あれ?
前回の記事書いたのって13日なの???
体感としてはもう一週間くらい前のことくらいに思ってた。
……
という感じで、現在は17日。
おそらくここから、
9月の流れへの軌道上にある時期みたいな物に入ってゆくというかたぶん既に入っているのですね。
9月の流れとは一体何か?
私が月とか日とかもしかしたら半年とか、
その切り替わりというか区切りのタイミングらへんにその次の期間のエネルギーの変動の波の感覚や到達点みたいな物を感じ取ることができる理論、
みたいなものを根拠として8月1日になった頃に体感した“あの感じ”みたいに認識してる非常に内側の個人的な感覚なものです。
なんですかね、
私には重要で必要で必然なのです。
“後だし封じ”というか、
先に物証な記録を記すというか、
半分予知的な感じで内側の感覚を読み取って流れを知ってやっていくというのがこの時期以降の私の基本スタイルというかスタンスみたいな物になるということです🍀
……何を言っているかわからない?
それも当然で自然なことかと。
だって上に書いたことは私の内側の感覚なのだから誰かにそれを理解されたとしても逆に私の方がそれを理解できないような何かかもしれないのですから(笑)
これは別に読み手やこのメッセージの受け手を煙に巻くために曖昧にされている表現ではありません。
それは違います。
しかし、本来私は内なる心の世界を見て生きて運ばれ知ってゆくような人間。
私という存在の純度が高まるほどに内側に強く向かって形的なものから質的な物へと認識や表現が純化されていくのも必然。
そしてたぶん今までの私はそれを禁じ手として使わないことを選んできたのです。
もちろんそれにも理由はいくつかあると感じているけれど一番の理由はやっぱり恐れ!
そして私は1つ前の時期に、
ついにその内なる恐れに直面して全部越えていくことを選んだ。
そういうことなのです。
だって私の人生がそうなってるんだもん。
社会的世間的な何かをするよりも圧倒的に明確に内側に意識を向けて日常生活の最低限の距離で起こる身近な体験から必要な学ぶすべての題材やお題を得ることができる状態になってるんだもん。
そんな私が知ってるのはマイナスの豊かさなのだし当然それだけを持ってる。
マイナスの豊かさってのはいわゆる引き算の考え方な幸福のことだって最近わかるようになったのです😃💡
なんだろうね~
まだ32歳である人間の私としてはその状態に対してまだまだ疑問とか戸惑いとかそういう物があるんだけど、
でも現実はそうなってる。
だからそれを否定しても意味ないし、
たぶん私は現実である物を否定することを望まなくなってるんだと感じるんだよ。
だからさ~、
この話が読み手にとって面白いかどうかっていう世間一般な人間の認識とか視点てのは役に立たないっていうか“使用不可”って意味で文字通り全く使えない人生観になっちゃったってことなんだね(ヾノ・∀・`)
なんかそういうことじゃないんだよね。
言うなれば私はいわゆる山ごもりとかしてるような隠者の行的な状態にあるわけで、そういう実際の現実の自分の配置とか人生状況とかもあって、
少なくとも自分の人生のこの時期は対外的な活動や行動を行わずにひたすらにほとんど内側を見てればいいような時期だってわかる。
だって否定しても何もならないんだもん。
否定して変わるのなら否定したり抵抗する価値もあるんだけど今はそういう流れとか後押しを全く感じない(ヾノ・∀・`)
それに、一月単位とかだけじゃなくて、
1日単位とかでもその時に対外的に動くべきなのか外側に向けてのいわゆる生産的な活動を行わずに過ごすべきなのかってこともその瞬間とか時間帯ごとの自分のオーラとか波動とかエネルギーとかによって読み取ることができるということについに気付いてしまったわけで!💡
だからたぶん、
それで“正解”がわかるのです👁️
ちなみに今の私は、
あと数時間……具体的には日付の切り替わりの頃くらいまでしばらく不調和で不調感の状態なエネルギー波動の自分から移行することは不可能と悟ったので、
いくつかの選択肢の中から今回はこのブログを書く活用するということが選ばれた結果現在これを書いているということなのです🍀
だからそう、現在の時期の私は、
自分のまとっている覆われているエネルギーと一致した動き方を意図的に選択するということの訓練と、実際にそれを人間としての自分が選択するとどのような形や種類の体験になるのかを知ってゆく時期
みたいな感じで使って取り組んでます🌟
それが現在の私の霊的な学び、
必然として課せられた現実から見出だされることになった正しい過ごし方なのです。
