所郁太郎の墓/山口県山口市吉敷 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

5月4日散策/所郁太郎の墓


そういえば、まだ所郁太郎さんのお墓には行ってないよね~ってなって、確か吉敷にあるはず…と、ちょっとぶらぶらカップルダッシュ



吉敷を歩くといつも思うの
お花がいっぱ~いヾ(o´∀`o)ノ

竹をプランターにして、こうゆうの素敵だよねきら



初めて見るお花もあって、ただお散歩しているだけなんだけど、全然飽きない



ちょっと遠出してあやめや菖蒲園とか行かなくても、ここで十分楽しめる



あ、あったひらめき

所さんといったら、井上聞多(井上馨)遭難の際に、治療した人物として知られているよね



いや、しかし
六地蔵ばかり、あちこちにあるんだけど汗汗汗

今まで気にしたこともなかったんだけど、そうゆうものなのかしら



あった、あった
ここは吉敷上東にある三舞墓地

所郁太郎さんは、天保9年(1838)美濃赤坂(岐阜県)の矢橋亦一の四男に生まれ、医師所伊織の養子となり、業を継いでいる

雅号は日本狂生、変名を石川春斎

大阪の緒方洪庵に学び、西洋医学の外科を志したの
適塾といえば長州の大村益次郎(村田蔵六)がいるねほのぼの

郁太郎さんを見いだしたのは木戸さんで、ちょうど長州藩京都屋敷付けの外科医が欲しかったらしく、それで京都に出てくるんだけど、さっそく木戸さんは推挙の理由を本藩の麻田公輔(周布政之助)に報告して、藩主毛利敬親から正式にお雇格となったのよね

この日、家老の益田右衛門介から「尊王攘夷医師尽力相優れ候由相聞え候間、此の方へ召し抱へられ候」と申し渡され、翌日には藩主敬親公にお目見えとなって、寺社組支配、遊撃隊参謀並びに医院総長に就任している

イギリスから帰国した伊藤博文と井上馨は4カ国講和談判の時、井上さんは藩主お目見えがかなっているけど、足軽出身の伊藤さんはかなわなかったのよ汗

他藩の郁太郎さんが召し抱えられた上に、お目見え扱いされたことは異例のこと



それで長州藩邸近くに開業したんだけど、藩士が多く治療を受け、しだいに彼らと交わって国事に奔走することになるの

長州藩は文久3年(1863)の8・18の政変、翌年の池田屋事件で同志を失い、禁門の変で敗れ八方塞がりの状態になってしまって、

京都を追われ、長州に逃れて、吉敷村新町で開業するの
以来、吉敷毛利家の革新派と行動を共にするんだけど、

そんな中、元治元年(1864)に井上馨が袖解橋で襲われた際には手術をして彼を助けたことは有名な話だよね

深手を負った井上さんは苦しまぎれに「介錯してくれ」と頼み、兄の五郎三郎が刀に手をかけると、母お勝が諌めてるところに、郁太郎さんが駆けつけたのよね

郁太郎は外科医だしね(*´∀`*)ノ
従者の所丁輔さんらと、畳針を焼酎で消毒して、縫いあわせるのに4時間もかかったそうよ

この適切な応急処置をして一命を救っているんだよね(*'∀`*)vおんぷ



その年の12月に、下関功山寺で高杉晋作が決起した際、即座に付き従ったのは伊藤博文率いる力士隊と、所郁太郎率いる遊撃隊だったと云われている

慶応元年(1865)内訌戦のとき、郁太郎さんは遊撃隊参謀となったんだけど、その年の3月俄かに病み、吉敷の陣中(円正寺)において亡くなっている

腸チフスだったみたい…

明治維新の幕が切って落とされる直前だったのにね
 
お墓はここと、岐阜県大垣市赤坂の妙法寺にある
明治2年京都霊山に祀られ、明治31年従四位を追贈し、生前の功労を称えられている



防府の桑山にある護国神社の招魂場にも、郁太郎さんの墓碑があったよ

山口市湯田温泉にある井上公園にも、郁太郎顕彰碑が井上馨の銅像の側に建っている


司馬遼太郎の「無名の人」
実はまだ読んだことが多分、ない汗
いつか必ず読もう

それよりも緒方洪庵の適塾には、所郁太郎さん、福沢諭吉、大村益次郎…の他に手塚治虫のマンガ「陽だまりの樹」に出てくる手塚治虫の曽祖父手塚良庵も居たっていうことをすっかり忘れてたよ

大人になってから陽だまりの樹を読んでるんだけど、そっか~あれは幕末の話だったのか(今さら汗汗汗

…読み直そう顔に縦線


ぺこぺこり


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今日はお母さんのお誕生日
生きていたら何歳になっていたのかなぁ

なかなかお墓参りへ行けなくてごめんなさい
お誕生日おめでとう