このブログにはいくつかの機能がある。
この手の記録にはいくつかの役割がある。
わたしはそんなことにようやく気付いた、
はっきりと。
その目的意識や捉え方によっては意味不明で混沌とした自分を体験することになるだけのこともあれば、別の捉え方をした瞬間にもっとマシだったり内なる叡知を引き出そうとする極めて神聖な試みや時間として受け取ることもできるようになる。
このブログは書いている私自身からすれば極めて不思議なもので、
恐らくその時の記事ごとの読み手となる者にとって必要なモノコトが表現され記されていくからなのだろうけれど、
まぁかなり自分像のブレというか落差とか
上下左右への揺らぎがすごい!!
という感じの記録になってる、
少なくとも前半部分は。
これは上記のように、
私自身が現在表現したり直面したり取り上げることが必要である物と同時に、その記事を特定のタイミングで読むことになってる人間向けに最適化された物だというのも事実……
その結果、極めて本来の実像が捉えにくくとにかく何でも書いてあるような荒唐無稽な記録やそんな人物像こそが私であるかのように見えるものに仕上がる……
というのが事実であって必然であって、
私はそこまで終えることができた時に初めて自分としての意識を取り戻すというか認識することができるようになって、
ようやくそこから本命とか本題となるテーマや内容を扱うことが可能になる。
だから私は、
“ただ眺めてるべき時”と
“自分としての意思を発揮すべき時”と
明確にその2つの異なる意識状態というか
とるべきスタンスみたいなものがあるということがわかるわけです。
経験に即した事実として。
……だって、中途半端に自己意識が覚醒するようなことがあったら、
なんでこんなこと書いてるのか私もわかんないんだけどとりあえず必要らしいから黙って書いていきますね★
のタイミングで自己意識に目覚めると、
なんで俺はこんなことしてるんだ!?
これは俺の意思だというのか!?
いやだ、違う、やめてくれ!!
……ってなっちゃうから💥/(*゚∀゚*)\💥
まぁそれは“思考に飛び付く”ってことでもあるんだけど、思考に飛び付かずに忍耐できるようになるのって無意識で生きてきた人間にはすんげぇ難しいわけですよ、
ホント意味不明なくらいに⚡
そしてその“思考に飛び付かない”というのは現実的な誰かとの交流とか関わりの中でも非常に重要な技能で、
それができないと、
……あっ、やべ、
そんなこと言うつもりじゃなかったのに。
“って体験”をするわけですよ。
たぶん誰でも経験あるかと(笑)
……そして逆に?
“ここは余計なこと言わん方がいいな”
って認識したとしても、
それでも実際には内心思っちゃったり勘づいちゃったりしたことを口走ったりしてしまうという制御不能な自分を体験することもあったりするのですね┐(´∀`)┌
そして“そんな感覚”でやっちゃった結果は基本的に不調和な体験になるわけです。
しかし私が言う“未熟である”という言葉が表すものってのはそういうことです。
“これは避けた方が賢明”と知りながら、
なぜか実際には全く賢明じゃない選択や行動を自分が選択している!!
という体験をするのが“未熟さの証”とでも言うべき現実なのですね。
不思議なことに実際に時間の上で経験を積み重ね学ぶ中でそのうち当然のように避けられるようになるのですよわざわざ不調和を生み出すような行動や選択を❇️
……そうですね、
だから私みたいに無駄に若く未熟な段階でそのカラクリみたいなのに気付いてしまった人間てのは、なかなかしんどい内なる闘いを強いられることになるのでしょう。
だって
“わかってるのになぜか避けられない!”
という“恐れ”そのものみたいな物に直面することになるわけですから。
自己意識に覚醒するってのはたぶんそういうことなのです。
まぁ“コントロールの概念”に目覚めるということですね(笑)
●●で▲▲だから私は自分を厳しく律して制御しなければならない!
って意識です。
それが“コントロールの概念”
つまり必要性ってやつです★
実際私はそういうものをずーーーーーっと認識して体験して時に抗い時に受け入れるフリをしたりして騙せないか切り抜けられないかと画策し試行錯誤と私闘を繰り広げてきたわけですから、
内面で延々と(笑)
だから、そうですね、
私は実際にそういう体験をしたし、
そうやって必死で生きてきた人間なんだ!
って感じの、
いわゆる“サバイバーモード”な記憶が活性化してる限りは私の脳内はそんな想いでいっぱいになっているせいで、
たぶんそういうことしか考えられないし
そういうことしか認識できないのです。
そう、
だから“癒し”とか自己愛が必要になるという話が出てくるわけですよ。
だって脳内や意識がアレな記憶で埋まってるわけですからね?
