……きっとまだ『話』は途中なんだろうし、
こうして中途半端な状態で自分の思考を差し挟むというのは全く賢明なやり方じゃないと私は思うのだけれど、
でもそうやって話の途中で思考のプロセスが展開されて理解する何かがあって初めて真に辿り着くべき理解にまで至ることができるようになるという既に存在する未来のような物があるとしてそれらを逆算というか逆流するような見方が許されるのなら、
それが可能なタイミングは今しか有り得ないのだしそれにより初めて可能になる展開という物があるのだとしたらそれらはすべて必然だと考えるのが相応しいのだと思う……。
少なくとも私には必要なのだとわかる。
…………
きっと私はずっと探し続けてきた、
普通のように生きているだけではいつの間にか気付いたら心が迷子になり、何があってもなくても勝手に不安を感じたり傷ついたりして砕けてゆく自分の心を一体どうすれば救うことができるのだろうか?
きっとそれが私が探し続けてきたもの。
ようやくそれがわかった。
私にとってのスピリチュアルとはそのためのあらゆる形をした手段であり方法論だったのだろうし、それを求める中で自らの個性や資質の望ましい扱い方を少しずつ知ることができるようになっているのだと感じられる。
そしてそのような、私にとって探求の根源となる想いや理由という物に気付いたということはかつて感じていたものだしきっといつでも感じていたけれどずっと気付くことも理解することもなかったその核心に行き着いたということでもある。
つまりそれは、
何か特別なことがなくても放っておけば自身を見失い闇に囚われてしまうらしい自分をどのように扱えば『幸せに生きる』ということが可能なのだろうか?
という純粋な疑問のようなもの。
私はそれを見つけ出すことができなければ何が有っても無くても勝手に傷つき苦しむことになってしまうのだ。
……そんな性質に目覚めることがあったならかつての私のようにこの世界に存在することは必ず苦しみであるというような厭世感に取り付かれてしまったとしても何も無理がないことだと思うんだよ。
だから実際のところ、
『やること』をやってようが、
『やること』をやってなかろうが、
条件さえ揃えば私は勝手に自分自身か何か核となる物を見失い悪夢に囚われることになってしまうのだと考えられる、
実際そうっぽいし?
…… という理解に思い至ったのが今回の記事が書かれた理由ということになる
と私は思ってる😃
で、
『それ』について意識を向けていたら、
結論から言って、
私はなぜかすごく不安で心細くて恐怖を感じているのが苦悩の原因であり、
実際の所それは、
自分の力だけで対応しなければならないという想いから来る物なのだろうと直感した。
(そうなのだろうと直感したのであって私の理解は全く追い付いていないので疑念アリ)
で、
それらの思い込みらしきものを消し去ってやるためには『神の子』という物について理解するのが手っ取り早い(?)
ということらしいのです。
もちろんそれは自分にとっての神の子という言葉が表す最適な意味や概念を理解するってことなんだけど、
……直感の話だからさ、
実際にそれを理解してゆくためにはアレヤコレヤな思考の展開だとか当然の疑念抵抗的な物を打ち破ってゆく(?)紆余曲折含めたスピリチュアリティの実践なプロセスが必要になるんだろうなーって思ってる(笑)
そして実際このブログでその中身についての話を扱わないのであれば、
たぶんこれで話は終わる😌
長ったらしくなることもないし、
個人的な感覚に思えることについて延々と語らなくてもよいしそれらは不必要ってことになる。
だから私の精神にも余計な負荷はかからないわけで、ヨカッタネ(*´ Δ`* )
そういうブログなら問題なし。
……のだとして、
果たして私はそれを望むのだろうか?
理解してもらえるのかそんな話が必要な人間が居るのかなんで自分がそんなことをしなければならないのかという疑念や無意味さを味わわなくていいということなんだけど、
もしそれが本当だとしても果たして私はそれを本当に喜んで受け入れるのだろうか?
そんな疑問を感じてしまう。
いつしかそれが答えだったとわかってなぜそれが答えだったのかを正確に理解することができるようになるのだとして、
確かにそれを信頼することができたなら余計は解説は必要無くなるし疑うのではなくただそれを信頼すればいいってことになる。
話はそれで終わり。
メッセージとしては十分だと言える。
……そうなった時に、
今まで嫌々やらされていたとばかり思っていた長くて紆余曲折ありで質感や温度差が変質するような独特な思考のプロセスや表現という物が、実は自分のためだけに行うという理由だけで十分にそれを行う時に不可避となる抵抗感を受け入れるだけの価値がある物だったと感じられるようになるのかもしれない。
……結局、私が知りたい理解を得るためにはそのような紆余曲折してて長ったらしくてここに書くだけでも時間がかかるような途中の無意味に思えるようなプロセスも必要だということなのだろう。。。
私は悲観主義のような人格が強く表れていることが多いらしく、それゆえにマイナスの視点や思考パターンである物を無視することができないらしい……だからポジティブシンキングみたいな物は大嫌いだと条件反射みたいに感じるけれど、
そうやって見ないという選択ができないからこそあらゆるネガティブな思考パターンや観念に直面することができる……
と考えることはできる。
それがポジティブシンキングなんだよーとか言われたら、確かにそうなのかもしれないけど……いややっぱり違うだろって思うけど、
認識を変えるしかやり方がない。
それが現実だというなら否定しても仕方ないのだし否定しきれる物じゃない。
それが過去だというなら否定しても仕方ないし出来事それ自体を変えられる物じゃない。
(それにそんなことは必要ない。)
………………とかそんな感じな自動思考が展開されたらしいけど、
………………
…………
……
(゜Δ ゜)
自動思考であった物に気付いたらそれらが急に消え去って頭の中が空っぽになることってあるよね。
今それ。
………………そして
『何がどうなってたんだっけ?』とか思うんだね。
そんなことを『普通』の人に話したら頭がおかしくなったのかと反応されるもんなのかもしれないけど、
仕方なくね?
