霊的な探求者として生きる必然として与えられる狂気と救いのある人生は、 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

なるほどなぁ~


って感じで色々とわかってきてます。





そして今の私には空中ブランコみたいなビジョンとかが見えているようなのですが……たぶん自分もそーゆー風な感じでやればいいのでしょう。

そしてそれを行うと、
なんかよくわからないけどスゴイ!!って感じになるんだと思いました(笑)




……そうそう、このような着地点がわからなかったり地に足が着かないとかのレベルじゃなくてずっと浮いてるような状態で捉え所のない話が続いてく中である瞬間を境にまともな話になって最初から浮わついてなんか居なかったんだよ☆

みたいな感じのやり方が正解らしいんですね。





え?
わかりにくいって???


……なるほど、でもそれは仕様なんだよ(笑)


だって確かに『わかりやすい話』ってのは嫌いじゃないけどそれは目的に合わせて合理性や効率を選んでるだけなんだし、それを抜きにしたらどうせなら楽しみたいじゃない😃✨



つまりそーゆーことなんだよ。


誰にでもわかりやすく表現しようと思えばそれが正解。
でもそうじゃなくて、

わかりやすさとかそーゆーレベルの話は別に重要じゃないからどうせやるなら自分が楽しめる物にしようって考えるなら、

めちゃくちゃわかりにくくて最初は何なのか自分でも全然わからないけど最終的にはバッチリわかっちゃうある種のマジックみたいな物の方が楽しいし面白味があるでしょう?



実は私は退屈な話は嫌いなのです。
それは事務連絡であり要件のみの会話や表現だけで十分だと思っています。だからそれはそれとして速やかに完遂させます。そしてそこに他意はありません。


だってそれが目的なんだもん😌




つまりアレですよね、

私は退屈でも面白味のないような人間でもなくどちらかと言えばトリックスターの類に当てはまる側の人間だと考えるとわかりやすくなります!





……わかりやすさよりも楽しさを選ぶんじゃないんですか、

って?






安心したまえ、これは定型文だよ。
私は先に必要であるすべてを語り尽くした後に本題に移るように設定されているんだよ。だからそれまでは前置きや駄文や呼吸くらいに思っておけば気が楽になるよ(笑)






そしてこの『わからないなにかのはなし』が始められた時にそれをどのように捉えるのかということを実はかなり重要だったりする。

賢い者は知っている、

起こることは必然であり、
それには必ず理由も意図も解釈も存在すると。






……そして残念ながら人生なんてのは誰しもわからないことばかりなのです。そしてその事実を正確に理解するのなら、考えるべきはわからないと感じられる物をどのように扱っていくかということの方がはるかに重要なのですね🍀



確かに、

それはそういう物だ! と決めつけてしまえばわかりやすくなって安心するかもしれません。

しかしそれが幸せだとは限らないし、
多くの場合は決め付けたり固定化しようとする時にはだいたい無意識の不安から逃れたいがためにそれを選ぶことになる。


というかそれは法則的にそういう物でもある、
無意識の状態である時に自分がどのような意思決定を行うことが自然なのかを理解するほどそれは疑う余地はなくなってゆく。



だからそれは安心させてくれることはあっても、
ずっと安心させてくれるような物じゃない。

そもそも安心を求めるということは全く安心していられないからこそ。



実際の所、そこに気付かないと状況も何も関係なく心の中では何かに怯え逃げ続けないと行けなくなってしまう。






じゃあ、

じゃあそれに気付いた者はどうするか?



