 
一人称を用いるので恐縮ですが
 

お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って辻褄を合わせ
説明し納得させ了承を得る必要がどこにあるか!
 」
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
 
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
 
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書があります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
人間性を持たなず、良心を持たず、罪悪感を持たず、妄想的慢心に酔って吠えている楽山は、反省というものを一切しません。楽山は、いつもニヤニヤと笑っており、自信といっても妄想の炎から、的外れに指摘して、自らを省みずに、断罪したつもりです。
 
しかし、ブーメランとして、批判は楽山に帰ってくるのです。楽山に、ふつうの感受性があれば、自分の書いたもののために、立っていられなくなるでしょう。楽山には、当たり前の感受性が備わっていないので、亡者のように闇へ闇へと、燃え尽きてゆくのでしょう。
 
 
 
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  読書3
  
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連と楽山批判がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。他の人々から、読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分で、母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、人生の教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな。理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットの病的ナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのか、それで分かったような書き方をしてよいのか、という問題があります。
 
しかし、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。楽山の言葉を拾ってみると、「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」・・八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。
 
実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。そして、「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」・・どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。
 
悪い意味で、すごいのは、楽山が、唯物論、というデカい言葉を、平然と使っていることです。こういう、学術用語、専門用語を使うのが、楽山の好みであり、気取りであり、見栄なのでしょう。今まで、学問の言葉を好みながら、一方では、学問することをサボってきた楽山ならではのことです。
 
 
(ネットより)唯物論: → Wikiですが、なぜ載せたかピンと来なくなったので、文末へ移動。
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などを表せるはずはないのです。
 
楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。機械論と創造論のことについても、同様でしょう。一般的にも推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになりますが、当然、違います。
 
宗教の知識をいくら学んでも、一生、信仰を知らない人もいます。一方で、聖書の一つの言葉に救われることもあるわけです。
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが、唯物論は、「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
世の中、金や、金や、という意味でしょうか。違うと思います。また、それが革命で良い方向に実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は、まともには動かないと思っているので、あまり興味はありません。物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もないからです。楽山の理屈は、これまで、結局、狭窄した視野から、短絡して出来た決めつけです。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいないと言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけだということです。
 
さらに、楽山が、ずっと心霊について書いてきたことが、半端ながら、楽山の唯物論を、否定しているのです。楽山の、心霊つまりスピリチュアルと、超常カルト妄想と、教祖願望などから、楽山が、唯物論者などとは、到底、思えません。はっきり言って、何も知らないのではないか。
 
いくら、楽山が、聖書とキリスト教について語っても、聖書は、精神衛生の正常な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。史実かどうかとか、言葉の辻褄とかでは、信仰は語れません。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけからの浅い概念を受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、楽山に近づかないでください。
 
 
      
                字面に滑り落ちる者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月29日、再録+加筆)
 
 
 
  わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう。
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学+のお勉強を時々していた。
 
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さとか、
X軸回転体の表面積とか、
高校の時には考えなかったことが
解けたときと似たような感じを覚える。
 
数学は独特の感覚的理解を要求するので、
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない。
 
詩や文学・芸術にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる。
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが、
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない。
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の解放感
を必ず伴なう。
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない。
 
 
  (抜粋)
 
寝食を忘れるほど
夢中になれる好きなこと
とうとう見つからなかったのは
病気の所為(せい)だ
とは言いたくないから
読書家でもない怠け者は
今さら精神的資産を
構築できるはずもなく
今さらのように
生産しない面(つら)
を晒(さら)して
限りある物質的資産を
消費しに出かけるのだが
いけない
そろそろ馬鹿面(ばかづら)丸出しだ
と早々に帰宅し
貪(むさぼ)る
自らを貪り
人を貪っている
 
昔まだ働いていた頃
病院を支える先生と言われて
支えるなんてできない
ぶら下がって生きる
と言い返した
勤続を前提にした冗談だったが
奇(く)しくも文字通り
ぶら下がるだけで生きている
 
生産しない顔が
いかに醜くなるか
何度も鏡で確かめながら
 
残る資産を貪り食い尽くし
食い尽くしたときに罪でも罰でも
生きて地獄でも死んで地獄でも
呆けた私は嘯(うそぶ)くだろう
「私は何不自由なく暮らしました」
 
 
  利口な風
 
弄(まさぐ)る肌より
解(と)け合う心
二十代大学生だった私は
君を抱きたかった
よりも先に
君とじっくり話をしたかった
あのお別れの二十分では話せないことを
読書好きの君と
学問・芸術・学びと遊びについて
贈ることのできるものは
あまりにも少ないだろうが
多くを受けることができただろう
君は理科系を目指していたようだが
文科系の方が向いている
大学に進むべきだ
今からでも遅くはない
 