アレな記憶↓
私は実際にそういう体験をしたし、
そうやって必死で生きてきた人間なんだ!
↑アレな記憶
……何て言うんですかね、
それ、もしかして、割とPTSDなんじゃ……
………………脳筋でスピリチュアリティな私はそれをPTSDとか認識しなかったけど、、、
参考資料📄
……PTSDだね、ソレ。
ほら、アレ、
ニヒリズムの超克を試みた結果、
内情がより無惨な感じになるという噂のやつ🌀
別に戦場帰りとかじゃないけど、
四六時中ほぼほぼ途切れることなくもそういう感覚感情を味わい続けるとたとえそれが何年って時間じゃなくても、たった数ヶ月でも数週間でも精神の負荷は相当なものになる。
だから私のマインドとか自我意識的な物は深刻なダメージを受けている、
とも言える気がするわけですよ、
度々アレな記憶が蘇るわけですからそういう解釈も可能って感じ⚡
実際、わたしがPTSDPTSDっぽいとか、
やたら鬱々としてたりしないのは、
“赦し”のような実感があればこそ。
アレがなければ私は今も死に損ないだし、
だからその記憶が呼び覚まされてるリアリティーを外れたら過去の亡霊よろしく戦場に舞い戻った気持ちになるわけですよ、
霊的な修行と学びの名の元に
延々と人格が否定される
みたいなやつ(笑)
……そうですね~、
スピリチュアル精神世界的でない解釈によって私がほとんど生産的な活動を行わずに延々とこんな物を書いてる理由を解釈するなら、
PTSDな自分を懸命に乗り越えようとしてるから。
という見方が有力かと👁️
あ、うん、
そう、
(やっと本題に入れるのかも……そう思った(笑)
現在私の頭の中に浮かび上がってるインスピレーションの1つとして、
ウィズアウトスピリチュアル
ってのがあるのですね💡
ウィズアウト ってのは普通に、
without のことだと思うので、
without spiritual なら、
スピリチュアル無しで
という意味だと予想されます。
私は度々、
自分がどこら辺のどんな人間で、
実際にどこら辺のどんな人間として生きる時に真価を発揮するのか?
ということを探っているわけですよ。
どこら辺の とは、
いわゆる波動領域の高低とか、
像を結ぶべきリアリティーとか
広義の精神世界の話。
どんな人間 とは、
どんな生き方や活動をする人間か、
地上……実社会での役割や立ち回りの話。
そして ウィズアウトスピリチュアル、
その考え方についてアレコレと探っていく前に1つ、極めて明確に予感しているものがあってそれが、
スピリチュアル精神世界の専門知識や概念を一切用いずに
真に自分らしく生きられるようになったら本物☆
って感じの感覚があるのですよ。
そしてソレがここ最近になってかなり強まってきてるような気がするのです🌃
何て言うんですかね、コレ。
私は自分がスピリチュアル精神世界を知ってゆくこと霊的な学びを積極的に求めて自分を鍛え上げ成長させていくことが必要なのだと非常に強く実感していたし、
そういう色や質感の世界を色濃く見ていたわけなのですよ。
良く言えば超情熱的。
悪く言えば超強迫観念!!
みたいな(笑)
実際それが私のスピリチュアルに対する原動力とかモチベーションとか動機だったわけなのです👍️🔥
しかし、
ここにきてスピリチュアル精神世界的な物の見方のマイナス面、それを採用することによっていわゆるデメリットに当たるリアリティーがあることに明確に気付くようになってきていて👁️
いやまぁ、
物凄く超絶簡単に言うと、
私ってスピリチュアル精神世界の領域とかその枠組みでは成功しない人間なんじゃないかと。
……まぁ薄々勘づいていた、
という感じなのかもだけど、
いやしかしそれでも一時的には間違いなく確実に絶対的に必然として必要だったことは事実なのです!
何て言うんですかね、それは
ホームグラウンドじゃない、
ホームの世界じゃない、
やがて帰るリアリティーではない、
本来の私らしくは ない。
なんかそんな感じなのですよ。
実際私は、
“本来の自分を取り戻す”
というような目的意識でこの道を進んできたということに気付いてます。
基本的にコレは、
喪失の記憶の上に映し出され成り立った偽りの自己である自分が本来の自分に目覚めあるべき世界へと還っていく物語……。
って感じの構造……構成……
まぁそんな感じのシナリオになっているのだろうと感じているわけですよ🍀
メタい話として(笑)
なので基本的に私とは、
コレである自分か、
コレである自分か、
コレである自分か、
その3つのロール……役割というよりは
ストーリーを成立させるために
その3つの基本となる視点と立ち位置がある☆
って感じなのですよ。
なぜかと言えば聖三位一体の原理です。
超明確な理由アリの三点なのです☆
なんで↑の3つ……3色なのかと言えば、
3つしか選べないならそれ!
