前回の記事みたいな話ってのは
極めて私の内輪事情な要素や色が強いから他者にとっては毒になりかねないし特に歓迎されることもないだろうから外側にはあまり出さずに秘めておこう
とか思っていた系のものなのでしょうし、
それをああやってあまり調整せずに公開したってことは、たぶん以後の私はなるべく多くの人間にとってわかりやすい話というのはしなくなるんじゃないだろうかと感じたのですね、
書きながら同時にそれを読んでいる者として★
そして私は気付くのですね、
私の立ち位置ってスピリチュアルとか癒しというよりは極めてダイレクトに神秘主義とか割と伝統的な思想とか色合いが強いんだろうなと。
そういう意味では私は“オカルトな人”だと認知されるのはどちらかで言えば良いことだと感じるのですよ。
業界内では“誉れ”に近いというか(笑)
(今の世界で)
オカルトという言葉がどのような扱いになっているのかを私はあまり正確に把握してない……というか興味ないので調べてないから知らないのですが(*ノ・∀・`)
私はその言葉を、
隠されたもの
秘されしもの
=隠された叡知
くらいの認識なのです。
ここ最近の記事の内容として続いてきている
異端属性な話みたいな物に関しても、
私の立場(感覚)からすれば、
むしろ私たちの方が正当な時代もあったのだ。
くらいに思ってる気がするのですよ、
過去世的な記憶とか情報とかなんかそういうやつって感じで。
私は思うのです。
現代で正当なスピリチュアルとされている物にもそれ相応の流れや経緯という物があって、
具体的にはその正統性を定めるような者がどこのどんな主義主張の誰かによって決まると考えているのですが。
しかしそういう、
今とは違う時代もあった。
というような考え方や概念てのは多くの場合、
現支配者であるもの……特に正統性を旧支配者と争って獲得したような立ち位置のものにとってはその情報が禁忌に近いものだと思うのですね。
そういう意味で私は“異端の徒”であることを一定レベルで自分に認め受け入れたのです。
バカとハサミは使いよう……というように、
異端という称号には非正統としての使い道や価値ってのが一定レベルであるのでしょうから。
私はそういう一見して毒だけど正しく使えば特効薬にもなる、
みたいな物は個人的にはたぶん好きなのです★
見た目だけで中身=実用性の無い理論
よりは百倍マシです。
見た目だけで中身の無いものってキライなのですよね、合理主義で理論家的な側面としては。
……しかし、
そもそもの目的が、
見た目だけしっかりしてれば十分である。
というような考え方や目的意識でそのようにされている場合には話は別なのですが(笑)
その場合は善悪抜きに見た目だけで中身もあると錯覚させることが目的だろうから、
この上なく正しいのです。
それを気に入るかどうかは別としても。
まぁ実際、
こんな話が展開され認識され受け入れられてゆく中で私は自らのスピリチュアルな資質、特に癒しの力の扱い方だとかを許可し解放していくことができるっていうんですから、
私ってのはそういう構造な人間なのだなと納得するわけですよ。
今ではもう懐かしの?)
セイクレッドクリエイターオラクル、
最近コイツを使ってると今まで全く一度も見かけたことがなかった(あるいは出たとしても認識不可能だった)ようなカードが出てくるのですね💡
特にコレとか、
光るものに惑わされる。
……意味深で良い言葉ですよね~(*´ Δ`* )
この時点で私好みです💓
内容もすごくそれっぽくて良いんですよ。
まさに“異端”属性を受け入れていく現在の私には相応しいお導きだなと。
……個人的にはこんなにも強い言葉は滅多に見かけない気がするのです。
光り輝く けれど 無意味なもの
だよ?
……皮肉が効いてるというか、
その言葉に思わず笑っちゃうというか😁
いやだってさ?
人間として二十歳くらいまで生きてればさ、
世の中の非常に多くのものって実はそういう物だって薄々でも気付くようになるじゃん?
感覚がマヒしてなければ💥
それは確かに、
とても素晴らしくて、
多くの人間に愛されてて、
魅力的で、
その上、良さもわかりやすい!
……でも、だからって、
それを自分にそのまま当てはめようとした時にそれが光り輝いてみえる誰かと同じくらい価値があると感じられるものになるのか?
っていうのは全く別の話。
そしてあの説明↑の続きでは、
光り輝くけど無意味なものの誘惑
に負けないために、どうしたらいですか?
あなたの弱点は何ですか?
そしてそれを克服するためにはどうしたらよいでしょうか?
