十朋亭/山口県山口市下竪小路 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

11月1日散策/十朋亭


やっと、やっと、連れてってもらったぉ(*'∀`*)v音符

山口へ引っ越してきて半年経つのに、まだ全然、ひとりでお買い物すら近所のアルクしか行けないからね( ´艸`)爆笑

だからこういう近所の史跡巡りでさえも、オッパが居ないと不可能なわけで汗

よかったぁぁぁ
わたしの旦那さんが、こういう歴史散策が嫌いな人じゃなくて
。+゚(*ノ∀`)ペチッ



ついに行ってきたよ十朋亭Iきら

十朋亭って、山口市内の明治維新の遺構のひとつだよねキラキラ
江戸時代の民家建築としても価値が高く、市指定文化財になってるの
おまけにあまり手を加えずに当時のまま残されているのも、市内でもあまり無いんですって

ここは代々醤油製造を業とする萬代家の離れとして建てられたもので、十朋亭は1800年頃に建てられたものじゃないかって云われているの

文久3年4月、藩主毛利敬親は萩から山口へ藩庁を移したよね
そのために多くの役人が萩から山口へ移るんだけど、急なことだったから家屋敷の用意ができない

そこで山口の民家の中から役人の宿泊所を選んだそうよポイントあっっ

十朋亭はその中のひとつ、ってことなのねらぶ②なるほど~


徳川時代中期以降って、世の中も安定に向かっていたから、当時の文化人たちの多くが自己の見聞を広めるために全国を旅していたじゃない

だけど、支援者や後援者が居ないし、生活の資金に困っていた人が多くて、旅先の地方の有力者やお金持ちのお家でお世話になって、そのお礼として画や書を書き残して次の旅に出かけたって伝えられているよね

この離れ座敷的な十朋亭が完成した時、萬代家に滞在していた人物が当時の文化人の一人で大阪の儒学者、篠崎小竹(1781-1851)だったそうなの

それで、萬代家三代目の利兵衛さんは小竹にこの離れの命名を頼んだんだって



篠崎小竹は儒学者だったからね
萬代家の商号「亀屋」と、中国の古典の一つ「易経」の一文

「益之。十朋之亀、弗克違。元吉」

とを組み合わせて「十朋亭」って命名したみたい

この易経の意味は
「十朋之亀」は非常に高価な亀のことで、古代の占いに用いた高貴な霊亀(十朋の亀)で占っても間違いのない、保証された益である

この額はその小竹が書いたものらしいわキラキラ

小竹って、当時関西で最多の子弟を抱えた人気儒者で、とても面倒見がよく、おおらかな人柄から関西の儒学界のボス的な存在だったらしいわかおへぇ~


当時の長州藩主の毛利氏が、政庁を萩から山口に移しちゃったもんだから、それに伴って多くのお役人さんの家屋敷が必要になっちゃったんだもんね

急に用意もできないしね(´-┃チラッ
藩として山口の民家の中から役人の宿泊所を選ぶしかなかったわけね

萬代利兵衛さんは随分と志士達の活動を援護していたのね

当時、藩の重役だった「周布政之助」が最初の宿泊人なんですって



お座敷は二間あるんだけど、そこには小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎など、維新の志士の名が連なっていたわ

桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、坪井九衛門、富永有隣、来島又兵衛、白根多助、井上馨、伊藤博文、山形有朋、等…

長州藩士以外にも、久留米の真木和泉、菊四郎父子、土佐の土方久元、津和野の福羽美静、常陸笠間、加藤桜老…

維新後は、杉民治(吉田松陰の兄)、久保断三、林喜八、正木基介等が居住していたみたい

長州藩を救うために、多くの志士がここで会談してるのねお~スゴ~いキラキラ



当主の利兵衛さんって商才に優れていて、家業を継ぐかたわら藩の要請で貿易品の取扱所である「越荷方会所」の頭取を務めていたらしいの

幕末の藩の軍資金集めに尽くして、人の面倒見もよくて、十朋亭に滞在していた当時の若い武士たちの面倒を、親身になってお世話されていたみたい

十朋亭で生活していた人々が、後に明治政府の中核で活躍することとなるんだけど、その後も萬代家には大変お世話になりましたっていうお礼も込めて、年祝の書や自筆の書き物が届けられたそうよ