それが原理的に選ばれる必然なのだと知っても自らの潜在意識下にある思考や常識を洗い出したりすることは簡単じゃないし今すぐにできるような物でもない。


そう、そこでもまた結局わからない物は残る。





知恵を得たと思っても、
気付きを得たと思っても、

知った分だけ悩みの数は増えてゆくし、
むしろ知った分だけそれらは増大する。



……だとすれば余計なことを知ることこそが苦しみの真の原因なのかもしれないと思えることは誰にでもあるし、許されるのならそんな余計なことは何も知らずに生きられたならどれほど幸せだろうかという考えは、子供時代を過ごした後に大人になった者なら誰でも思い浮かぶ考えの1つ。






しかし実際の所、

スピリチュアルでもスピリチュアリティの世界でもそれらを可能にするという方法論は実に十分に存在しているし、少なくともそれを提唱する者の中には自らが経験することによって確信としてそれらを1つの知恵として示している者だって存在している。

それらが万人向けの物であるかどうかを除いて考えるのならそれらは真実と言える物だから。




しかし、そのような道はいくらでも見つけられるのかもしれないけれど、

実際にそれを選ぶかどうかは全く別の話。



正解なんてのは人間それぞれに確かに存在している物だしそれゆえに誰かにとっての真実が自分には当てはまらないなんてことはザラにある。それらは価値観の違いを通り越して、個人的な真実として明確に食い違ったり相反することだってあることは誰でも経験から知っている。



そしてそのような経験にもいくつもの解釈や考え方が可能だと言えるしそれらは当然のよう個々によって正解と不正解に別れることになる。






そのような世界が通常である。

これらは恐らくきっと無限の豊かさの現れの1つには違いないのだけれど、そのような視点からは豊かさなんて物よりも際限の無い悪夢のように感じられるに違いない……



少なくとも私はそう思うんだよ、
その世界を生きてきた一人の人間としての自分が当然のように感じられる想いとしてね🍀



そしてそれは確かに際限の無い悪夢と呼ぶのが相応しいと思えるし、いっそそのくらいわかりやすく言い切ってもらった方が清々しくもあるとさえ感じられるのはきっと私だけじゃないはず。


残念ながら私もそのようなロクでもない世界を見てきたしそのような悪夢にいつからか迷い込んでしまったと認識している。













という話があったとしよう😁




だからこそ私はその絶望の世界から抜け出す術を探し求め脱獄を試みた勇敢な人間の一人だと言えるだろう。

なぜ勇敢なのかと言えば、
多くの者はそれらに疑問や不満を感じながらも完全にその世界の外側に出ようとはしないから。


しかし私たちは違う、
それはできない。

それを認めることはできないし、
それを受け入れることもできない。

どう考えたって間違ってると感じられる物を許せるわけがないだろう?
もし別の考え方をすれば間違ってないと感じられることがあったのなら私も脱獄なんて試みなかったに違いない。

しかしそういう物ではなかったんだよ。
その真の正体だとか原因だとかが全くわからないにしてもその確信に気付いてしまったのに忘れることはできないんだよ。

一度その世界で目覚めてしまったなら最後、もはやその世界にありながら心安らかに眠れる時は訪れないのだから。もしもその世界にありながら眠ることがあるのなら、それは純粋に力尽きて抗えなくなる時だけだし、意図的な現実逃避としてそれは選ぶことがあるかもしれない。


しかしそれは一時的な気休めでしかない。


……結局は変わらないと悟るのなら、そんな回り道をしないで最短最速で悪夢の世界から脱出するためにすべての時間を使うことだけが唯一正気でいられるに違いないのだから、それ以外のあり方を選ぶことは文字通りできないんだよ。


すべてが悪夢の記憶に染まってしまった世界で一体どうしてそんな場所に残りたいと思えるのだろうか?


