“力目的”なスピリットの意思と喜びと/幽玄で悠然としてて超然とした在り方なら超楽しい至福の世界? | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★



あるぇ~?
おっかしいなぁ~?

私は今日も1時過ぎには普通に寝て明日も午前中のある人生を楽しもうと思っていたんだけど今のままだと寝れそうにない。


それは困る、
困るので後回しにしようと思ってたものを仕方なく今から済ませることにする。







私は思う、
こいつは“幻影”のような物を身ににまとっているか、見た目上はそのように見えるような質感をしているのだと。



……そしてどうやらそれが私の基本的な在り方を正確に象徴しているという可能性がある


というより、そういうものらしい👁️



そしてその見た目には幻影に包まれてるようで非常に実体を捉えにくくそういう意味でやたら理解しにくいという感覚を起こさせるような在り方でもいいじゃない、


っていう気付きを得たので説明します🍀





私の在り方とか有り様……特にこのブログで示されているものとして最も特徴的なのがエゴ的な自己認識や表現とスピリット的なリアリティーや表現との非常に大きな落差というものだと私自身は認識しているのです⚡





私は人間社会的には全然有能だったりしないし内なる恐れをひたすらに認識する性質も手伝って基本的にいつでもだいたいネガティビティーな感覚が前面に来てる人格になっているわけです。
そしてエゴ的な感覚が理由で不可避の恐れや違和感である物を延々と捉え続けていることが不快で嫌で何とかしたいと思うのでそれを直視して幻想として解き放っていくことを選ぶことになる。


それが私という人間の基本的な認識。
……その他の人間社会的な一般的な感覚のアレコレってのはもうほんとに基本的に優先順位が高くない状態なのですね(*ノ・∀・`)



なので私はこの場では基本的にいつでも内なる闇や葛藤に直面した人物像として現れることになるし実際にそのような感じでだいたいの記事は始まっているのです(笑) 




始まりはいつでもネガティビティーや不完全さの認識を得た所から。

原理的に霊的な学びはそういう順路や流れで進めるのが正解だったり効率的だという明確な理由があるらしいのですが、






なんか、
それでもいいじゃない。


って感じらしいし、


そもそも本来の私らしさと同時に果たすべき役割みたいな物を併せ持って両立させるとそのような非常に独特な質感や存在感に仕上がるらしいのですね、
まさに↑のクリスタルみたいに❇️






その性質を物凄く単純化して表すと、


エゴ的な恐れや不完全さに翻弄されていると思ったら、次の瞬間にはスピリット的な完全性や愛とか光とかの認識に切り替わっていたりするようなリアリティーを体験したり表現している人間


って感じ。


そしてそれはすごく人間らしくない!!



……ほんの一瞬前までは苦しみ悶えていると思っていたら、なんか急に意識か認識のシフトが起こって何も最初から全然悪くも苦しくもなかったとか言い出しちゃうような、

なんか表現しにくいけどヤベェ感じの普通に考えたら理解しにくい人格をしてる人間なのですね。












……なんかもうこれを自分で書いてて既に意味不明さを感じて実際にそういうリアリティーを体験しているのが私の人間的&霊的な個性ということになりますか。

それらは切り離せないものなのです、


その、
私は“超然”とか“悠然”という言葉で認識している良くも悪くも超ノリノリで感情的になっているかと思ったら次の瞬間には淡々と別の考え方や可能性を語り始めるような、

いちいち1つのことに引っかからずに連続したものとして自己の状態を変化させて流れていくというのが実体ではあるけれど、少なくとも見た目的にはいちいち細かいことに引っかかってエゴの反応に翻弄されているようにしか見えない!



という感じの質感と存在感とか空気感、


ってのをこのクリスタルは正確に表しているんだそうな👁️



別に禍々しいわけじゃないし、
別に冷たいわけでもないし、
ただ“幽玄”みたいな、あまり物質世界的な質感とか意思みたいなのを感じさせない

っていうか、

どれ(どこ)が本体かわからない!!


という感じ。
連続しててその時々で切り替わるから❇️



……ちなみに幽玄て調べたらこんなのが、


そうそう、左の絵(?)の質感に近いやつ。
見る者には綺麗さとか美しさより何か計り知れない深さとか闇みたいな感覚を呼び起こしそうな感じの質感💡




英語にすればファントムになりますか。
“本物のグリーンファントムってこんな感じじゃないかと思うんだけど?”