なんていうかね~、
わかるんですよ。
付け焼き刃で何とかしようとしても、
もっと奥義みたいな鍛え上げてきた自分と技でなんとかしようとしても、
しかし“正解”は正解であり覆すことは必要ではないし必然でもないのです。
だから最終的にそれを自分が受け入れることになることを悟るからこそ、じゃあそれをどのように受け入れ活用していくのかということだけを考えたり決めるようになる、
そんな感じなのです😃
何て言うんですかね、これ。
もしこっちが信頼による本物の明け渡しなのだとしたら、それでいいかなって。
だって、問題は無いわけで(笑)
何て言うんですかね。
究極、やっぱり自分自身や自分と関わる誰かの恐れを取り除くことさえできれば、
別にどこに居て何をしていても何もしてなくてもそこには完全さとか愛が感じられるというのですからやっぱり何の問題もないということです。
なんかこう、
なぜかひたすら予習して備えてきた謎の理不尽で面倒なばかりだった課題とか学びの成果とか知識や実力を当然のように使うことになっているというか、
まぁそんな感じなのですね😃
とりあえず私はあらゆる問題の根底に当たる恐れを自分を使って消し飛ばすことができるとわかるので、
なんかこうオールリセットみたいな最後の手段があるから別に外側の形ある世界とかそういう自分もどうなってもいいかなって思うって感じです😌
これは腹を括ったとか覚悟を決めたと表現してもいいかもしれません(笑)
どんな状況や形を自分や人生の上で見ることがあったとしても真に挑み越えるべきは恐れだけだとわかるから、
それにさえ勝てるなら実は何も怖くない
みたいなことが理解可能になって現在も順次浸透中なのです🍀
っていうわけで基本的に内なる恐れ的な残像がひたすら浮かび上がってくるので一定周期で無条件に体調不良になるというか今も具合悪いです(笑)
でもなんていうか、
いい加減に慣れてきた。
一応なりとも対処法はわかるし、
そういう独自の方法論というか自分の宇宙のルールというか霊的な法則性の流れとか精神世界的なバイオリズムの影響下にある自分の肉体や精神を刻一刻と変化する波というか波形のように捉えて最適解を見出だしてゆくおいうことが人間としての自分を知ることだってわかるようになってるし、
なんかこう生産的な活動かどうかを無視すれば実はかなりやることがあって全然ヒマじゃないから少なくともこの人生が退屈とか詰まらないってことは全く無いのです。
ただ単純に、自分の器量や技量が追い付かない時に苦戦を強いられるだけで。
それ以外で考えるなら、
ひたすらに心の道を見据えた結果として日々を研究したり試行錯誤して遊ぶように過ごせばいいだけの人生状況だから。
何て言うんだろうね、こういうの。
しかしまぁなぜ私はこのような人生状況に置かれているのだろうか……解せぬ。
っていうのが32歳の人間である現時点の自分の理解というのは固定みたいです(笑)
どれだけ他の意識領域で何かを理解したり悟っても
人間としての認識では全然まだまだ自分の有り様というか
使われ方が理解できない
らしいのですね。
そしてそれが正解らしい😌💡
まぁ、そういうことです。
自己の高い意識の方とか側面としては予め知ること悟ること先取りすることが可能な何かがあったとしても、
時間の中で日々経験を得て少しずつ必要なだけ変化が映し出される人間としての自分はその時間と形の世界を越えた認識に追い付いてこれない……
それは基本的に認識されず
反映もされない心の世界
ということなのです。
そしてソレを認識したり表現できることが私のスピリチュアルな特質や個性ということになるのだろうし、
それゆえに極めて人間的な定点観測じゃないトランスパーソナルに近いような客観的俯瞰した視点込みの洞察や表現を自分として行い体験することができるという稀有な資質を持っているという感じなのでしょう🍀
時間に縛られ生きて死ぬ人間としての自分以上の認識があればそういう個性や設定を楽しむことができるのでしょう。人間社会の者としては異質この上なしでも内的な体験としては完全性を知っての体験はなんだって無条件に楽しいものですからね~👌✨
そしてこれも1ページなのです。
私の人生の、そして2022年8月期の🍀
私の人生もこうなって無ければこんなことを書いても嘘臭いと茶化すこともできるのかもしれないけど、もう既にこっちが本命だと見るべきような状態にあるわけですからね~。
あ、そう、
あづささんのこの動画のCでまさにそういうことが語られ説明されていて物凄くわかりやすくて納得できたのです!