笑顔で話し込む二人の姿を
何度も夢想したものだ
しかし君は利口な人
結婚という
ごく普通の道を選んだ
私が最初で最後に告白した人
君は利口な女(ひと)
私の欠点を既に見抜いていた
今も詩を書いているのだろうか
どこかで名を上げているのだろうか
フッと解(ほど)けない心で笑う
三十年も昔のことではないか
 
独りで乗ってきた車を降りて
自動販売機へ向かう白髪の
男の背中から
海風は体液を奪い
体質だけを残していった
 
 
 
数学は、数学の感性と理路を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
詩は、詩の感性と発想を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
 
少なくとも日常的な人間の感性と知性を持っている人なら、多くの文章を読むことも書くことも出来るでしょう。ふつうの感性と知性は、学習することで、磨かれます。
 
しかし、その感性と知性を、努力もなしに、妄想的な前提で固定してしまう自己愛性人格障害者には、読んで受け取ることも書くことも、歪んで矮小化されてしまうのです。そういう者が、一人前に書こうとしても、書けないために、嘘を吐いて偉そうに見せたり、詭弁で誘導するしかなくなります。
 
体質的な自己愛者は、丁寧語や、優しそうな言葉で、取り入って、婉曲表現の多い文章に、よく読めば、偏った思想の流れが見えてくるのです。遣り取りとしていると、学習の欠乏と、筋の通らない妄想的な内容や、隠された怨念や攻撃性が表れることがあります。
 
自己愛者は、他者の意見を受け取らずに、自分の意見を繰り返し、手を変え品を変えて言ってきますが。訂正不能であるばかりでなく、小学生のように幼稚な内容を、学者の名前でごまかして、知識人を気取る有り様が、その未発達な異常性を見抜くきっかけになるでしょう。
 
人間は、他者の意見を受け取って、不十分ながら理解したうえで、責任をもって、つまり、間違ったら訂正や反省をすることを通して、言論を生かしてゆくでしょう。少なくとも努力の姿勢が見えてくるはずです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、それがありません。
 
しかしながら、自己愛者が、こちらの疑問に全く答えられず、反論も弁明も出来ないだけでなく、さらに、何も理解しないまま、自己顕示欲だけから、気取りだけで、学問や学派や学者を語る様は、とても醜いものです。そういう意味では、自己愛者は、現実のホラーと言ってもよいくらいです。
 
反省を全くしないこと、人のことばかり言い、人のせいにばかりすることから、自己愛者だと知ったら、その者が、決定的な破綻をきたす前に、出会ったら、逃げること、関わらないことを、お勧めします。ひどくなれば、犯罪に結びつきやすいと思います。
 
ドラマなどに出てくるような、怒りと笑いと芝居だけで出来ているような犯罪者は、自己愛性人格障害、人格破綻者、精神病質、サイコパス、情性欠如者、などと呼ばれます。似たようなものです。病識と自覚は全く見られませんが、謙虚芝居をすることがあります。くれぐれも警戒してください。
 
 
俗にナルシストと言われる人の中には、単なる自慢好きも含まれているかもしれません。そういう人と、自己愛性人格障害者という病的ナルシストの違いですが、前者は、人が困っていたり、のっぴきならない事態であるときには、それを感受して、一気に実直になれることでしょう。
 
後者の病的ナルシストは、いかなる事態にも、どんなに人が迷惑していても、それ以前と同じように、平然と、自己愛からの発信を続けるだろうと思います。その経過は、批判を開始してから3年余り、変わりなく、謙虚を装って、ときに笑いながら、自慢を続けてきた楽山に、如実に表れてきました。
 
病的自己愛者には、ブレーキがかかることはないのですが、都合が悪くなって、様子を見たり、やり方を変えてみたりはあると思います。それは、反省とは全く異なるもので、策の練り直しであり、狡猾な精神の表れなのです。
 
 
 

2021年06月26日
三島由紀夫の霊言?
「幸福の科学とは何だろう?」ブログ by 楽山
http://mmknky21.blog.jp/archives/10035931.html

 
楽山は、この記事で、ORによる「三島由紀夫の霊言」なるものへのリンクを貼っています。それが、どうだとかは、書かずに、リンク付けて、何が言いたいのでしょうか。楽山自身と共通点のある教祖のことを書いて、おかしいでしょ・・と言いたいのでしょうか。見るがよい・・だけでしょうか。
 
個人メールか、宣伝ビラのような考えでしょうか。書けば、見る、見れば、分かる、という気安さで書いて、ブログで発信することの公共性を、ほとんど考えない楽山です。
 
 
 
(ネットより)唯物論:参考までに。
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
 (省略)
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
学びも不十分で、センスも乏しく、苦手な分野のことには、ふつう余計な口は慎むものです。しかし、楽山は、おおよそ、自身が、信仰を持たず分かってもいないキリスト教について、殆ど、アニメ的な超常話の具材にしています。どうか、この無神教カルトの度外れた曲解に付き合わないでください。
 
 
 
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