という言葉が続いてる。
セイクレッドクリエイターオラクルの良さはそこだと思うんだよ。(すべての人にわかりやすいかどうかは別としても)非常に具体的なんだよ。
そこがいい。
私も合理主義を自負する人間として、
具体的で実際的であることをすごく重要視してるように感じてる。
そしてたぶん私は実際に一応なりとも合理的な判断を下してる人間だとわかる。
なんでって、
そうでなければとりとめがないから
だし、
例えば、
“かもしれない”の話ってのはどこまで行ったとしても“かもしれない”でしかなくて、
それについて意見を闘わせて場合によっては揉め事みたいになった後で、まったくの見当違いで揉めるような理由も必要も1つも無かったと知るような体験を私自身相応に繰り返してきたから。
私が好む言葉の1つに、
憶測はたとえ億繰り返したとしてもただの憶測
というような物があるのです💡
……ダジャレのつもりなのかは知らないけど、
憶測と億万のオクの字が同じか違うのかよくわからないよなぁ~
とかなんとか思ってて閃いたものかと。
(特に知りたいと思わないから調べる気は無いので)
っていうような、
上に書いてあるような、
そもそもアレらは一体なんのために書かれているの?
って問われた時に、
自分自身よくわからないと感じるような話
コレを禁じていたわけです。
でもそれを禁じるのを止めたのですね😃
理由はいくつかあると感じます。
しかしそれをわざわざ説明する必要性は特に感じないのですよ。だから説明しない(笑)
そもそも別に私自身がこのような話をブログ上に書いたからといって誰かに読んで欲しいと思っているかどうかは全く別の話なのです┐(´∀`)┌
そして今の私はその部分に関しては特に何も思ってないように感じます。ただの自然現象みたいな物だと思っているのですから。
そこに私個人の意思があっても無くても別にそんなに気にならないのです。特に嫌なわけでもなければそれを良いとか悪いとか判断することに何の意味も価値も感じてないから。
なぜ私がそんな物を判断しなくてはいけないのでしょうか?
別にコレ自体は私の個人的な望みというわけではないけれど、それでも必要で価値があるということは十分に理解しているのです。
そしてそのような理解を他者と共有することには特に重要性も必要性も感じてないのです。
だから、どっちでもいい。
考える気もないし興味もない。
有ってもいいし無くてもいい。
その違いを確認する気もないから。
ただ私はコレを自分自身にとって必要と知っているから受け入れているだけなので、それを知らない他者が同じように受け入れる必要があるとは思っていないのですよ。
だって他者は私じゃないから。
私、あるがままの自分像みたいな物を深く理解するにつれてより強く実感するようになってきているのですが、
どうやら人間としてマインドとしての通常の私ってのはどちらかで言えば分離意識が強めでそれゆえに分離的な振る舞いや考え方に肯定的らしいのですよ😃
でも内面的には超感覚的なのです。
私はスピリチュアリティが骨身に染みてるような人間であり、現代の癒しとかと結び付けられてるようなスピリチュアル思想というよりは最初に書いたような神秘主義者な色が強いらしく、
ある種の神聖性の具現化の1つ
みたいなものとして自分を扱うことに好ましさや相応しさみたいな物を感じているのです。
だから私は、たぶんあんまり自分以外の人間にも場合や側面によっては人間人間としてる自分自身にもそんなに興味ないんだと思うんですね😋
ちなみにその理由は単純明快。
気にしても意味ないから
です。
だから“意味ない”とわかるものは気にしたくないと思っているのに近いのですね。
気にしてもどうにもならんから。
自称合理主義の私は思うのです。
考えてどうにかできる物は考えるべきだし、
考えてどうにもならん物は降参すべきだと。
以前書いたアレと同じことですね、
自分の中に100の想いを見ることがあったらだいたいその中の5個くらいが絶対に諦めちゃいけないものでそれ以外のすべては諦めるべきものだ
みたいな言葉と同じ意味です。
割合的にはそのくらいかなと思うのですよ、
体感3~5%くらい。
まぁそれは済んだ話だからいいとして、
コレらの
一体なぜなんの話をしているのかわからない表現や記録
というのは、
それでも基本的に明確な目的があるのです。
まずは、
なるべく多く
情報を引っ張り出すこと。
コレに関しては基本的に“ハズレ”という物は有り得ないのです。質や真偽は別として情報や可能性をかき集めることに意味があるから👍️✨
一般的な言葉ではアウトプットとか呼ばれてるやつです。場合によってはブレインストーミングと同じようなことしてるとも言えます。
目的は非常に簡単なのですよ。
その上確実なのです。
情報の質を問わずになるべく多くの情報を集めることだから。
だから嘘でも見当違いでも的外れでも錯覚でも妄想でも良いのですよ(笑)
その段階ではね?