そういうこと というのは、
この自分である私とは、
言ってしまえば全体の中でスピリチュアリティ霊性担当の役割を持つ生まれの自分であるのだからそれに全力を尽くすことは他の守護領域担当の自分の力になる!
みたいな話(笑)
いつも通りわかる必要な者にだけ理解されるであろう話ですね😉
何て言うんだろうね、
自分ははそういう優れた才能や資質を持ってることは自覚してるけどその魂の計画な方向性ゆえのトレードオフ的な原理によって必ず持つことができない資質や才能や体験の種類があるということは霊的な学びと自己探求をある程度進んだ者は必ず知ることになる事実なんだけど、
“他のテーマや課題や役割を持つ自分”があると知ることができたなら、絶対に自分には得ることができない体験があると知ったとしても不必要な喪失を見ずに自分だけで自己完結せずに得手不得手持つもの持たざるものがあるという不完全さのリアリティーが与えられている意図を汲むことができるようになる
……みたいなことを言ってた気がする😃
(まだ一回しか聴いてないからうろ覚えだし私な意識や思考のフィルター強めかも。)
なんですかね、それ。
人間な自分の不完全さの価値というか、
自己完結しない意図というか、
不完全性に見出だす聖なる意図というか、
なんかそんな感じのことです。
属性耐性の合計が10で、
五属性あるから、
全部に耐性を持つ(3以上)ことはできない
みたいなイメージで伝わってきます(笑)
そういう、
過去世とか未来世とか並行世界の自分のようなリアリティーを認識することのスピリチュアリティな意味は自己意識の拡大だと私は思うのです🌃
だって、過去世の自分とかいっても
実際には他人じゃないですか(笑)
それでもそこに“自分を見出だす”ことができるのは、その瞬間の自分と重なってリンクしてシンクロするような想いやストーリーがあればこそ。
……そう、つまり、
零(ゼロ)能力者でありスピリチュアリティの道の人である私が認識するそのようなリアリティーの意味とは、
その瞬間の自分と重なってリンクしてシンクロするような想いやストーリーを知って共感し共有することで本来は他人である存在に対して共感し同一性を認識することで自己意識を拡大させ一体性ワンネスを受け入れてゆく機会の一つになる❇️
といった所にあるかと。
……だからたぶん、私、気付いたのです。
霊視リーディングチャネリングとして認識し得る情報や整合性ってのはその瞬間望まれる方向性に相応しく機能する物でさえあれば
それが事実か真実か史実か架空のファンタジー情報かどうかも関係ないのだと。
これは私がスピリチュアリティの方の人だから認識したり表現できること。
精神世界に生きてそれをスピリチュアルとして知らしめて行く役割の者であればその舞台を台無しにしてしまうような↑のような手品の種明かしのようなことをたとえ知っていたとしても表現する可能性を持ち得ないというのが
魂の役割上のトレードオフ
ってことです。
その認識が私がよく言ったり表現する、
世の中にはスピリチュアルや精神世界を積極的に学び求めるべき人間とスピリチュアルのスの字も知らずに生きてゆくことが相応しい計画の人間が居る。
という言葉が意味するもの。
そしてスピリチュアリティの方の人である私は種明かしまでを行うので、
必然として種明かしされてはいけない人間とは非常に関わりにくくなったり
制限のある縁や交流になる
というところらへんをどうしていこうかなーって思っているのですね、
先月くらいからかな?
それが私という存在のスピリチュアルの立ち位置なのです🍀
❌スピリチュアルな立ち位置
⭕スピリチュアルの立ち位置
……そう、明確に私は気付いたのです。
7年連れ添った(ツインソウル化して互いに離れられない時期も含めて⚡)パートナーと別れることができるようになったのは、
すべての闇は存在せず
存在するすべては愛である。
……っていう、
ソレを悟った後!!