でもそれが私の体感してるリアリティーなんだからさ?
そういう体験をしてそういう世界観とリアリティーを生きてる人間であるならむしろ変にフツーに合わせて調整せずにそういう表現を突き詰めていった方が自然なんだと思うんだよ最近では。
いやだって、
それがリアリティーなんだからさ。
そしてそれをわざわざ理解できなかったり全く必要としてない人間に無理に理解させようとする無駄な努力をすることも必要じゃないんだし?
そうやって考えてくとさ、
私みたいなまずリアル実社会3次元(?)でそれらスピリチュアル~スピリチュアリティちっくな概念を表現したり誰かと共有したりする機会に恵まれない者にとっては、
それら自分が強くリアリティーを感じられるものを不自然に歪めずに表現することができるってだけでもこのようなことをブログに書き記す価値はあるんだよね。
元よりブログってそういう個人的な物なんだろうし。とりあえず使命感に突き動かされながら意味もわからずに自分らしき何かに無理矢理書かせられるような物では無いと思うんだよ、うん😌
なんでなんだろうかね?
私もきっと行く場所に行けば、
このような概念や思考で自動思考が展開されるのだとしてもそれらが当然の現象として理解され共有されることもあると思うんだよ。
なぜ私はそのような自分にとって自然な表現や感覚である物を否定しなきゃいけないと固く信じそれをすることを恐れ続けてきたのだろうか???
それは一度でも疑問に感じるようになった後では十分に不自然なことだとわかるわけで。
……それなら、
自分が書いてるらしいこれだって全く理解できないけど芸術品しかも最高傑作らしい何か
くらいに思ってても何も問題ないんじゃないかと思うんだよね。
いやだってさ、私が体感できるリアリティーってのは十分に種類とか幅みたいなのが決まってるわけなんだからさ。
そのサポート対象外である物にリアリティーを感じられないのは何もおかしくないはずじゃん?
普通に考えられたなら。
そこを否定する人間って、
実際そんなに居ないと思うの。
で、なんでそれを否定するのかと言えば
それじゃ上手くいかない、
それじゃ上手く生きられない、
って思うからなんじゃないかなって。
有能そうな資質も、
無能そうなスキルも、
自分がそのどっちだったとしても何も問題がないのだとしたら、
そんなに気にならないと思うの。
……つまりそれが『適者生存』という考え方であって、
サバイバルモード、
みたいな感じの人生観……世界観による物だと思うんだよ。
で、それが、
自分は『神の子』じゃない、
誰も守ってくれない、
実際には誰も(自分含む)全く守ってくれないわけじゃないけど守りきれるとは限らない、
この世界は予測不可能で死の危険に満ちた戦場のようなもの……
って認識から来てるんだろうなーって。
ってゆー情報と理解だけなら、
あなた(私)は自分が神の子ではないと信じているからこそ苦しんでいる
って言葉で表現されたとしても全く間違ってないと思えるんだね。
……まぁ、そういう『神』みたいな表現は受け手の認識によって大きく揺らぎを受けるような言葉だろうから私はあまり好ましくないと個人的には思ってるんだけど、
(『神聖さ』しかり。)
いやしかし、
でも『それ』が正解らしいから仕方ない。
たとえ今の自分では理解ができないのだとしてもその可能性を拒絶することもできないのだとしたら確かにそれが『実際に正解』である可能性が高いわけで。
……
そうやってあらゆる疑念と信頼を闘わせて真なる答えや確信を得ようと努める私とはなんと信仰心(?)に溢れ勤勉なことでしょうか!