……そして自分は正気であるためにひたすらにその世界から抜け出すために生きていると考えているのだとしても、もしかしたら実際には自分は既に悪夢に魅入られてしまっていて、実は自分が抜け出せなければならないと信じているような絶望の世界とは存在せず、他のみんなは達者でやっているのかもしれない





のだが、


それを認めることはできないのだ。
もしも自分が狂ってしまっているのなら、明確なその証拠を見つけ出さなくてはならないしそんな物を狂ってしまった自分が見つけ出すことなどできるはずもないのだから。。。


だから私は今日も、
自分が狂ってしまったということに気付かないままにその悪夢の世界からの出口や脱出方法を見つけ出すために生きる。それだけが私が唯一自分がまだ正気であると信じるための道だから。。。















……というような想いや世界観が垣間見えたのですが、


なにそのバッドエンド。
きっとどこかで致命的に間違えてるよね?😆



……しかし何も間違えてないのだとしたら、




真に考え見つけ出すべきこととは、
既に狂気に陥ってしまった自分を一体どうやって正気に戻してやることができるのか?


ということになる。



……その場合、狂気に陥って絶望に染まった心でそれらに相応しい世界観を生きながら、やがてそれらを完全に克服したり超越する術を見出だすことこそが悪夢の世界からの脱出ということになり
それこそが狂気に陥ってしまったと気付けないままの自分で目指すべき唯一のゴールということになる。







……とまぁ、そんな感じの世界観を私は割と頻繁に体験してきたんだけど、それを理解しながら思い返してみると、

思った以上に自分は狂気に陥ってる(笑)



ということに気付くんだね!!





……なるほどなぁ。
狂気と正気について真剣に考えたりすることができる人間てのは実はすでに一部は狂気に陥ってる節があるんだねぇ😂





そしてその、狂気に陥った自分の視点というのを使うことで何て言えばいいのかイマイチわかりにくいけど、もともと見えにくい自分のもう半分が見えやすくなるって感じられるんだよ。


……それは本当に何て言えばいいのか実に表現しにくいんだけれど狂気に陥ったことのない人間には決してそれは理解できないんだけど、それを実際に体験した自分には理解できるようにって感じのやつなんだよ😏






……いや、ね、

きっとこーゆー話自体が狂気に陥ってない人間には理解できないことなんだろうし、


だからさ、逆に、逆にね?



もしも私のこのような話が理解できてしまったのであるならばそれはきっとあなたも同じように狂気を理解してしまっているということになってしまうんだね。


……そう、普通は、そんなことは理解できなかったのだろうしそれゆえに理解することは必要ではなかったのだろうと思う。。。







…………………………………………………………………………ということは


私が多くの確率でこのブログ内で行ってきたり書いてきた文章の半分以上の物とは、本当に文字通りの意味で狂気に陥ってしまった人間が正気を取り戻すためのプロセスそれ自体であり、

それこそが私が見つけ出した分離の幻想という悪夢の意味を理解してしまったがゆえに狂気に陥ることは避けられない人間になってしまった自分が
その状態になってしまっても正気を取り戻し本来の自分として生きてゆくための唯一の可能性を信じて実行する姿そのものでもある。





……そう、私は文字通り悪夢の記憶に染まってしまった自分と世界の中でそうやって生きるための知恵を探し求めここまで生き抜いてきた人間だと言うことができるのだ。。。







なるほど、だから私は狂人だとかの意思や思考も理解自体はできるのだし、それゆえに必ずしも何かを拒絶し否定しなければならないわけではないと知っているのだ。


………………そしてこれは何て言うか、


もしかしたら自我でありエゴであった自分が本質に目覚めるという結果として必然の状態なのではないかと感じられるのだ。


…………………………なるほど、
その状態である私にとってこの世界も自分もまさに悪夢そのものでありそれ以外のものなんてただの1つも存在しないのだろう。


だとすればそれはまさに絶望、
見るもの知るもの感じられる物はすべてがそれにとてもよく似ていると感じられる。そしてそのような状態にあって絶望せずに居ることは不可能だしそれゆえに自らが狂気に陥ってしまっていると知らずには居られないのだ。




そうか、そういうことだったのか。
なるほど、よくわかった。
私はそれを 理解したのだ。



だから私の救われたいという想いには本当に嘘も偽りも存在していないんだ。私は絶望という物を理解したし……その状態でもその世界と自分のままで生き続けなければならないことこそが真の地獄だったのだから。



