『めがねをなくした。。』と、メガネをかけながら主張する大先輩像”は未来の”第一人称”でしょうか。いつの頃からか”紙”をめくる円滑さが変化してくると、昭和のお店での会計時に、レジ袋を” 指を とある方法で湿らせてから”いとも簡単にめくってみせてくれた大先輩に憧憬を覚えます。

 

さまざまな世代間ギャップがある中で、実は 時の流れで同じ境遇をさらっているような気もします。各世代固有の”先輩度合い”を歓迎して、皆が感謝・尊敬の念で包まれるとよいのでしょうか。

 

<当てはまる数で 先輩度が1~∞>

▼立ちあがるときには必ず『よっこらしょ』(あるいは『どっこいしょ』)と言う。

▼関節にコラーゲン、グルコサミン、コンドロチン、ヒアルロン酸が存在することの重要性を実感してきた。

▼若い世代が頼もしい。

▼見えるものに対する認知レスポンスが変化してきた。

▼認知レスポンスが変化しても、豊富な経験値・経験量によって最適な行動をとる。

 (ex:おばあちゃんの知恵)

▼人には見えないものが見えるようになってきた。

お刺身をおはしでつまみそこねたとき、『。。生きてるよ~』と言いたくなる。

 

このほか、5感センサー類の感度も経年変化するような気もしますが、逆に人脈ネットワークがUPして、開花・繁栄していくのでしょうか。

 

 

 

 

変化】というと、状況に応じて対処してきた歴史的大先輩方の教訓も思いつくのでしょうか。

【不変】というと、”安定”を追求してきた歴史的大先輩方の教訓も思いつくのでしょうか。

 

時間の経過の中で、環境がまったく変化しないことはあるのでしょうか。昨日の気分今日の気分明日の気分すら同じではないような気がします。

 

対極にある双方の両立のために必要な模索はそれなりに必要な感じがしますが、うまく両立すると安心・充実感も満たされるのでしょうか。

 
 

”親友”は、日常の”喜・怒・哀・楽”を共有・共感しあえる存在でしょうか。悩みごとを話すと、勇気づけられる言葉をかけてもらえることも多いような気がします。

 

一方、”親友が発展して” ”家族”になることを想定した場合なのですが、”身内”という状況に変化すると考えると、ひとつの悩みごともこの”身内”で共有されて両者とも同じ悩みをかかえるようになるものなのでしょうか。

 

家族・身内であってもそれぞれ個別に対応することで、お互い異なる悩みを客観的に解決しあえる関係でいることもありなのでしょうか。