って言ったら納得してくれますか(?)😃






でもそういうことなんだよ。

あれもアンダラクリスタルだし、
本来はこういう感じのキレーな輝きとか癒しを感じさせてくれる物なのかもしれないけれど↓


今の私が認識してる内なる闇とか恐れみたいなのが写し出されている……とかそんなリアリティーに共鳴する者には美しさや輝きよりも冷たさとか陰りのような物を感じられるんだと思うんだよ👁️







そして1つ、明確に理解したことは、


少なくとも私がそのような感覚感性や体験を必然としてきた人間として思うことは、


スピリットの在り方や意識というものは当然のようにエゴ的ないちいち何かに引っかかって躓いて立ち止まってしまうような認識や感覚を全く見えない存在しないかのようにどこまでも突き進み飛んでいってしまうようなものに思えるわけで、


つまりスピリットな自己が人間的なリアリティーを完全に置き去りにして進んでいってしまうというのは超自然なことなのです!!



だから勘違いしてはいけないのです。


スピリットは飽くまでも完全性の認識の上に成り立っているので、それが覆ったり見失ったりしてるという本来有り得ないというか絶対に起こり得ない悪夢的な幻想を真に受けての反応とか感情に寄り添ってくれるということは不可能なのです!!


だから正確にはこのブログは読者を置き去りにして進んでいる物ではなくてエゴ的なリアリティーのすべてを置き去りにして進んでいるものなのです。
もちろん私自身も例外ではないのでエゴ的なリアリティーを自分として体験している限りは必ずスピリットの完全性とかいう理解不能で理不尽で時に無慈悲に思えるような光とか愛であろうものに置き去りにされている側なのですよ(*ノ・∀・`)


だから勘違いしてはいけないのです、
それは悪意があって行われているのではなくて本来有りもしない障害物を認識して困惑したり恐れたりしているエゴ的な自分である私たちとは違って、実際には有りもしないものを全く見てないし有りもしない障害物に引っかかる(?)ということもなく自然に進んでいるというだけのことなのです。



勘違いしてはいけないのです、

愛とは完全に完全なもの(?)なので不完全さの上に成り立つ情や優しさを許容してくれないしそもそもそういう部分的なものを全く認識しないのです。


飽くまで完全なものであって都合のいいものではないのです。





そしてどれほどに冷たさやよそよそしさを強く感じられてしまうような状態であっても内なる光や輝きというものが失われることも無いのです。

このクリスタルだってこの状態でも内部に光が映し出されているということは事実だし目で見えるのも変わらないのですから👁️



そして映し出されるのはこの光……

表面上はブルーグリーンに白みたいな色をしておきながら光を当てると黄緑だったり濃いゴールドみたいな色に光るというマジック。


それらゴールドとか金色的な光が私の魂の煌めきだとかを表しているのだと。








エゴで人間な私は常々思うのです、


こんな自己満足でしかないネガティビティーや自己満足を垂れ流しにしてるような恥ずべき表現を他者に見せることは恥であり本来避けるべき愚行そのものなのだと。



……しかし、私の意識の中のエライ人が告げてくるのです。



たとえ100人のうち99人の読み手にとっては無意味で無価値でまさに愚行そのものだな恥を知れぃ!!と思われることがあったとしてもたった一人の読み手である者が今まさにそのような情報を自分から受け取ることが必要なのだと知ることがあったとしたら?

それでもあなたは恐れや不安で他者からの評価や反応を気にして真に表現され伝えられるべき光や愛であるものを愚行と判断し恥じて閉ざすことこそが自分には真に相応しい正しい選択だと思えますか?



……もしそうだと信じるのなら今すぐにその名前も自負も捨て去りすべての輝きを失い恐れに沈み生きねばなりませんね。
あぁ可愛そうに!!





……とか言われるわけですよ。



何て言うんですかね、
たぶんかなり俯瞰して見ると、


まだそのような種類の学びとなる体験に対して内なる恐れが残っているから最後まで絞り尽くすまで使い倒しなさい!