そこから流れは変わった。
言うなればそれが“真実の愛”ってやつだったんだなって!
つまりそれがツインソウルとしての学びの終着点な課題だったわけです。
それが普遍的な霊的な事実かどうかは知らんけど少なくとも私にとっては事実で整合性のある真実に近いものです🌠
だから、そう、
私の視点とか立ち位置から見るなら、
その時点で男女の仲なパートナーシップは解消されたしその理由は、
その関係性の形を必要とする学びが終わったから。
そういうことなのです。
……よーくよくよくよく振り返ってみれば、
人間関係っていつもその原理で動いたり変化してきているのだと気付いたというかそういう力学というか法則性みたいなものを認識できるようになったのです。
もちろん“終のツインレイ”の人も例外ではないのです😌
すべての人間関係における出会いや別れや衝突や分かち合いの体験はその力や原理によって動かされ機能している。
だからそれを知るときに多くの誰かとの出会いと別れは必然であるとわかるし、一見して理不尽で理解不能な誰かとの体験に遭遇した時も正しい視点から見れば常に一貫したままで何かが急に変わったり不慮の事故が起こったわけでも相手の気が変わったわけでもないということを知ることができてそこには裏切りも喪失も有りはしない常に変わらぬものがあると知って
安心することができるようになるということです😌
だから私は思うのです。
コレ↓を実感を通して知るまでは、
すべての闇は存在せず
存在するすべては愛である。
↑コレ
必ず男女のパートナーシップは真実の愛と呼べるようなソレを要求してくる課題となる体験が織り混ぜられる物になるだろうし、
たぶん最終的にはすべての存在を通してアレ↑を学んでゆくことになる。
よくツインレイの愛は無条件の愛とか言うじゃないですか。
つまりソレがそのことなんだろうなって。
初めて腑に落ちたのです。
これを、そう、
私用に最適化して表現すると……
私は見捨てられたわけでも見放されたわけでもなかったのだ!
あの頃も今も常に変わらずに誠実で嘘偽りのない真実性と愛と呼べるものに導かれ守られているのだ!!
これほど素晴らしい報せがあるだろうか!?
いやない!!!
(自問自答)
……
っていうことが今回の記事で書かれることになるのは想定外……っていうかもはや私はこのブログで書かれる物に対して何も想定も予定もしてません
自分が支配したり思い通りにコントロールしようなんて全く思ってません!😆💥
理由は不可能って知ってるから。
不必要に叶わないその場しのぎの望みを持つことは苦痛でしかないし無い物ねだりは地獄の選択ということも理解できるようになったみたいです(笑)
で、
予想外とは言え、
これが順路で合ってるということだけはわかるわけです🍀
何て言うんだろうね、
私が本気を出したのに君が自分勝手に動いたり間違えたりできるわけないだろう?
……みたいなアレですね(笑)
はい。
そして現在私の脳内というかイメージとしてちらついてる物としてコレがあるわけで👁️
(あれ、コレじゃなかったんだけど???)
またまた神との対話 より
たぶん私は、これを知った時にスピリチュアル精神世界の住人ではなくより真実を知ろう至ろうと決めたんだよ。だからこれを知って以降の私は決してスピリチュアルを盲信しないのです。
そして長年、
このブログを通して明らかにされる私という人間のあらゆる側面や意識の現れである表現を通して私はコレを訓練したり訓練させられ続けてきたのです🍀
まぁ“恐れ”ってことです。
あらゆる恐れであるモノを打ち倒し消し去るべき方法論がコレなんです。基礎にして奥義とはまさにこのこと。
実際コレをマスターできれば、
自分の心に浮かび上がる恐怖を捉えその正体がただの幻だと見極めることで誰か他人である者が見る恐怖を消し去り解き放つことができる“赦し”が可能になるわけで。
もしかしたら私はそういう、
現実的な能力は一切持たない無能で無力で誰かの庇護を受けながら生きてゆくことが必要になるけどなぜかそれで上手くやっていけるというような聖職者のような役割で根無し草のような意識や立ち位置の人間なのかもなって(笑)
ずっと感じてる🌠
もちろんそういう設定にも恩恵はある。
“真の自由”ってのを知ることができる。
恐れの幻影に支配されて生きるんじゃなくて非実在性の残像すべてが消え去った真なる自己として存在し得るという栄光……。
それゆえに私は社会的にはかなり無能だったり無力な側面が強い人生を体験することになってる気がしてるのですね👁️
(現在進行形)
しかし、そこまで“持たざる者”であると悟るのなら逆にすべての持ち得なかった可能性を諦めさせるに値するだけの根源的実在的な栄光を選ぶことは極めて容易になるわけで☆
はい この記事はここで終わりでした。
十分に情報は出揃ったので終わり🌠
……そして今は23時過ぎ。
ほどよく24時近くまで時間も潰せました👌✨
その時間まで逃れられないエネルギー波動的なマスターズチョイス的な霊的な学びを意図しての不可避の不調和感や意識の変質があるってんならそれを活用して学びを達成すればいいじゃない!