それを萬代家では掛軸等にして、今日まで大切に保管されていたんだって



お座敷のスミにある床の間みたいな所には、これってお香の道具かしら

なんか、いいよねぇラブLOVE
レトロで風情あって



この土間は、お座敷二間しかなかったのを、後に増築したみたい

当時はお座敷の前に立ち木が植えられた庭があったらしく、その庭から母屋へと繋がっていたんだって



最初に宿泊したのが藩の重臣、周布政之助→大阪へ

次に宿泊したのが水戸藩の儒者加藤有隣→日記にはこの十朋亭の様子が書かれている

「三室並び構へて至て清楚可愛。床上額字は頼惟寛(※頼山陽の父)之書『徳日新萬邦惟懐』とあり。又書幅は、尾二洲(※尾藤二洲。寛政三博士の一人)の書にて『人閑知晝永花落見春深』との十字也。畫壁は米家(中国の絵画様式)の山水にて、逸峰名草芳(※名草逸峰。尊王攘夷を唱えた紀伊の画家)の畫、『烟雨糢糊裡、有無前後山、忽然失行路、四面水潺湲』と云ふ賛あり。」



次いで利用したのは久坂玄瑞じゃないかって云われているわ

萬代家には久坂玄瑞の常用湯飲み茶碗と手紙が残されていて、その手紙を訳すると

「今、真木和泉先生が来られました。後で一緒に参りますから、しばらくの間外出しないでください。
中村九郎様 桂小五郎様 久坂玄瑞」
 
久坂玄瑞、真木和泉、中村九郎、桂小五郎の4人は、長州藩が朝廷から排除された八・一八政変の経験者で、このとき4人とも山口に居たから、今後のことを相談していたんじゃないのかしら…



その後、周布政之助は再び山口御茶屋で勤務しているのよね

「万代利平の所に部屋がござります、それに周布様は宿を取ってござる、それに来島又兵衛と云ふ人が待って居らるる。私が供をして帰りますと、先づお互ひにドウかと云ふやうな御言葉で、暫くするとお互ひに烈しい議論で周布様が、其方が京都へ行っても命捨てに行くのみであるから行かぬが宜しいと云はれる。来島様は、是非遣らせて貰ひたいと云ふ事で、詰り金を出して遣らうから行くならば行けと云ふことになって、来島様の方では、私は其事を貫かねば帰る積りでないと云ふ事で御出での事になりまして」

(山口県文書館所蔵「松永伊三郎談話」



来島又兵衛は八・一八政変で京都から追い出されたことを屈辱として、帰藩すると藩の名誉回復の為にも出兵を唱え、その結果禁門の変が起きている

周布は、野山獄中の高杉晋作を訪ねたことで逼塞を命じられたよね



井上馨と伊藤博文が英国留学から帰国

藩の攘夷を止めるために伊藤曰く

「山口に着いて萬代利右衛門と云う町人が居る其家へ二人共行て泊つた」

(末松謙澄編「維新風雲談 : 伊藤・井上二元老直話」より)



そして十朋亭に滞在して、山口御茶屋で藩主をはじめとする重役に攘夷の不可を説いたけど、藩はあくまでも攘夷を行うと決定
 
そうゆう歴史背景が十朋亭にはあるのかな



十朋亭は特に、伊藤博文と井上馨の因縁は深かったみたいね!

2人は勉学のための渡英先であるロンドンで、四カ国連合艦隊が長州を攻撃するという情報が入ったため(のちの下関戦争)急遽帰国

翌年には十朋亭に落ち着いて、帰藩届けを出したって記録されてるわ

その伊藤博文は明治以後も万代家と深く交わっていて、手紙がいっぱい残されているの

その親交をよく表わしているのが

「伊藤博文・井上馨 大杓子」(山口市歴史民俗資料館所蔵)
 

大杓子に2人の寄せ書きって他に見たことがないし、スッゴい珍しいものよねキラキラキラキラキラキラ



縁側っぽい所には、柱に漢字で何かが刻まれているの

これって、オッパが気が付いてわたしに教えてくれたんだけど

案内人の方が
「よくぞ気付いて下さいましたね!これは私も調べているとこなんですよ~」
って( ´艸`)

左右どちらの柱にも、別の漢文?が刻まれているの

こうゆうとこ、オッパは絶対に見逃さないのよねあひゃっうふ



誰が何の為に、どうやって刻んだんだろうね
その漢字の意味も知りたいよね

まだまだ解明されていないものが、ここにはいっぱいある

資料室は改装中で拝見出来なかったから、しばらくしたらまた訪れてみたいな♪

歴史って、面白いのね


ぺこぺこり