……ってことでその感覚が何度も何度も出てくるってことなんだと思うのですよ👁️




……そしてその理由ってのが、



どのような闇であれ内なる恐れであれそれらはすべて真の自己たる神聖なわたしが宿りその意思を示すために必ず役に立つ愛と光を呼び覚ますための糧となる体験なのだから喜び勇んですべての力を取り戻しわたしを解放させていきなさい!




……っていうことらしいんだよ。





これを“力目的”と言わずに何と言えと?


だからあの独特な質感と絶大な内なる力を感じさせる光を放つクリスタルなんだよ。


それがあの、
優しさではなく愛であり、
癒しではなく力であるような、

濃いゴールドの光が象徴するものかと。


そして私はそれを創造力と認識してる。






だからこう、何て言うかさ、

スピリットが知る所としては、



たとえ私が表面的には自分の有り様や表現であるものが他者にとってどのように伝わったり何を呼び覚ますのかということをすごく気にしているように見えたとしても、

真に気付いているべきは、そのような感覚感情などのリアリティーを体験する意図価値とはどこにあるのかということで、


その本意として、



まだ内なる恐れを解き放つことで力を自己に呼び覚まし獲得していくための糧として役立てることが可能である以上は必ずそれらを完全に認識しなくなって卒業するまでは霊的な成長のきっかけとして感謝し愛用することになる


っていう所にある。

そしてその愛用する“教材”ってのが例の、

こんな自己満足でしかないネガティビティーや自己満足を垂れ流しにしてるような恥ずべき表現を他者に見せることは恥であり本来避けるべき愚行そのものなのだ



という認識や考え方であるリアリティーというものなのです。





だからスピリット的には、


実際には100人中99人の読み手が無意味さや無価値さを見なくても構わないし、
もっと多くの人間が全く違う反応しても構わないし、
そもそも100人もの人間がそれを読まなくても構わないし、

実際には読み手が居ても居なくても私の内側でそのようなリアリティーが体験されているというだけで使えるから他者の反応は私自身が内なる恐れを取り除き力を呼び覚ますという目的のためには全く関係ない



という認識らしいのです┐(´∀`)┌





これ、人間的(エゴな反応)には


なんかひどい、
なんか無神経、
なんかそれはそれで気に入らない、


とか思いそうな考え方だったりするというのが人間的なエゴな感覚だと思うのです





が、



私に“エライ人”であるスピリットな自己があるように他の者にもスピリットがあるのも確かなことで、実際には私の表現やメッセージを見たり受け取る誰かというのはスピリットの計画とか意思としてそのような体験がその者にとって必要だった場合だけなのです。


だからそもそも人間でエゴな私が気にしても気にしなくても何も変わらないというのが真実ということになりますか(ヾノ・∀・`)





そしてそういうスピリットなリアリティーを自分事として理解できるようになるとエゴ的な思考や認識に張り付いてる必要が全くなくなるので、
スピリットなリアリティーや感覚が自分に切り替わるのですね~。





そうして私は結果的には、

スピリットな自己に導かれていつものように内なる恐れとして残っている状況や認識を通してそれらを解き放つことで内なる力を呼び覚ます機会を得られたしそういう学びな体験に取り組んでいた


ということになるのでしょう。








何て言うんですかね~、ソレ、

とりあえずそうやって延々と内なる恐れを取り除き続けていくと自分が本来魂の計画的に持ち得ると想定されてる最大限まで力を解き放ち扱うことができるようになっていくんじゃないかと思うのですよ。


そしてそのような超自分のための努力や取り組みに専心する私の在り方が他の誰かにとっては愛とか光であるものを心に呼び覚まし映し出されるきっかけに相応しい磨かれ鍛えられた器になったりするというわけで、




私が持ち得る神聖さってのはそういう自己成長の概念が非常~に強いのです。

……そのことにあまりに強く気付き過ぎるとスピリット的な意識にシフトして誰かと会話や意志疎通をしてる時にまるで自分も相手も存在しないしそもそも会話なんて全く成立してないというような謎の感覚になったりしてしまうのですね(*ノ・∀・`)



何て言うんですかね~ソレも(笑)

なんかもう笑っちゃうよね、
真面目に思うこととか会話したり話し合ってるように見えてそこには誰も存在しないし自分も相手も居ないのに形だけはコミュニケーションが成立してるように見えるってんだから、


それなんてマジック?


って思ったとしても無理ないでしょ?