とか思えてくるわけです(笑)
延々とそーゆー禅問答みたいな自動書記みたいなやり方を続けてくと割と信仰心(信頼)みたいな物も自然と芽生えていつの間にか育ってゆくらしいの(もまたスピリチュアリティ)ですね👌✨
最初は全くの疑念から試し、偽りを暴いてやろうと挑んでたはずなのに気付いたら疑念も消え去って信頼するようになっているのもまた神聖さの成せる業という物なのでしょう。
………………で、そんな物を示しているらしい私とはたぶんわざわざそれを解説しなくていいとも思うのです。
なぜかと言えば、
そもそも自分はこのようなブログで表現する形だとしても実際には教わる側の者でもあるのだし何より直接的に自分が誰かに教えるなんてのは全くもって荷が重すぎるんだぜベイビー!(指定表現)
ってことなのです。
神聖さなんてのは荷が重いんです。
そんな物は人間に求めるもんじゃないし付するような物でもないんです。
……そしてそれは紛れもなくサバイバルモードを選択しているということであり、どうやっても太刀打ちできない困難や捌ききれない重責なんかを感じた時に場合によっては心が砕けてしまうのですね(*´ Δ`* )💔
……そしてサバイバルモードで心が砕けてしまった者は幼子として許され赦されるくらいがちょうどいいのです。
きっとそれは私が忘れてしまった……か今も無意識に必死に捨て去ろうとする優しさと共にあるもの。
……本気でスピリチュアリティを受け入れるなんてのは人間としては最後の手段だと思うんですね。それは自分がどうやらフツーの人間としてフツーの世界に生きることが無理になってしまった時にだけ使う価値がわかるようになる、
無に帰す、
か
本物に戻る、
みたいな選択なんだろうなって。
だから私みたいな物分かりも諦めも悪い人間であるならばそうだと気付かぬ間に自分がそれを求め決断し選択していたという形でしか使われることは無いのです。
そしてたぶんそれが正解なのです。
そうやってしか受け入れることはできないのだしそうすることによって頑なな抵抗もいつの間にか無くなっているから不可能ではないものになるのでしょう。
それなら私はきっと、
『自分の力だけで生きる』という絶対に不可能な挑戦を取り下げるべき時が来ているのかもしれないなと思いました。
なにものをもコントロールすることは不可能なのだと理解したなら、
それを自分は全く必要としてないのだし
だからこそ安心して存在することができるのだと知ってゆくことが次の段階として相応しいのかもなって、
つまりそれは、
一体どうすれば自分を本当に完全に守ることができるのか?
という問いでもあるのだろうね😃
私はずっと気付かなかったけれど、
何かをコントロールできるという観念が消え去るのなら、それは全く不必要でありそんなことをしなくても大丈夫だという確信を得ることもセットとして必要だったんじゃないかと思う……。
何て言うか、私のスピリチュアリティには安らぎみたいな物が欠損していたように思う。
そしてそれに気付くきっかけとして根源的な恐怖に気付き直面するという体験が必要不可欠なのだとしたら、
それに気付くまで私は延々と心の奥底では根源的な恐怖を感じ続けていることに気付かされるに相応しい体験をすることになったに違いないのだ。
なぜならそれは悪意によるものではなくむしろ完全な善意による贈り物なのだから……いくら私がそれを悪意と呪いに満ちた攻撃だと信じ込んでいるのだとしてもその善性とか神聖さという物は全く変わらないのだから。。。
………………それなら間違っていたのは私だということになるしそれらはすべてただの勘違いだということになるじゃないか。
…………………………確かに、もしもそれらの言葉の意味がわかるのなら何よりも錯覚と勘違いに気付くことができるようにそのために生きることは十分に相応しく価値がある物だと言えるしそれ以上に重要なものってのも有り得ないと理解することになるのだろう。。。
そしてその時こそなんのためにあったのかわからなかった可能性だとか体験だとかの意味や価値がようやくわかるようになる。。。
私が忘れていたのはそれなんだろうし、
私が思い出したかったものもそれなんだろうし、
……つまりそれは、そのことを思い出すことができたなら救われることができるということじゃないか。。。。。
………………悪意に満ちた呪いである攻撃にしか思えなかった物こそが自分が探し求め続けていた贈り物だと知ることができたなら、
すべての悪意は錯覚として消え去ることになるのだろう。
………………私はなんというひどい勘違いをしていたのだろうか?
一瞬、全く意味がわからない気もするし、
当然のように理解もできる。
……それまで気にならなかったような心の奥底に潜み燻っていた闇という物が無視できないほどの存在感と共に現れる時こそがその致命的な勘違いに気付くことができるようになる救いが差し出されている瞬間なのだと気付くことができたなら、
すべての苦しみであった錯覚は消え去るのだろうか?
きっと、そうなのだろう。
……そしてその正しい理解にまで戻ってくることこそが私を救う手段であるのなら私が理解できずともその道に戻るように仕向けられることは、不幸なことではなくとても幸運なことになるじゃないか。
あれぇ~、
これすごいぞぉ~⤴️
なんかもう何段も理解が追い付かない概念の層みたいなのを感じるけど
これを無理矢理に言葉にすると、
根源的な恐怖があると思ってた所にこそ探し続けていたものがあった、
ということになる………………。
もしそれが本当なら(?)
すごいことである。
目が醒めるってのはそういう感覚なんだね
これは、すごい、
おもしろい!!!
それを知った自分がそーゆー表現をするのは無理もないことだと思うしそれを知れない自分がその異質さに怯むのも無理ないことなのですね🌠
それも含めて面白い!!
面白い、急に面白いよこれ!!