だからです(笑)
低次の自己意識でありロウアーセルフ★
普通の自己意識でありミドルセルフ(?)
高次の自己意識でありハイアーセルフ☆
要素としては、
私は常にこの3つの自己意識のどれかを自分として認識しているというのが基本ルール
になるわけです🔯
それにプラスして、
“どれくらい光が入ってるか”によって
たぶん今はここら辺、
いつからかはあまり記憶にないけど、
私はかなり意図的に文字に色と特定の意味やリアリティーの質を割り振っているのです☆
おかげさまで色への造詣もかなり深まって
とても楽しく嬉しいことです👌✨
そして、そう、
スピリチュアル精神世界的なリアリティーを受け入れるデメリットってのは多分、
究極的に私の内なる真実像とは一致しない物だから
真芯を捉えられないズレた波動やリアリティーを自ら証明する状態になってしまう。
ということだと思うわけですよ。
たぶん経験者なら、
それが実際にどんな結果や体験を生み出す状態であるのかわかることでしょう🌃
……
え~?
でもそれは精神世界でスピリチュアルでも
分離意識的なリアリティーを実感してる波動領域での話だからもっと上に行けば
何も問題なくなるんじゃない
ですかぁ?
……とかそんな質問を受けた気がしました。
(……質問っていうか芝居っぽい!!)
でも、うん、そう。
正直そこがよくわかんない!!
気がしてる(笑)
うん、でもさ、
たぶん結局スピリチュアル精神世界っぽくなくなるんだと思う。
………………………………………………………………
たぶんそういうことなんだよ。
だから私は守護天使が好きだったし今でも普通に当然のように好きだけど、
だからって守護天使守護天使言ったりしないんだよ(ヾノ・∀・`)
そういう意味で
天使とか龍とかそういう表現や活動を軸としてるような人間とはやっぱり合わねぇよな。
って感じる。
それが間違いじゃないってのはわかるし、
その上で『合わない。』って確信してる
ということです。
私の場合、
高次の視点や認識が一番強いという考え方ではなくて、それが無意識で普通な人間である自分の意識にまで反映される理解や意識が実は最も強くて自然で真芯だと思っているのですよ自分の経験から👌✨
だから
『普通にそう思うぞ。』
ってなるか、
それが私にとっての正解。
って認識になる。
たぶんさ、
本当に、
本当に本当に、
あらゆる形や表現を自分として使ったり認識することによって自己像は決定され証明されることになるんだよ。
だから『合わない。』と感じた時でも、
それでも離れずに人生を共にするべき時もあれば速やかに互いに自然消滅へと向かったり意図せず縁が消えていくってこともあると思うんだよ。
そしてその根底には必ず霊的な学びや魂の計画や目的である体験を可能とさせるような捉え方や解釈の仕方というリアリティーがあるんだよ。
…………、
…………………………………………………………
だから、
そういう意味でイメージとして脳内に浮かび上がるものも非物質的なものも物質的なわかりやすく形あるものも
等しく精神世界であることは何も変わらない。
“分離の幻想”と呼ばれるものが精神世界であるのなら、そしてそれに気付くことがスピリチュアルであるのなら、
すべてはスピリチュアルなもの……
霊性の表れであることは変わらない。
だから私はたぶん、
そういう意味でスピリチュアルとか精神世界ってのを理解したので、
わざわざ特定の領域や表現の仕方をスピリチュアルとかそうでないものとを別々に区分して認識したり呼ぶことがかなり難しくなっちゃった(*ノ・∀・`)★
いやだって形あるものを認識することこそが精神世界なんだから形を見る人間なんて精神世界の住人以外の何者でもないじゃん???
って思うわけですよ、
かなりフツーに😃
でもコレ、
たぶん
精神世界=スピリチュアル≠非精神世界スピリチュアル
って図式が成り立ってる……
成り立つべきそういうリアリティーを必要とする段階の存在にとっては
“毒”でしかないものだとわかるわけで/(*゚∀゚*)\
私の場合は……そう、2015年くらいまでは毒になる考え方だったと思うんだよ仮にそれが霊的な真実だとしてもね?
