上堅地蔵尊/山口県山口市上竪小路 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

10月30日散策/上堅地蔵尊


駐屯地の帰りは、一の坂川沿いを歩いて帰るよカップルおんぷ

今日は清々しいくらいの秋晴れ太陽
山口の紅葉はまだまだだね汗

川を流れる音がキラキラしていて品があって、一の坂川って好きだな



近いうちに、レジャーシ-ト持ってお弁当、水筒持って、一の坂川の水の音を聞きながら、のんびり読書したいな

オッパは絵を描いたりもいいかもね

たまにはそんな日もいいな



こっちでは珍しいフツ-のコスモス

いや汗だってさ~汗
山口って土地柄、み-んなみかん色してるんだもん
ガ-ドレ-ルもみかん色
コスモスもみかん色

桃色のコスモスを見ると、なんかホッとするブッブッブッ

萩市に至っては、街並み茶色だからね´艸`



いつも車で通りかかる所に、気になるお堂があるんだけど、車だと駐車出来る場所がないし、毎回素通りしていたんだ

やっと行けた(*ノ∀`)ペチッ

屋根には大内菱
絶対、大内氏ゆかりあるお堂だよね



上堅地蔵

説明板によると、

この堂に安置の地蔵菩薩は、大内弘直卿が一刀三礼して彫られた霊像で、みずから朝夕礼拝され天下泰平、家内安全を祈られたといいます

弘直卿は後醍醐天皇の為に尽くした南朝の忠臣ですが、石見国で戦死しました

その後弘直の兄、大内氏二十三代の弘幸卿は茶臼山に堂宇を建立してこの尊像を安置しました

大内氏二十九代の当主政弘卿の時、一の坂の惣田に堂宇を建て本尊をまつりました

この堂は屋根を板で葺いてあったので、板堂といわれ、後にこの地に板堂の名が残りました



毛利輝元卿の時代、一の坂銀山が繁栄していた頃には、その祈願所となりました

江戸時代明暦二年に一の坂に大火があり、焔がすでに堂に及びそうになった時、地蔵尊は身からたちまち光を放って、この上堅の地へ飛来されました

人びとは有難く思い、ここに堂宇を建てて地蔵尊を安置しました

それで今も尊像の背にはその時の焼痕があるといいます

このような尊い由来がある地蔵尊ですから、現在も天下泰平、家内安全、富貴長命火難除けの神様として尊崇されています



附記として、

このお堂は九号バイパスの用地内にあったため、やむなくこの地に移転したものです

平成二年八月吉日 (宗)龍福寺 合掌


龍福寺Σ(・ω・ノ)ノ
近いから、よし行ってみよう(*'∀`*)vおんぷ



龍福寺参道

あれ、まだ全然、色づいてないね汗
ここは紅葉が綺麗なんだ~♪



龍福寺は、もともとは山口市白石の地にあったんだけど、天文20年(1551)に兵火にかかり、そのままになっていたものを弘治3年(1557)に毛利隆元が大内義弘の菩提を弔うためにこの地に再興したんだよね

明治14年(1881)には火災に遭い、ほとんどの建物が焼失
そのため、吉敷郡大内村(現・山口市大内御堀)の大内家の氏寺だった天台宗興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗龍福寺本堂へ改造したんだとか



この本堂は文明11年(1479)に建立されたと伝わっているんだけど、平成17年から平成23年にかけて大規模な保存修理工事が行われて今に至るわ



境内は、中世大内氏の居館の跡地で、大内氏はここで200年間余り政務を執ったと伝えられている

天文18年(1549)には、毛利元就が元春・隆景のニ子を連れてこの大内館に参上し、大いに歓待されたという



境内には大内義隆の複製の供養塔があるけれど、本物は長門市大寧寺にあるわ

今年の夏に大寧寺へ行ったね~(*'∀`*)vおんぷ



大内義隆の辞世の句が刻まれた石碑

「討つ人も討たるゝ人も諸ともに
如露亦如電応作如是観」

天文20年、重臣陶晴賢の謀叛により義隆公は大内氏館から長門市にある大寧寺に逃れ、自刃されている

享年45才
 


「敵も味方も人の命は露のようにまた稲妻のようにはかない」



本堂前にある銀杏の樹も、まだ全然青々としていたわ

唯一、秋を感じたのは烏瓜かな
烏瓜って美味しそうに見えるけど、食べられないんだってね汗汗汗

ああ…お腹空いたな
わたしは断然、食欲の秋だねブッ


それから…



11月6日
わたし、今日から写経始めましたブッブッブッ


ぺこぺこり


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