「埋もれるよ」 




東京に上京する意思を告げた私に、九州本部副本部長、浜上は断言したように言い放った。

テーブル上で浮き上がるビールの気泡とは対照的に私の心は静かに落ちていった。






 はじまりは八年前、それまで麻雀プロという存在はテレビの中やゲームセンターの中の人というイメージで別世界の人達のように思っていた。しかし、九州本部に入ったばかりの小車に誘われてプロアマリーグに出場すると決勝に残り準優勝。しかし誰にも褒められることはなかった。 





 今ならその理由もわかる。準優勝はしたが圧倒的に雀力で劣り、最終戦オーラス、トータル3位から2位に上がるアガりで優勝者を決めたのだ。アマチュアだった私は麻雀界の常識も知らず、観客の存在も考えていなかった。対局を"創る"という気持ちがカケラもなかった。






 「もし勝ってても何も残らなかったよ。プロになりなよ」  





その小車の言葉に恥ずかしい気持ちが少し薄れた。見放されてもおかしくないことをしたのにこの男はまだ自分のことを評価してくれているのだ。

それまでプロ入りを断っていたが、この時初めて麻雀業界としっかり向き合おうと決めた。 






 プロ試験を受け、研修期間に九州プロリーグとプロアマリーグに参加した。そこで転勤で一時的に九州へやって来ていた羽山という男に出会う。

羽山はアマチュア時代に王位というタイトルを二連覇し、その実力は高く評価されていた。九州でプロ試験を受け、新人のはずなのにまるで名人のような扱いを受けていた。 







 その羽山と同卓したプロアマリーグで、ドラの白をポンした羽山に向かって私がカン7ソウ待ちでリーチを掛けアガり切ると、羽山があんぐりと口を開け、牌姿を見て首を傾げた。 





今ならわかる。同じようなリーチを掛けた後輩がいたら間違いなく「やめた方がいい」と指摘するだろう。だが、この時はアガれる自信があったし、実際アガりきったわけだし何が悪い、そんな反骨的な思考しか持ち合わせていなかった。 







 当時、私と同期の中尾多門は異端ともいえる存在だった。羽山や九州本部の上層部に、あいつらの麻雀はダメだ、そんな陰口を言われているのは、空気や噂で明らかにわかっていた。 






 「自分達の麻雀そんなに悪いですか?」



 中尾に問うと



 「しょうがない。勝ってわからせればいいんよ」




 中尾はそういって笑ってコーヒーを口にした。確かにそうだ。自分の麻雀を主張するには結果を出すしかないのだ。






 そこからCリーグで優勝すると同時に、プロアマ混合リーグでも同期の服部との競合いを制し優勝した私は、九州の特別昇級権利を得た。

研修期間が終わり、プロになると同時にAリーグに上がった。 






 しかしすぐにAリーグの洗礼を浴びることになる。





二節目、浜上と福田、藤原の守備型3人の前に全てを受け流された。待ちが透けているのではないかと思えるほどアタり牌を止められ、カウンターは切れ味抜群。為す術なく完封され▲100ポイント近くが記録された。 





悔しさよりも恥ずかしさしかなかった。嘲笑されてもおかしくない負けっぷりに、洗牌の最中、頭は真っ白ですぐにでも立ち去りたい気持ちに駆られていた。 






 「東谷君、昨日泣いた?」 







 翌日対戦相手だった福田から電話があった。恰幅のいい体型で性格も麻雀も堂々としている。先輩後輩問わず好かれるタイプの男だった。そんな男から電話があり、なんて優しい人だと思いながら、泣いていませんと返した。 







 「ここからだよ。絶対這い上がりなよ」 









 福田の言葉に身体中に電気が走った。まだ始まったばかりなのだ。このままじゃ終わらせない、絶対にやってやる、そう心に誓うと同時に、福田の思いやりに心から感謝した。






そして、そこからすぐに麻雀を変えた。鳴きのタイミングを溜め、打点に重きを置き、"後から攻める"麻雀に変えるとこれが功を奏した。


テンパイはそれまでより遅くなったが手にならない時は諦めやすくなり、手になった時は後手を踏んでも攻めきる。3節目から10節目までほぼオールプラスで決勝まで勝ち上がった。 







 史上最速の皇帝位誕生の可能性。戦前予想ではそんな言葉も出てきたが、優勝者予想に私を推す人など中尾を除きほとんどいなかった。 

それもそのはず。その時決勝に残っていたのは九州本部を立ち上げ時期から支え、"九州三羽烏"と呼ばれていた、浜上、安東、真鍋の3人だったのだ。九州の顔とも呼べる3人を相手にぽっと出の新人が勝てるなんて誰も考えていなかった。 






 当時決勝は二日制の計12半荘。9半荘が終わった時は微差ながらトータルトップになっていたが、そこから地力の差を見せつけられた。負けたがどこか納得している自分がいた。まだ足りないものがあることを自覚できていたからだ。






 次年度も相変わらず麻雀の調子は良かった。大阪に二ヶ月滞在し、関西本部の方々から刺激をもらうと、新人王は予選で大叩きし決勝に残り3位。ドラゴン大王という大会ではゲストで九州入りしていた瀬戸熊を準々決勝で破り優勝。九州Aリーグでも決勝に残り、この時は優勝する自信さえもあった。 





 この頃には、あいつの麻雀はダメだという声もなくなっていた。何人もの人が応援の声を掛けてくれていたし、決勝の会場もホームといっていい場所だった。当時お世話になっていた人、麻雀を教えていた子、たくさんのギャラリーが後ろにいた。 





 初日が終わり有利な位置で迎えた二日目、事件は幾つか起こった。牌の取り直しや親リーチ後の大三元放銃、国士無双の親被りなど、気づけばトータル首位の藤原と大きく離されていた。 

 最後まで諦めきれず、懸命に抗ったが負けた。勝負に負けて涙を流したのは人生で初めてだった。嗚咽がずっと止まらなかった。こんな悔しいことがあっていいのか。まるですべてを失ってしまったかのような喪失感が身を襲った。






もしかしたら傲慢だったのかもしれない。評価が変わってきて、結果も出してきて、どこか有頂天になっていたのかもしれない。 

一年目は周りが敵ばかりに見えていたのに、この時は九州本部の居心地がよくなっていた。このままではダメだ、もしかしたら成長が止まってしまうかもしれない、焦りの気持ちが上京しようという気持ちにさせた。

動くなら年齢的にも今しかないのだ。もしこのまま九州本部にいたらもっと居心地がよくなってもう決断できなくなるもしれない。

もっと広い世界に飛び込み自分を成長させたい、強くなりたい、そう思い浜上に思いを告げたが、浜上は上部だけの言葉を投げるような男ではなかった。






 埋もれるよ、その言葉が今でも頭からこびりついて離れない。 







 (続く)