ようやく、昨日、
この本を読み終わりました。
記録によると
これを購入したのが9月16日なので
この本のメインテーマ?みたいなものになってる8週間の実践コースみたいなものを毎日取り組んでいればちょうど2ヶ月くらいで終わる、
って感じになったような気がしてます😃
この本は、
私がまだこの人生では一度も出会ったことのない、神に委ね神性を受け入れ完全な自分として生きる意思を持ってそれを実際に自分の置かれた運命や宿命の中で実践するとは具体的にどういうやり方をするのか?
そしてそれを実践すると実際にどのような成果を体験することができるのか?
そこら辺が非常~にわかりやすく無駄なく書かれていてすごく素晴らしい本だと感じたのです🙌✨
そうして私は、同時に理解したのです。
この本のタイトルになってるような、
自分であるすべてを神に捧げ返して使うというようなやり方を受け入れられるようになる人間とは、既に“地獄にいるような”苦しみに抗い闘い続けた果てに、
ようやく自分の手には負えない現実を文字通り何とかしてもらうために神の助けと介入を受け入れるようになった時に役に立つものになり現実的なものとして捉えられるようになるのだと。
だから“そこまでいってない人間”には決して理解できないものなんだろうなってことがようやく自分の中で腑に落ちたのです。
私自身は、
こっちの本を頼りに、
2016年から“その流れ”に人生がシフトしたことに気付いていたし、
それから逃れる術も見出だすことはできなかったので抵抗したり四苦八苦したりしながらそういう“コントロールを手放す”という生き方へと進んできたのですが、
今になってようやく、
自分と人生だったものを神に完全に取り扱ってもらうために手放し捧げる
という存在のしかたが可能になった、
そういうことだとわかるのですね😌
なので、
“手放す”という言葉が
何に向けて手放すのか?
という、
全く気付かないような疑問の答えは、
神に捧げるために 手放す。
ということになったわけです💡
まぁその前には必ず、
“神”とは一体?
ってくだりがあるのですが、
人間なら必ず。
そこはこれまでこのブログの中で何年も何百回も繰り返し問われてきたもの。私にとっては既にお腹いっぱいのテーマなのです。
そしてそのことを疑問に感じてる内は絶対に安心して手放すことができないという逆説的な事実もあるとわかるのですね★
なのでその部分が魔境とか佳境とか山場とか正念場とかになって、長ければ何年も何十年も答えを求めてさ迷い歩き続けるような探求の終わりのためのプロセスであり、
私が言う所の“人間卒業試験”みたいなものだと思うのです。
っていうわけで、
こういう“スピリチュアルの話”ってのは真に理解するためには必ず自身での実践と体験を必要とする物だということを私は知っているので
既にこの場とか言葉で伝えようとは全く思ってないんだなって気付いたのです😃💡
だってムリだし、
だって不可能だし、
それこそ非現実だし。
じゃあなんでそれを理解した上でも、
あたかも今までと同じようにこのブログでこうして言葉を使ってそれを示すというようなやり方をしているのか?
……その答えは超簡単。
今の自分に必要な事を確認し祈った
結果、
今これを書いている。
それだけのことです。
上にも書いたように、
私も敬虔なスピリチュアリティの実践者たちと同じように、
非常~に注意深く、
自分と人生のあらゆる領域側面の中から今なら預け委ね手放しても大丈夫だと感じられるようになったものから本当に少しずつ、
1つ1つ神に捧げてきたのですが、
とてもじゃないけど自分の思考や行動や意思のすべてを捧げようとはしなかったし、
パートナー恋愛関係でも、
仕事お金関係でも、
そういう何かしら自分が願い望む結果があるからこそ絶対に諦めるわけにはいかないと結果を委ね手放すことを長らく恐れ執着し続けていたものってのはいっぱいあるということにはっきり気付いたわけです(゜Δ ゜)
だって、
普通の人間の感覚からしたら、
自分の思考や行動や意思のすべてを神に捧げよう。
なんて考えてる人間が居たら、
逆に(?)それこそ“狂気”に思えるじゃないですか!!