そういう“幻影”とか、“幻想”……っていうとかなり違う気がするんだけど、

神秘のヴェール?みたいなやつ!


そうやって“幻想を生み出す”ってのが私の知る所の創造であり“クリエイション”の核心なんじゃないかなって、

↑みたいな“誰も居ないじゃん”な体験もあってそういう風に感じるんだよ😌





というわけで現在このクリスタルに対して最も強く感じるのは“幻影”みたいなものなんだと思うんだよ。
正確には幻影ってわけじゃないんだけど他に相応しい言葉がわからない/(^o^)\

幽玄で悠然としてて超然とした有り様



ってのが身に付くと私はこの記事でやってるみたいな魂の計画な役割とスピリットの目的意識みたいなのが融合して調和した超独特な存在感と魅力を持つユニークな光の使者として完成するんだと思う。

そうなったらわざわざエゴ的な人間の視点やリアリティーに無理矢理合わせようとしたりそういうリアリティーを認識して自己鍛練に励まなきゃならない状態も次々と卒業できるようになっていくんだろうし👍️✨





そうして私が知ったのは、

内なる輝きが写し出されているという聖性の分離である“光の分離”みたいなものと、

内なる恐れが写し出されているという虚性の分離である“闇の分離”みたいなもの、


その2つが自己の外側にある何かや誰かに無意識にそれを写し出している分離の認識が起こる真逆に思える分離の体感だということと


恐れにしても輝きにしてもそれらを自己の内側に戻してやることで本来そうであった状態に還元して“分離感を統合する”みたいな概念や方法論があるということだった、、、



って感じがしたのもあって無意識にこの記事を書いたらしいのです😃☀️




なんかそういうのも神秘のヴェール?
つまり分離の幻想のこと???
幻想を生み出すことに関する知識らしい。


それら分離の幻想を自己に内包しているという原理的に不可能そうなリアリティーを実現させている神秘の質感があの“幽玄な輝き”みたいなものの正体なんじゃないかと💡


私は思うのです👁️✨






だから私はあのクリスタルが何色で何者なのかを非常~に疑問に思いながら今日アップされていたあづささんのリーディング動画を寝る前(のつもりで)聴いていたわけです。



そして最後まで1時間くらい聴いてたりクリスタルを眺めていて気付いたのです、
(画面はほとんど見てない)

つまりこの色なんじゃね?↓



あの、赤?茶色?オレンジ?みたいな濃いくっくりはっきりしたグラウンディングバージョンのゴールドみたいなやつ!

左側の



たぶんそれがあれば私は自らの創造力を解放させて愛と光の使者として自己の持ち得る可能性のすべてを使って素晴らしい仕事が可能になるんだなって!!

そうなった時には人間味を置き去りにして変な表現や振る舞いをしたとしても内なる恐れが存在しないから同じ輝きを持つ者と引き合い導かれ合うことで真のコミュニケーションが可能になるんじゃないだろうか。









とか書いてたらもう4時なんだぜ、
これじゃ午前中のある楽しい人生ができないかもしれないんだぜ、
まったく困ったことなんだぜ┐(´∀`)┌


でもそれも内なる恐れだってんなら遅かれ早かれ取り除いていくことになるのなら今やっても後でやっても大差ないのかもなぁ


……とか思うわけです(*´ Δ`* ) 






そして内なる恐れが消え去ったなら必ず楽しさや純粋な喜びみたいな感覚も戻ってくるということがわかってきたわけで、

この人生っていうかこの自分ってもしかしてめちゃくちゃ面白いんじゃないですか?



って思い始めてきてる。





確かにあらゆる内なる恐れに直面してそれらを1つ1つ絶え間なく解放し続けていくって生き方は人間的エゴ的にはかなりキツイ。
でもそれを補って余りある自己の持ち得る可能性を開拓してマスターしていくというゲーム的な自己成長の体験な喜びとかロマンには計り知れないものがある!!!





だから現時点でも、

内なる恐れに対処しなきゃいけなくなってこんな時間までこんなブログを書いて自己鍛練に取り組まなきゃいけない運命宿命だったとしてもその結果として得られるリアリティーや真の自己に近付いてゆくという喜びにはそれはもうとても言い表せないような幸福感や快感や至福感が既にあるのですね!!




めちゃくちゃめんどくさいけど超楽しい!



