あれから、
それなりに時間が流れて現在、
私は自らが感じていたり問いかけたりしていたであろう疑問に対するいくつかの答えを得たのだと感じている。
そして私が“この期間”と呼んでいた、
おそらく11月から始まったであろう何かしらのテーマや学びとなる一連の出来事や体験も1つの決着を迎えたと感じるようになったのですね、ここ数日の間に。
なので“その件”は既に、
今の私にとっては“前期”とか、
“1つ前の時期”と認識されているのです😃
……であるならば?
その時期が真に終わるというなら、
必ずそこにあったはずの試練や課題となっていた体験やそれを象徴する具体的な現実的な出来事だとか、
それらがどのような流れで始まってどのような流れで進み変化していったのか?
そして最終的にはどのような形に落ち着いたり1つの結末を迎えたのかということも現実として明らかになっているはずなのです。
原理的に考えてもね?👁️
なので、
私はようやくこのタイミング……11月21日になった頃に初めて、
不要な勘違いや憶測を見ずに、
明確で明瞭な認識と表現が可能になる
つまりそれこそが、
最近になって私が一週間だとかそれ以上にこのブログを書く間隔が空いたりなかなか更新されなくなった理由なのですよ😌
そしてこのやり方は私自身にとっても非常に負荷の少ない安心で快適なやり方で、
だからこそきっと私は“そのやり方”をしっかり身に付けてこのブログにも反映できるようになってようやく一貫して安定してたり調和した在り方が可能になる……
そういうことだったとわかるわけです。
そして、
“そのやり方”とは一体なんなのか?
それが核心なのかもしれませんね。
しかし今となってはそれも明らかなこと。
単純に、
自分と人生の中に
神を介入させ介在させ続ける。
そういうことなのです。
なので1つ前の時期の私に与えられていた一連の体験や出来事の“裏テーマ”みたいなものとしては、
神を介入させ介在させ続ける意思を得る。
みたいな物があったのかもしれませんね😃
ちなみに“表のテーマ”は、
私が認識していたように
血を洗い浄める
というものです。
なのでそれらは平行して進んでいた、
そう理解できるのでしょうね、
今となってわかることとして💡
そうですね(?)
なので私は確かに、
その期間にこのブログでも記したりしていた問いや疑問に対する答えを既に持っているに違いないのです。
私が記憶にあるものとして、
誰も何かを決めたり考えたりしてるわけじゃないのが実像だというのに◯◯をしろとかしてないとか責められるというような体験に遭遇した時に
どうすればいいのか?
という疑問に対しては、
→その件のすべてとその件に関して思い出されること感じ取っている想いや思考のすべても神に捧げて“最もよき流れ”に乗せてもらえることを望み、自らもそのために完全に使われることを選択する。
という答えを得ました。
なので私は自らが気付き認識できる限りで常に神を通して見て神を通して考え神を通して選択するというようなことを選ぶようになったのです。
その理由として、
そのような意思や選択=在り方を望み選び続ける時に自分が思い出したい見つけ出したいと願い探し続けていた“世界が輝いて見えるような感覚や記憶”を感じることができると理解したからです❇️😃
“神”って言葉がまだ気に入らないなら、
“神聖さ”とでも思ってください。
中身は全く同じなので☆
そしてそうですね、
もう1つの疑問として、
私の作品づくりと販売……
これまでの私が当然のように続けてきた
“創作および販売活動”みたいなものに対する基本的な考え方や感覚というか世界観や人生観って、
実は
私にそのような生き方と可能性を教えてくれた以前のパートナーである元カノからそのまま引き継いだもので、
全く私の在り方とは違なる
文字通り“借り物”なのでは?
というような感覚があったのですね、
“サイキックコード”を外すとか、
それによる変化を実感していた時期に。
そうですね、
結論から答えると、
全く違う“借り物”なのでしょう。
なぜかと言えば、
そこに神を挟んでないから
と明確に答えることができます🍀
つまり“聖なる豊かさ”に根差した認識や在り方ではないから違う。
と言えます。
……うん、いやね?
確かにね?
フツーっていうか、
非常~に多くの人間はそうだと思うよ?
でもね?
私みたいにごくごく一部の人間は、
自分や人生に神を介在させて完全なものとして扱わせてもらった方がよっぽど幸せになれたり上手く行くってことなんだと思うんだ。
実際私が今回の一連の流れで気付いたのは
そもそも私……聖なる豊かさという見方をする生き方や行動よりもその根拠や動機となる意思とかの在り方を軸で核心とする自分や人生を望んだ場合には、
仕事をするとかしないとか、
就労してるとかしてないとか、
そこに違いを見ないんだよ。
そういう“形”に違いを見ないんだよ。
だからそういう認識は、
そもそも成立しないんだよ。
そういう個別の形や違いを見ないで、
“神の聖なる計画や流れ”を見るんだよ。
すべてはそのためにある。
そういうことなんだね☆
そこら辺を知った私に示された可能性というか道として、
何一つを否定せずに
形として起こり体験することになるすべてを完全なものとして望み扱い生かし生かされるそんな奇跡のような最果ての道というものは確かにある……
ということを実感するようになってきているわけなのです。
それはまるで、
いつも通りの冴えないパッとしない見ようと思えばいつでも不満や問題の種や負の遺産や過去の過ちの証拠みたいな物も未だに根強く残って存在感を主張しているようにも思えたりするような人生の中にあってそれでも、
聖なる流れと運命と宿命が交差する神の一本道があると思い出すことができたなら、
何も変わらない世界の中にあって、
それでも世界は少しだけ輝いて煌めいて見えるような、
そんないつもの見慣れたろくでもない人生に神聖さの記憶を添えて携えて生きられるような可能性が示されている。。。
そんな感じなのですね~🌠