2018年5月2日(水) 18:01 園原由希
かんもくネットから「5月の場面緘黙啓発月間」といういうことで、新リーフレットのお知らせが来ました。
経験者として発信する責任が私にもあるなと思い、今回ブログに個人的な体験談として書くことを決めました。
歩くこと、食べること、笑うこと。人間には様々な行為があって、その中に「話すこと」も含まれている。「話す」という行為は、歩いたり、食べたりすることと同じように、身体に何らかの障がいを持ち合わせていない「普通」の人間には「当たり前」にできること。そのような概念を世界は私に押し付けてきた。「話したくても話せない」私に対して。
言葉を発しようとしても、舌が張り付いたように動かない。辛うじて言葉を発しても、小さい声しか出せなくて、誰の耳にも届かない。
答えが「はい」「いいえ」で答えられないような質問をされると、私の頭は「こう言ったら相手にどう受け止められるのか」と色々な思考が渦巻いて、言葉に詰まり、相手との間に恐ろしい沈黙の時間が訪れる。「なんとか答えなきゃ」と思うとまた緊張して、ますます声を出すのが難しくなるという悪循環。
今でも、他人との他愛無い会話をすることに、苦手意識があります。
場面かん黙は、言葉に対して知能が劣っている訳ではないことを知って欲しいです。
私の得意科目は国語でした。授業中に教科書の音読をすることはできたし、むしろ好きなほうでした。本を読むことが好きで、私は毎週のように近所の図書館に通いつめていました。友達と遊べない代わりに、本の世界に浸ることで、ネガティヴで暗い現実から逃げて、自分を必死に守っていました。
皆んなにとって当たり前の行為である「話すこと」が、私にとっては恐ろしく困難な行為でした。伝えたい思いはあるのに、話すことができない。そんな自分を変えたいと、何度も思ったけど、変わる力は私にはありませんでした。
休み時間、クラスの子は仲良しグループで楽しげに遊んでるけど、私は自分の机に着いたまま、身動きもできない。周りに見られて、どう思われてるか気になって怖い時は、トイレに閉じこもっていたりしました。「学校に来ていて、楽しいの?」と聞かれたこともありました。
私にとって、困難なことの方が多いから、学校に行くのは苦痛でした。学校は勉強するために行くところだと割り切っていました。勉強は得意だったから、テストで良い点数を取ることで、優越感を得て、自分の価値を保っていました。それも今思えば、高慢だったと思うけれど。
もちろん、私のことを気にかけて、話しかけてくれるクラスの子がいたこともあって、その人たちの名前や思い出は今も残っていて感謝しています。
話しかけてくれるのは、嬉しかったです。だけど、とても緊張する瞬間だったので、上手く話せてるかどうか、相手に嫌われてないだろうかと、不安になることもありました。
話せないことは、私の能力が劣っていて、自分の心が弱いせいだと、ずっと自分を責めていました。変われない自分にいつも失望していました。
しかし、そうではないという事実を知りました。
それは、私がクリスチャンになって、この場面かん黙の症状もほぼ治って来た段階になってのことでした。
それから、色々な思いが頭をよぎりました。小学校の頃に、先生や親が気付いてくれて、専門の病院で診てもらって、治療してもらえたら。もっと早く話せるようになって、辛い苦しい思いをしなくても済んだのにと。
私が場面緘黙に伴って抱えていたのは、自分にはどこにも居場所がない、必要とされてない、という所属感の欠如。そして、友達ができないという孤独感でした。
場面かん黙の長年の影響下のせいでしょうか。人より不安を感じやすい弱さが今でもあります。
最近、ショックな出来事があって、色々と不安になることが多くなって、気持ちが塞ぎ込み、気持ちを切り替えることができずにいました。
教会の先生や友達は「祈れば大丈夫」「楽しいことして、気持ち切り替えていこうよ」って励ましてくれるけど、祈っても祈っても、心は不安で、喜びがありませんでした。
「神様は、私のことを愛してくれてない、計画なんてない」って天を仰いで嘆いていました。
この弱さに否が応でも向き合わされて、苦しかったけれど、この苦しみは決して無駄にならないと、ようやく心で理解することができました。
神様の愛も計画もないなんて思ってしまって、不信仰でわがままでした。
自分一人だけ苦しみに浸っていて、俯いて、周りが見えてなかったけど、顔を上げてみたら、私は色んな人たちに支えられているのだと気付きました。
私のことを信頼して、一緒に働きを担い、共に祈り励ましてくれる教会の仲間。
「一人じゃないよって」って言葉をかけてくれる、愛してくれる、大切な人。
感謝することで、心に平安が戻ってきました。
この苦しみを体験したからこそ、今苦しんでいる人たちに共感することができるから。その人たちの助けになれると思うから。
ただし、私もまだ癒されてない部分や、変えられていない弱さがあるから、今はこの弱さと上手く付き合っていく方法を模索中です。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです」(コリントの手紙第二 12:9-10)
この聖書の言葉通りに、私はまだまだ、自分の弱さから逃げてばかりだけど、もっと自分の弱さを誇って、私の内にキリストの力が宿るようにしていけたらと願います。
場面かん黙のこと、社会的にも、また私自身にとってもまだまた知らないことが多いので、私も学びながら、何か自分に出来ること、探していけたらな、と思ってます。
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