そうしたら最低最悪な体験が素晴らしい幸運と調和した最高の現実への糧に早変わり!
そこまで気付けるようになったらなぜかやたらに不調和で困難さを伴う体験を通しての学びも終わって解放されるというわけです。
どうせいつかやらなきゃいけないんだし
可能なら今やっちゃおうよ!!
というのが潔さ+勇敢さみたいなのが人間的な私のナイスな資質だったのです。
そうやって見てく……というか使いこなせるようになると自分って使ってて楽しいし使われる側になったとしても楽しめるのですね☆
そう、つまり、
二倍以上楽しくて超お得!
それこそがスピリチュアリティの実践の価値だと私は密かに思っているわけです
(滅多にそこまで認識する機会が無いから)
つまり、
最も調和した霊的な訓練や学びをマスターした自己意識が反映されるにはまだまだかなり実力不足ってことです(*ノ・∀・`)
“この期間”の私は実力不足ってこと。
それが前提。
だからできることと言えば、
一見して自己否定にしか見えないソレをどのように上手く活用してどんな望ましい成果を得て行けるかを試行錯誤して必然の不完全性の真価を知ってゆくという学びに気付かぬまま挑むことだけなのです🌃
……それを終えた時に初めて認識可能になるというのだから人間である自分はひたすらに訓練が必要なのですよ🍀
この搦め手というか放れ業というか一筋縄では行かないような取り組みも、
中身は同じこと。
やっぱりコレなのです☆
あなたは何と闘っていますか。
その闘いは 勝てそうですか?
そんな感じだね🌠
正攻法を早い段階で知ってもそれを扱えるようになるまでに訓練や下積みが必要だからずっと修行しても使いこなせるのは相当先という世界……
それがスピリチュアリティの道であり自らの真価や力量を最も知ることができる玄人向けの道なのです。
……だからこそダイレクトに自己の真価を問うことができるのでどれだけハードでも一部の人間には大人気なことでしょう(笑)
だから霊的な学びを嬉々として行う人間が居るってことだし、魂はそれが普通だってわかるようになる。実はそれこそがダイレクトに自分の魂を生きる唯一の道だったりして🌠
こういうことを語り表現するためには最適解な人間で人生なのがこの自分ってことだけはわかった😃✨
だから私は示しましょう。
私こそがスピリチュアリティ担当!
だからそのためだけの必要であるすべてを私は持っているのです!!
→つまりそれ以外は何も持ってないということである(笑)
それを悟ってから自分を創意工夫して仕上げを目指して生きていく時期ってのが実は一番楽しい説。
実際〈マスター〉とかってのもそういう人間に会ったことないからわかんないし、体験してないからわかんないって意味でそれを本気で考えてもいない。
でも私の現実はそれを目指すにはうってつけのように思えるしそれ以上の可能性が見つかる気配も見当たらない。だから私はそういう感じでやっていくのだろう。
なるほど、それが私なのだなぁ。
ってのが本心でした🗝️
そう、本心を知るためには上澄みであり表面的な意識であり幻想であるすべてを先に取り除く必要があるのです。
そしてそれが非常に難しいのでだいたいそれで時間が過ぎてゆくというのもまた人生☆