というわけで、
そこから“正気と狂気の闘い”みたいな物が始まるわけですね(笑)
でも実際にはそれを越えてく必要があるのは間違いないことだし、
幸いなことに!(?)
そういう想いや根元的な恐怖や抵抗の感覚ってのは自我持つ人間なら誰でも等しく感じるものだし、だからこそ誰しもが必ず超えていかなければならないものなのですよ☆
だから
それはあなたのお金じゃありません
の本とかで示されてるような、
自分と同じように、完全な調和や自分の手には全く負えなくなってしまった難題を解決するために何か奇跡的なアイディアや可能性を求めて神にすべてを預けて助けてもらいたくてもそれまでの人間的な自己のイメージ像だとかが邪魔して上手くできなくて困ってる~
という状況に陥るのは自分だけじゃないんだってわかることはとても励みになるし、
それを超えて喜んですべてを神に委ねて協同して聖なる豊かさを満喫する体験がどのような形として体験できるのかという、
その一番の試練を越えた先に見えてくるものを知ることができる、
イメージすることができるようになる……
実際それほどの助けは他に無いと私は思うのですよ、自分の経験からも🍀
だから私はそんな感じの話をこれからもこのブログに自分の書いた物として認め公開していくことになると思うのですよ、
それが誰に向けて書かれているのかもわからないままに。
……でもちょっと思うんだよ。
それはとても私らしいなって。
正直な所、
私はどんな自分が本来の私らしい思考や行動だったのか実は思い出せなくなってると気付いてるんだけど(*ノ・∀・`)
でも少なくとも、
“何かに抵抗し闘う”ってのは、
本来の自分とはすごく遠い所にある意思や在り方だってことにだけは気付いてる。
だから私はそれを選ぶ度に、
自分ではない何かを証明しようとすることになる。
という原理やその時の存在レベルでの不安感みたいな体感にも確かに勘づいてるし、
だからこそそういうやり方での自己否定も存在否定も少しずつ無くしていってゼロにしたいと思ってる。
だからきっと私は理解したんだよ。
今の私は自己の意思を拡大するよりも先に真に自分の意思と呼べる物を確立する必要があって今ある目の前の状況や起こってくる出来事はその流れの中にあるんだって。
実際私はそういう、
究極的には自分ではない何者かになるような生き方をすることは絶対にできないと理解してしまったけれどそれじゃ人間社会の中で生きて行くことはできないという現実に失望しながらも絶望しないように何かしらまだ自分の知らない奇跡的な救いと呼べるような可能性が……もしかしたらそれこそが本当の世界であり自分だと思えるような結末があると信じて抗い進み続けてきた人間……
そんな人間だったとわかったんだよ。
だから私の意識には“救い”という概念が非常に強く根付いてるし、通常のやり方じゃどうやってもこの世界のルールから逃れられないということも知ってるんだよ。
そして“救い”という概念を知るためにはそれが成立するための“絶望”のような、閉塞感のような可能性が閉ざされた世界観のようなリアリティーも裏に必ずある。。。
そのすべては聖なる豊かさを、
聖なる流れを、
聖なる意思を、
その完全なる祈りである真の知性を、
それらを自分として認め受け入れるためのお膳立てのようなものだったと。
そう私は理解したんだよ。
私はそれを自分として理解し受け入れられるようになるために実に十分なだけの経験や体験をしてきたんだよ。
だからそれでいいんだなってわかった。
だから私は実際には自分から誰かにこういう話をするってことはしないと思う。だってそれを理解して活用したくなる人間てのは既に地獄をさ迷い歩くような体験を終えた人だけなんだからさ(笑)
私だって時期とタイミングによっちゃそんな話は弱者の戯れ言だと切り捨てたり怒りを露にする側面もある人間だってわかるから😌
だから今はこのやり方で進んでいきますね~🌠
これなら“地獄のような生き方”みたいなことを一切しなくていいってだけで喜んで受け入れられるってもんですよ!!ヽ(*´∀`*)ノ💖