2016.9.22 | ST-LOW通信


2016年9月22日 父 具志堅 三男が60歳でこの世を去った



父は宮古島のさらに離島の人口300人足らずの小さな島 来間島で農家の三男として生まれ育った

宮古島の高等学校を卒業した父は島の農業発展を志し島をでて北海道の酪農大学に進学卒業し沖縄県の高等学校の教員になった

高校の同級生だった母と結婚し僕が生まれやがて弟2人も生まれた


父は仕事が好きでいつだって仕事をしている人だった

つねに夢を持ち何事に対しても理想を掲げ着実にそして確実に理想を現実にして行く人だった


父は厳しい人だったがそれ以上に愛のある人だった

農業に対して教育に対して教え子に対して家族に対して父に関わる総ての人や事柄に対しつねに最善の選択を考えその為の努力を厭わない人だった


仕事ばかりしている父を見て育った反動からか
好きなように人生を歩んできた僕は若い頃 度々父とはぶつかったしたくさん迷惑をかけた
だが父はいつも厳しくも理解しヒントをくれた

言葉の持つ力や人との接し方や態度 物事の進め方からちょっとしたジョークまで
父は自ら仕事や人生で体現しシンプルな言葉で何かと僕に何気なく教えてくれた


小学、中学、高校生の頃 よく作文を書かされ発表会やコンクールに出させられた
父は僕が書いた作文にダメだしをして原文の断片も無くなるほど何度も手直しさせて伝えたい事が伝わるま何度も何度も何度も書き直させられた

おかげさまでいつだって賞を獲った


父は我慢強い人だった
一切泣き言は言わずつねに全力で生きる人だった
自らが正しいと思う事は決して曲げなかったが
その為の物事に対しつねに柔軟に対応する姿勢も忘れない人だった
人が喜んでいるのを喜ぶ人だった
弱者の為 正義の為に強く成ろうとする人だった


沖縄県教育庁指導主事、沖縄県内の3校の校長を勤め上げ
今年の4月に父は定年退職をしたが
父の夢はまだまだ終わらなかった

今後は政治の現場から教育や農業を発展させて行こうと理想を掲げてその為の話が着々と進んでいた矢先にガンが見つかった


ガンが見つかり亡くなるまで1ヶ月も無かった

僕らの前では父は自らが急に置かれた状況に対しうろたえる事もふさぎ込む事もせずいつものように冷静にただ静かに状況を受け入れ自らの意思を家族に伝えた

ガンを告知されてからも父はいつものように冗談を交えていつものように人生を語りいつものように厳しくいつものように優しかった


病院で治療の為の検査待ちの間 母が席を外したほんの少しの時間 父と2人きりになったとき父がふいに
「あの子とはどうなった?まだ付き合ってるか?それともほかに違う子がいるか?いま彼女はいるのか?好きな子はいるか?」
と 聞いてきた
「出来たらすぐ紹介するよ」
と精一杯返した僕に
「そうだな、元気な人がいいよ」
と一言だけ言った
思えばそれが僕が生きてきていままでで唯一の最初で最期の父との恋愛話だった


入院した父はほとんどの知人に病気である事の連絡をせず家族親類以外の面会を断り家族といる時間、とくに母と過ごす時間をひたすら大切にした

亡くなる数日前からより体調は悪そうだったがそれでも冗談交じりに亡くなる数分前まで話をしていた
そして9月22日の昼過ぎに母と僕の目の前で息をひきとった


おそらく泣き崩れる母の為におそらくはじめての葬儀にてんやわんやする僕ら兄弟の為にお世話になった親類の為に急な訃報に驚く知人や親友達の為に今後の家族の為に父は多くの言葉や遺言を残していた

そしておそらく父が予想し予定してくれていた通りに父の葬儀は執り行われた


父の生前の同僚の皆様、教え子の皆様、自治会の皆様のご協力もあり告別式は父の生前の遺言通り沖縄市の自宅で執り行う事が出来た


父の教え子だった顔見知りの音楽関係の方も何人かいた
そのとき初めてこの人も教え子だったのかと知る人もいた


告別式の朝方は大雨だったが7時前には虹がかかりその後は暑すぎる晴天だった


父の同僚、知人、友人の皆様、あとから知ったがツイッター等で拡散していただいた元生徒の皆さんのおかげもあり
告別式には1000名以上の方々が御会葬に来て頂いた



多くの皆様にこの場をかりて御礼申し上げます。



具志堅 大