私は宗教は嫌いだ。
なぜかというと、生きるだけではなく死ぬためにもすがらなければならないからだ。
極端な例がイスラム教だろう。
みなまで言わずとも理解も納得もしていただけるはずなので、中身は省く。
大なり小なり宗教には必ずこういうことがあるので、嫌いなのだ。
ただ、すべての教えが悪いわけではないので、教えそのものをすべて否定するようなことはしない。
今回はその中の一つ、浄土真宗の「幸せ」についてお話しする。
という、とても長々とした前置きをようやく終え、本題に入る。
浄土真宗は、中学校で習う仏教の一つで親鸞という人が作った宗派だというのは周知の事実である。
とあるきっかけでさわりだけ学ぶことになったのだが、その中に
「絶対的幸せと相対的幸せ」
というものがある。
意味は
絶対的幸せ:生涯において(もしかしたら永遠かも)幸せだとかんじること
相対的幸せ:一時だけ幸せに感じること
となっていた。
正直この名付けは気に入らない。
絶対の反語ということで使用したのだろうが、相対的の意味は「他と比較すること」なので、全然相対的ではないからだ。
まんま「一時的幸せ」でいいじゃん!
話が反れるので本題に戻って、私はこの二種類の幸福(私の場合は「嬉しさ」と表現していたが)について高校のときから悩んでいた。
例えば、というか私が最初に感じたのがゲームだ。
プレーしているときは楽しいし、いくつかのでかい難関をクリアするたびに「よしっ」と嬉しくなる。
だが、ラストまでクリアしエンディングになった後はとてもむなしくなる。
(それがわかっているのに、楽しくてまた新しいゲームをプレーしてしまう愚か者なのだが 笑)
ゲームから始まったが、様々な経験をするうちにふと「この世には一生嬉しさ(幸せ)が続くことはないのだろうか?」と疑問を持つようになった。
そんな中出会ったのが、浄土真宗の「絶対的幸福と相対的幸福」だ。
仏教でもこういう哲学的な考えを説くものもあるんだなあと感心し、ようやく私のもやもやも晴れる・・・と思ったのだが、最後の一言でよりむなしくなった。
念仏者は無碍の一道なり
つまり、念仏を唱えて真の信者となれば弥陀に救われ、一切が障りにならない幸福者なのだと。
結局祈りかよ!
絶対的幸福を探す旅は、まだまだ先が長そうだ。