というか、
実際に自分でもヒーラーな誰かに手伝ってもらってでもスピリチュアルカウンセリング的な潜在意識とか読み解いてく時ってそういうやり方をするじゃないですか。
最初から目的地?には行き着かなくてもその周りに見えてる関連してるかもしれない部分を辿っていくとやがて核心に行き着くというか。
だからそういう心得がある人間であれば仮に私がこのように何かしらのエゴ的な思考を垂れ流しにしてる極めて無意味に見えなくもない表現を見たとしても、そういう意味で一定レベルの価値がある取り組みだということはわかるもんなのです。
だってある意味では外れが無いから!!
潜在意識を読み解いて何かしらのブロックを解放しようって目的があるならそれに行き着かないやり方は間違いってことになるけど、
なるべく多くの情報集めや特に未知の可能性を得ることを目的としてるなら出てくるものは何でも歓迎に近いわけで。
そういう視点になりやすいこともあって自分自身の潜在意識を読み解いていくよりも他者に対してそれをやることの方が圧倒的に楽なんだと思うのですよ。
フラットな意識であるがままに認めて解放してやりやすくなるから。
……っていう話も、
それで、
私はこんな話を書いて
一体何がしたいんだろうか?
っていう見方をすると的外れなんですね。
だって別にコレ、私が書きたくて書いてるわけじゃないんですから。ただ出てくる情報を洗っているだけなんだから。
そういう意味ではコレも自動書記であり、
それも波動の法則な原理的にはハズレというものも無いと思うのですが、
……ですが?
(完全にわからなくなりました/(^o^)\)
でもまぁコレをやるとスッキリするのです、
脳が。
ブレインウォッシュ
って言うと洗脳で、
現代では違う意味になってしまうけど(笑)
しかしブレインキャンディみたいな物を防ぐ非常に有効な手段だとも言えるのですよ。
それはデイリートレーニングというか、
極めて動的な瞑想というか、
頭がごちゃごちゃしてる=波動的にもごちゃごちゃしたままだと有効な行動が成立しにくいから外側的な行動を起こすよりも前に最小限の行動で内面を整えよう!
みたいな試みだと思うのですよ、
ブレインウォッシュですからね(笑)
そしてそう、
最近はこのブログにまで手が回ってないような気がするんですね。優先順位がかなり下がったというか今までが異常に高かったというか。
自分の正しい置き場所と
使い方がわかった私は
たしかその次に調和的な生き方の術を求めたはずだった気がするのです。
もう少し意味の通る言葉に直すと、
この社会で1人の人間として調和的な現実を生きるための方法論やお導き
って感じのやつ。
そして私はそこで?
エネルギー体に対する癒し、
恐らく、特にエーテル体の層に働きかけ自らを癒す術を身に付けることができるようになって、
じゃあ?
そのような技能を使って主に肉体的な癒しを仕事として提供するようなヒーラーみたいな人間……例えばセラピストの一種としてやっていけば調和するのだろうか???
という所まで来たんだけど、
たぶん今現在の私の思考回路では、
セラピスト=モグリの癒し屋
みたいな認識になってるらしくて。
戒律とか思考回路の禁止ルール(ブロック)に引っかかる限りは私は癒しの術をそのままで使うことができないのだと感じるのです。
だから“癒し”という認識自体も阻害されているのでしょう。
そして私はたぶん新たに何かを望んだのです。
もしかしたら私は今回それに気付かなかったのかもしれない、あまりに自然な心の動きである上にその癒しや解放感が大きかったから。
で、その“何か”であるものの波動を受けながら習得していたのでしょう。
私が扱う癒し……に類する術的な方法論は便利な物ではあるけれど制約というかルールも明確に存在する物なので、まず基本的に自らが習熟することなしに扱えないのです。
癒しを軸にして言うなら、
癒すべき対象が“どのようななにか”という部分が捉えられないと手が出せない。つまりそれは感覚的に言う“見えない”ということだから。
見えないものには手が出せないのです、
どこにある何かわからないから。
逆に言えば、
どんなカタチであれ見えてさえしまえば話は別なわけで、それは体感するということも原理的には全く同じものだから学習することで理解して扱えるようになるのも道理。
認識する、体感するというのは本質的には見ることと同じものだから、そこから辿って見ることができるようになるのです。
本当に持ってないものは認識できないし絶対に見えないし感じ取れないのです。それを知覚するということは意識が重なっているということ。
ならそこから逆に働きかけることも可能と考えるのは無理のないこと。
