旧瑠璃光寺跡/山口県山口市仁保下郷 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

2017年10月8日散策/旧瑠璃光寺跡


引き続き、仁保からの帰り道
近くだっていうから瑠璃光寺跡を見てきたよ

現在は斎場になっているのね
オッパん家もここの斎場を利用しているみたい

この日は敷地内の道路をカマキリ君達がやたらと横断していて、大丈夫かな轢かれないでね汗
車の通りはやはり、そこは斎場
静かなんだけど、押し花のようになってしまったカマキリ君の姿もチラホラ

でも、大丈夫
斎場だから(は?

きっとカマキリ先生(誰だよ)が見たら悲しむね


お、綺麗に整備されてる
旧瑠璃光寺の流れは、ざっとこんな感じかな
うまく纏まるかどうかブッ

室町幕府8代将軍足利義政の後継者を巡って勃発した、それぞれ支持する地方大名達を巻き込んでの東西に分かれてなんと11年に渡って争った応仁の乱

応仁元年(1467)29代大内政弘が応仁の乱で京都に出兵し、大内一族の陶弘房(6代)も従軍したんだけど、陶氏は翌年に相国寺合戦で討死してしまうの
相国寺合戦は応仁の乱の戦いの中でも一番の激戦だったって云われているね

因みに水墨画家の…あれ?禅僧だっけ?がびょーん雪舟は相国寺出身だと伝わっているわ
相国寺=萬年山相國承天禅寺、臨済宗のお寺ですね

え?相国寺って、桂宮家の菩提寺になってるの?へぇ~~~
桂宮家って明治時代には断絶してしまったけど皇族だっだみたいだよおぉ!


陶氏が亡くなってしまったので、その奥様の妙栄(12代仁保盛郷の娘)は、夫の菩提を弔うために、文明3年(1471)仁保の小高野に安養寺を創建
25回忌の明応元年(1492)次男の弘詮(右田弘詮)は安養寺を廃し、その近くに一寺を建立して、父弘房の戒名(瑠璃光寺殿文月道周大禅定門)から瑠璃光寺としたと云われているわ
明応8年(1499)伽藍が焼失してしまったので、土井香ノ石(現在のここか)に再建

その後の陶氏はというと、長男弘護が13歳で継いで翌年元服している(正室は益田兼堯の娘)
弘護と弘詮の兄弟は、よく出来た息子達だったらしいわよ

大内政弘が応仁の乱で京都滞在中に、政弘の叔父教幸(大内氏28代となって継ぐことが出来なかった教幸は出家して大内道頓を名乗ることになり、家督を継いだ教弘とその子29代政弘の補佐役となっている)と弘護は留守を守っていたんだけど、道頓は8代将軍足利義政に唆されて大内道頓の乱を起こしてしまうの

弘護は道頓の反乱を抑えて追い込み、没落させたんだけど、京都から帰ってきた政弘が諸将の慰労のために開いた宴席上で(山口築山館)、弘護は吉見信頼に斬られ死亡
吉見信頼もその場で内藤弘矩に斬られてしまう事件が起きてしまうの

弘護の権勢の強さに不安を抱くようになったのかな
もしかしたら背後には、大内政弘が関わっているのかもしれないと云われているの


その後、

内藤弘矩の娘は30代大内義興の正室となり、最後の当主となる大内義隆を産んでいてね

陶弘護のあとは子の興房が継いでいて、弘護の弟の右田弘詮の娘を正室に迎え、陶晴賢が生まれている
陶晴賢は大内義隆に謀反を働き、大寧寺の変を起こしていて、その後は毛利氏と厳島の戦いで自害しちゃってからは、陶氏は急速に衰退
最後は陶氏の嫡流は断絶しちゃったんだけど、傍流で現在は宇野家とかがあるのかな

最後まで道頓に従っていた仁保弘名(父は仁保盛安)
彼は大内政弘が梟首しているんだけどさ~梟首ってねぇ、はねた首を台に載せて3日間見せしめとして晒しものにする、いわゆる公開処刑のことだよ

大内道頓はというと、豊前国へ逃亡し消息は不明となったんだけど、道頓の子・大内任世は尾張国へ移住
その子孫の重政は、尾張織田家家臣の佐久間正勝の家臣となって、その後徳川家康に仕えて、初代牛久藩となって明治まで続いているね


途中ね、天正14年(1586)に吉川元春の牌所となってしまったけれど、元禄3年(1690)山口の香積寺跡(五重塔がある香山公園)に移るまでの約200年間、この地にあったんだそうよ

遺跡として、瑠璃光寺が移るまでの初代から20代までの住職のお墓と、本堂裏にあった池だけが現存しているみたい

って、だらだらと書いてみたものの、書きながらワケわからん
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \


でさ、これ↑;`;:゙;`(;゚;ж;゚; )ブッ


ぺこぺこり


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