それこそが絶望であり地獄だったのだ。
だから私はそれを知っている。

それを知ってしまった私はことあるごとにそれを思い出すことになる。

それは狂気であり、
本来は存在しないのかもしれない。

しかし避けて通ることはできないのだ。
私が私として生きる限り、

それは何度も繰り返される。
だから私はそのたびに正気を取り戻すことを自ら選ばなくてはならない。


それこそが捉えがたい半分の私なのだから。


そしてそれこそが闇である。
それ以上に闇に相応しい物は存在しない。
それは実に闇と呼ぶに相応しい。


そうか、
それこそが闇だったのだ。

















………………🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠






ということだったんですねー。
なるほどですねぇ、

確かに『その世界』を知ってしまったなら狂気でないわけがない。自分も誰かもすべてが悪意に満ちてる世界なんて狂気状態だからこそ体感する物だったのですね!!


なるほど、
なるほどですね!!!

すんごくよくわかった!!



闇ってそれだ!!
それだったんだね!!

見つけたし理解した。
それはまさに完全に悪夢。







……そうして思い出される記事があったのです🍀





………………なるほどねぇ。
私はそれが状況による物だと思い込んでる部分にも気付いていたし同時にもっと内面的な認識にこそ真の悪夢の原因や闇の本質はあるということにも本当に十分に理解していたんだねぇ。

でもそれは制限ゆえに知ることはできない。



……あの時感じていたものとか言葉ってのはそういう意味だったのか。そんなの経験しなきゃ絶対にわからないやつだね!!😆



そうかそうか、
私は探求者として非常~に優れた資質を持っているしそれゆえに知りすぎることによって深刻な自己矛盾や狂気に陥ることは避けられなかったと言えるしそれらを理由として真に救いとなる物を選ぶことが自分の意思になったんだね。


真の地獄を知る人間のみが真の救いを知ることができるってのは皮肉なような必然なような……

まぁとにかく一ミリも冗談なく人間である私は闇である物を理解したということだね。


……だからそれを思い出す時は必ず狂気に陥るし必ず絶望してる状態になるんだね!(笑)






いやぁ~、それはある意味すごく面白い!!
なるほどなぁ~、そういうことだったのか!!


って絶望と狂気の関係がわかるんだね!😁




つまりだ、
闇を見る者ってのは多かれ少なかれ必ずアレを見ている


ってことになる👁️




……なるほど、そりゃ大変だ💥






まぁ、つまりそれは、

私は人間としてエゴや自我の領域では正気で居られず正気であるためには本当の自分であるものに目覚めてることが必須なんだね。



それが探求者の末路とも言えるし、
到達点とも言える(笑)




参考画像どうぞ( *´艸`)






……というような名状しがたきホラーテイストのローグライクTRPGなスマホゲームを最近一年ぶりくらいにしていたのですが……







なるほど、
すんごくわかりやすい!!




たとえばサムネのやつ、

読んじゃいけないと感じるけど読まずには居られない物を読みたくなる誘惑に負けて、
かつそこに書かれた内容が理解できてしまった時にもらえる絶望カード、
絶望三兄弟(笑)




人は絶望して狂気に陥るとそのような顔をすることがあるのです。いわゆる眼が血走ってるとか気が触れて錯乱したりするとそーゆー表情や雰囲気になることがあるのですね。





そう、探求者としての私は精神の限界を迎えて発狂したりしたこともあったので、その部分はそういう意味でもうダメなんだね😆


そして探求者は闇に魅せられる者でもある。



自分の感じる物がなんなのか、
自分を呼ぶものとはなんなのか、
それらはなんのために存在するのか?