うん、だからさ、
たぶんそういう人たちからすると私は何かとても危険なこととか“闇”を表現してる闇の存在とかに見える感じられると思うの(笑)
そういうのは何回か経験あるし、
直接関わらなくてもある種の反面教師とか闇のシンボルとして私が活用されるってこともあるってわかるわけですよ。
いわゆる光の仕事の1つとしてその時のその人が認識すべきマイナスな感覚での導きを呼び起こすとかそういうやつ(*´ Δ`* )🍵
そしてそういう直接的な体験……
誰かとの個人的な真実の食い違いなんかによって互いに激しく否定し傷つけ合うというような体験
をするかどうかの決め手は、
練度と波動によって決定されている🔯
ってことだと思う……
思うっていうかその体験の有無とか質を決める霊的な原理や意図を正確に推察可能になるわけですよ👁️✨
そういうことを知っていくと、
これまで見えてなかったあらゆる人間関係の本質とかがわかるようになってきて、
面白いって言うか、
変な誤解をしなくてよくなるヽ(*´∀`*)ノ✨
っていう素晴らしい恩恵があるのです!
そして多分現在の私はそういうことを実感してたり以前よりは他者との交流の練度?密度とかが上がるとか、より本質に触れられたり近付くような本物のコミュニケーションな体験が起こってくるんじゃないかと🌟
そしてその明確な理由として、
“隠者の行”
を終えられたからだと感じるのです👌✨
隠者の行 ってのもやっぱり造語(笑)
でも、あると思うよ?
特に深~い霊的な自己を呼び覚ますためになぜか社会から隔絶された何年かを体験することになった人間とかなら結構普通に知ってることだと思うんだよ🌃
そうですね、
その前の話として、
いわゆる
“里の行”というものがあるのです。
それはかつて私がスピリチュアルセッションの中で言われた言葉というか出された課題の1つなのですが2013年のことですね~🍀
グーグルで調べる限りだと、
娑婆での人生経験から学ぶ!
って感じの意味の言葉ですね。
娑婆は、世俗って意味です★
いわゆる非スピリチュアル界隈、
普通の世の中です(笑)
山にこもって
滝に打たれて
座禅組んで瞑想して
そういうのを“山の行”とか言うらしく。
私が認識する“隠者の行”も近いというか
同じものを意味する言葉なのでしょう。
だって、
世の中に出たくても出れないって側面もあるわけですから🔯
ポイントは
引きこもってたいわけじゃないのにむしろ出たいのに出られない!
……この構図、
割とよく見るやつなんですよ
霊的な学びの道の上では🔯┐(´∀`)┌🔯
もう全然その人にしがみついてたり執着なんてしてないしむしろ離れたいのに
なぜか離れられない!
っていう、ツインソウル界隈とかでも聞くことがある共依存的なやつとか⚡
端から見れば依存し合ってるズブズブの腐りきった関係に見えるだけでも、
本人たちからすれば内情は
何かしら抗えない強い力に拘束されて
逃げられない!!
という感じかも知れないやつですね🌃
……そして、そう。
非常~に面倒なことに、
少なくとも一度は、
離れないという状態を強く望んでいる!
可能性があるわけですよ🔯
┐(´∀`)┌
それがあるから尚更ひどく混乱することになるわけですね、
特にそう望んだ側が!
ランナー&チェイサーの考えに沿うなら
実際に関係性の中で離れたくないと望んで
チェイサーになっちゃった方の人です★
私が知る限り必要なら立場の逆転もするのでしょう。でもやっぱりトリガーで決め手になるのはまず男性のランナー化だと思う👁️
な、謎の力が俺を、逃げさせるんだ……
ってことになるかもしれませんね
気付いちゃったら★
っていう感じで、割とよくあるんですよ。
最初は
そうなりたい!!
って積極的に望んだけど、
そのうち、
“なぜかその状態から抜け出せなくなる”
ということが!!
まぁもちろん私は道半ばの者なのでその答えを経験者ほどには知らないのですが、
これはつまり“高次の導きの罠”
とでも呼ぶべきものなんじゃないかと。
私はそう思うわけです。
……正直その表現は正しいのかと言えば全く正しくない考え方だと思うけど、
現在の私には相応しくとても役に立つ考え方だということです🔯
……………………………………………………
あるぅえ~?
おっかしいな~?
消えちゃったぞぉ~?
って感じで、
これの話とか
ここら辺まですすんだのに
なーんか保存に失敗して時間にして2時間分くらいが消えちゃったみたいですぅ~(*゚∀゚)💥
もう5時間以上になりそうだからドクターストップ的な何かだったのかもしれませんて感じで未完成でめちゃくちゃものすごく途中だけどせっかく書いたから投稿された記事がこちらです。
でもタイトルには残しておこう、うん。
無限の豊かさの内在化(無)
ってことで💥/(*゚∀゚*)\💥
めっちゃ序盤の話で途切れてて切なし。
もうだめだ、俺ぁ心が折れたんだぜ、
……って感じでした。
俺ぁ心が折れたんだぜ、
ってことでタグ無しで。
この内容じゃあノーコメントだぜ。