それが現状の私の自己認識なのでしょう🍀


表面的には身体的な痛みとか苦痛感とかが付きまとってるしこんな時間まで……って思うんだけど、それらを超えて見れると更なる可能性を知ってゆくことが超楽しみ!



明日は何しようかな~?
明日は何ができるかな~?


って感覚が数年ぶりに戻ってきてそれだけでなんかもうすごく嬉しいもん!








終わったので寝ます、
お疲れ様でした🍀



って感じでいちいち引っかからず瞬時に切り替わる質感に慣れておくと抵抗をゼロに保ちやすくなって神秘のヴェールに守られてるようなリアリティーが体験できると思います。

私はあのエンジェルオーラの質感がそういうものに見えてる気がしてる👁️



どんな体験も自らの学びとし神聖さを呼び覚ます糧としていける人間とか最強だわね。他者に対しては延々と投影される内なる恐れを統合して還元し続けるだけで渡り歩いて運ばれてゆけることでしょう。
必要なのは一瞬の衝撃に耐えたり恐れを恐れと知って受け止めて見つめて解き放ってゆけるだけの強さであり愛とか光!!





それは愛がある とは言うし、
愛が強い とも言う。

しかし愛情が深いとは全く言わない。

愛は愛情とはすごく違うものなんだよ。





……わからないなりに今の全力を尽くすという勇気と、わからないという恐れを素直に認めて真に知っていくという素直さ、

それさえあれば私がやってることは人間ならば誰にでも可能な原理と示される道。



私が道である、とは私は思わない。
なぜなら私の前にその道は無いから。


そして私は他者の意思や思惑に関係なくスピリットに動かされ運ばれその道を進み続けていくだけである。そしてそれが苦悩や葛藤に満ちたものではなく楽しさや喜びのあるものになるならそれだけで万々歳!!

そうやって呼び覚まされた内なる力であるものを最大限活用して私の現実が楽しく幸せなものになるように全霊を尽くします!!


……そんな意思を当然のように持つ人間だからこそ自己の持ち得る可能性を積極的に開拓することが可能になるのである。ポイントはエゴ的な人間観は自他問わずに徹底して置き去りにして解き放ってゆくということ。


そうすることで最低限の礼儀であり誠意でもある公正さは保たれるのである。



分離の幻想であるものに容赦はしない、
それが私の意思であり愛だから!!





ってのをさ、私以外の人間にぶつけても基本的には内なる力を呼び覚ますための糧とか祝福にはならないらしいんだよね、それが一番困ったことだと思うよ(ヾノ・∀・`)

だから私は私の道を私の速さで進み続けるだけなんだよ。私の意思にも圧にも責め苦にも耐えて完全に答えられるのは自分だけだって知ってるから。当然かもだけど(笑)

そんな高いところから低いところまでの様々な理由や理解があってあのクリスタルみたいな私という人間像が成立するわけだ。





こうやって必然性に迫られて何かを成し遂げてそれが終わるという時に一番強く感じられることは解放感である……私はそれを果たすことができたのならもうそれを続ける必要はないのだな………………






って最後には解放されて消えるからエゴ的な思考は邪魔せずに最後まで看取って喋らせて成仏させてあげましょう👌✨
そしてその間の自身のものとは思いたくないような愚行も内なる恐れを解き放つためのきっかけとして受け入れて喜んで感謝して生きられたならあなたこそが愛の人!!





……かどうかはわからないけど↑↑のリーディングの話、深かったし情報量も多かったから後でまた見直そうと思います😃💖

  


そうして、ようやく私の肉体的な緊張感だとかそういうのを構成するであろうエネルギー的な物がある程度取り除けた事実を認識した私はとても眠たい気持ちになったのだった……





そうそう、
“信義を守り抜く”って類の意思の強さを非常に強く感じられる点もあのクリスタルの素晴らしい所。いかにも癒しな柔らかい質感だけのクリスタルにはあの混成的な力目的感とかは成立しない(笑)




そしてまだ見ぬ私のアンダラクリスタルが存在することを思ったら少しだけ楽しみになった気がした。




4時44分、いい時間、
そして完全に朝である/(^o^)\☀️ 




それでも楽しさの方が勝るかも🌠







それでこの記事のタイトルはなんですか?😃


そしてこの記事は重要ですか?


“必要”です。



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