2018年夏に散策した時の記事です
この日は講談を観に光市にやってまいりました
開演まで時間があったので、近くの光市文化センターへ
光市のマンホール
虹ヶ浜と黒松、ヨット
光市の文化センターの館内を初めて見学させていただいたんだけど、市内の遺跡からの出土品や冠天満宮の棟札や民俗資料、郷土ゆかりの偉人たちの資料が展示されていたのね
その中には、戦国武将の清水宗治のものも展示されていてびっくりしたよ
備中高松城の城主だった清水宗治
秀吉の水攻めで城兵5千人の命と引き換えに自刃したのは有名な話だよね
いや、私、忘れてた
宗治所用と伝わる六十二間小星兜
毛利氏側について小早川隆景に属していたんだっけね
天下統一を進める織田信長の家臣、羽柴秀吉に宇喜多勢が加わって中国攻めをした時、宗治は高松城に籠城
秀吉側から再三の降伏を求められるんだけど応じず、黒田官兵衛の策もあって高松城の水攻めが行われちゃうの
そのうち本能寺の変があって、慌てた秀吉は宗治を自刃させることによって毛利氏と講和を結ぼうとしたのね
結果的に宗治は切腹するんだけど、その作法は後世まで伝わる切腹の手本となったって言われているわ
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
宗治は自刃の前に、息子源三郎(のちの景治)に書状を残してたんだね
今でいったら遺言状みたいなものかしら
これね、景治がいつも持ち歩いていたみたいで、萩のお屋敷で亡くなった時も御守り袋から出てきたんですって
宗治のコーナーに、何故か清水親知の石膏レリーフ像
幕末に22歳にして家老格に抜擢され、禁門の変の責任で謹慎をし、高杉晋作が挙兵すると報復処刑で俗論派からの藩命で切腹した清水さん
明治33年に山口市の亀山公園に建てられた長州藩主毛利敬親と元徳(世子)、3支藩主と岩国藩主の6基の銅像があって、敬親公の台座には禁門の変の責任で自刃させられた3家老(益田・福原・国司)と清水さんのブロンズのレリーフ像が嵌め込まれていたんだそう
でも昭和19年に全部、兵器用材として撤去されちゃったの
これはその時のブロンズの原型で作られてて、親族へ譲渡用にと石膏で出来ているんだって
でも、まだこの時、私全然気付かなかったんだけど、
え、清水親知…清水…あっ
清水親知って、清水宗治から数えて12代目の子孫だったのか━━━━━
他に、高橋利兵衛の遺書が展示されてたよ
文久の時代のもので、幕末のその頃、薩長は仲が悪くて、田布施の沖で高橋利兵衛の仲間二人が薩摩藩の商船を狙って荷主の首をはねて、陸に揚がった荷物も焼いてしまったのね
懲らしめのために首級を京の市中に晒そうとしたんだけど果たせず、二人は大阪で罪状の高札を立て切腹
それを知った利兵衛は、二人と行動を共に出来なかったことを悔やみ、上関町で切腹したんだそうよ
利兵衛は、上関で義勇隊が結成された時に本営詰めを命じられてた人だったんだね
初めて聞く名前だし、初めて聞くエピソードなんだけど、
これって…薩摩側が攘夷と唱えながら外夷と通商していることに怒っての行動でしょ?
なんだかなぁ…
おまけに切腹した三人、上関三士として靖国神社に祀られてるらしい
これ、地元で英雄視されてるの?
そもそも靖国神社に祀られてるって意味わからん
( ̄ b ̄) シーーッ!!