それらは旧正統派癒しの術であり、
現在では異端の技たる術かもしれない。
でも別にそれでもよいのです。
私は外側の何かと闘っているわけではなくて自らの可能性を開拓するための仮想敵を見ていることがあるだけだと知ってるから。
だと知ってるから~~~
というような話だったこの記事の内容、
ブレーンストーミング的に考えるならこの次の段階で玉石混交な情報が精査されその真価が知られるようになっていくわけで、
どっちかって言うとこの段階の記録はヒトサマに読ませるようなもんじゃなくて走り書きの内部資料みたいなものなんだろなって📝
意味が無いなんてことないし、
重要な話と駄そうな話が混ざってるから読みにくいってくらいの違いでしかないかもだけど、
研究者あるいは術者的感覚ではどっちかって言うとこういう未編集の記録の方が読める者にとっては価値ある物であることが多いように思う。だって余計な調整とかされてないし。
1つ言えることは、アレよ、
基本的にこういう取り組みって一回やったくらいだと情報が集まりきらないってこと。
無意味なんてことは無いし目的のパーツみたいな物は確かにある。でもそれだけじゃ意味を成さないようなカケラでしかない……。
そういうやつ。
でも繰り返すことによって精度が格段に上昇してくのも確実なことだから、この一番最初の面倒な部分をどれだけ手抜きせずに思うままに調整しようとせずに済ませられるかってのが実は腕の見せ所と言えるかもしれない。
わかる者にはわかるが、
それ以外の者にとってはガラクタである。
そしてそれで良いのである。
だからこその秘されしものなのだから。
そもそも私は必要なタイミング以外ではわかりやすく説明する気なんてないし、むしろ煙に巻くくらいのことをする人間だという本質に気付いたのかもしれない。
だから、
❌特に内容が理解されなくて困る
⭕特に内容を理解させる気は無い
という認識のズレに気付いたのだろう。
そもそも秘術なんてものは秘術なんだから多数派の人間に理解できるわけがないのである。もしそうならそれは秘術ではなくただの常識。
だから私は望んだのかもしれない、
理解させるべきことを理解させる力を、
理解すべきでないものを秘する知恵を、
それが私の認められなかった1側面。
秘することの価値。
する必要があることはする、
しない必要があることはしない、
それらは全く同じもの。
そういうことなんだね。
なんかわかりやすく愛とかワンネスとか非分離な感じの思いやり深くて優しい感じのやり方とかは私は使わないんだよ。
だって元の属性が違うから!
それでも同じことはできるんだよ、
本質は同じと知ってるから!!
だから私は分離に寛容だし“支配”な感覚の強い自分でも無駄にジャッジせずに居られるわけよ。
だって男性なら普通のことだもの👍️✨
そしてその外面的な極めて強い分離意識と内面的な極めて強い非分離意識が程よく合わさって実は私はとてもバランスが良い人間という新説が誕生するわけだよ。
良さそうなものと実際に良いものは違うし、
相応しそうなものと実際に相応しい物は違う。
私はそういう極めて超合理主義的なマインドを持つからこそピュアネスなハート(?)とのバランスが取れていわゆるお花畑系スピリチュアル民にならないんだね。
そしてコッチのやり方をすると私は紫色(青)になれるという可能性。
私は、思うことがある。
アイツ、色でしか物事見てないのか?
と、自分に対して。
服装とか(笑)
この記事も次回以降に参考資料として大活躍することでしょう。
私は、ヒーリングだとかエネルギーだとかを自分で修得して扱うことができるようになる代わりに誰かに教わることはできないとかそういう感じのやつなんだと思う。
そしてそれゆえに、同じような効果を発揮するけれど原理は違うものだったりするのである。
でも私はそういうやり方の方が良いと思う。
なぜなら原理から自分で構築しているのならそこそこ可変させても機能するはずで結果的に対象の幅が広くなるのだし、つまりそれは結果的に優秀なヒーラー、あるいはセラピストに仕上がるということだから。
誰から教わるかが重要なんじゃない、
実際に効くことが重要なんだ。
特定の誰かの教えだから正しいんじゃない。実際に相応しい結果を得られるものが正しいんだ。
……まさに異端者の言葉そのものである。
ってわけで、
まずは“異端者”という認識からズラしてく必要がある気がしてて、今はそういうのが波動的なレベルで調整が進んでるんだろなって。
今の私が使えるのは異端の技
あるいは神聖術の発現
だけだから、
効果対象範囲も限られるわけで。
継続しての異端意識の浄化が期待されますね🌠