それを知らずには居られない。
だからこそそのような人間を探求者と呼ぶ。


……そして答えを見つけることによってその悪夢の世界をさまよう自分自身を消し去り救われることができるようになるのですね。


エゴであり自我である自分が決して気付いてはいけない理解してはいけないこととはそのような自分とは存在していないということとそのような自分の存在こそが悪夢を見させているということなのでしょう。

……だからそれに気付いてしまったら絶望せずには居られないのです。
つまりそれは、
それを見ている自分こそが悪夢その物でありそれから逃れるためにはその悪夢を見ている自分が消え去るしか無いと理解してしまうことだから。



そしてその厄介な間違った悟りに行き着いてしまった者は自己矛盾と自己否定と絶望を抱えたまま一人の人間として幻想の悪夢の世界を生き抜いていかなくてはならなくなる。



私たちが見てきた世界とはそれなのです。


それでも絶望と自己矛盾に直面しながらもなんとか生き抜く日々の中で、やがて狂気に陥ってしまっても正気を取り戻しあるべき自分へと戻る術を見つけ出せるようになる。。。











そう、私が持ち合わせた厄介な世界観や持て余したり多くの人間には理解されないようなスピリチュアリティのようなリアリティーを生きているのはひとえに私が霊的な探求者であるという理由と説明だけで十分なのでしょう🍀



そしてそれが既に業、なのですね😌




霊的な探求者とはそのような者なのです。
それは良いとか悪いとかではなく非常に強くそのような意思や性質を持っていたりそのような世界観に非常に強いリアリティを感じてそれらの記憶が世界のすべてになってしまうことがあるのでしょう。

事実『その認識』になっている時には、そうでない意識や感覚というものはまず全く思い出せないのです。


しかしその使命感とも内なる声というより衝動に突き動かされるような想いこそが決して平坦でもなければ人間としての自己の精神には絶大な負荷や深刻なダメージを与えることにもなる道を進ませるのです。

それゆえにその者とは、絶望の世界を生き抜く者であるか真に救われた自分であるかそのどちらかとしてしか存在できないのです。


もはや普通という物は有り得ないのです。
悪夢の世界を悟ってしまった以上はその中で生きるかそこから抜け出すかしか道はないのです。



知ってしまったことを忘れることはできません。

しかし、最初から知らなかったのであれば私たちは何も知らないままであるに違いないのです。






そしてそう、
その認識にある時には奇跡のコースで語られるような非常に極端で容赦ない真実かそれ以外かの話とかが実感できる状態になります。



……正直、私はまだよくわかりません。
なぜそのような状態に自分が変質することになるのかも謎だしそのような資質を持ち合わせた理由も謎に感じます。


上に書いた理由から私は自分が一人の人間としてこの世界の枠組みやルールに沿って生きると捉えた時には絶望せざるを得ないのです。






……そうですね、この意識下にある時には私は誰も見ることができないのでしょう。それは何て言うかたぶん、私が存在してないから誰とも関わり合うことができないという感覚なのです。


そしてそれに気付く時、
それを感じる時の自分とはただの影のような物として存在していて私が認識する他の誰かもまた霧のような影のような曖昧なものとして感じられているに違いないのです。



その時わかることは、

私は存在してないということ。


その私とは中身がなく、
とても不自然で、
それゆえにとても不安なのでしょう。






そして探求者としてのわたしが理解したこととはひたすら進み続けることで終わらせることができるということ。

その舞台や役割に取り込まれてしまった自分にできることはあまり多くないのです。その時点に語れることや開示される情報も少なく、多くの事実や真実とは分厚いヴェールに覆われた状態になっている物です。






そして私はそのような探求者の意識にありながらもそのような感覚や認識だけが自分なのではないと気付けるようになっています。


そしてそのような自己を何度も何度も体験することによって私は分離の幻想や悪夢や闇という概念について非常に深く知ることができたのです。


はっきりいってそれがいいことなのか悪いことなのかもまったくわからないし本当に謎だらけというかその世界観はとにかくわからないことや明らかにされないことが多いのです。
少しでも油断すれば内なる闇な物ばかりが投影され簡単に自分を見失いそこからは延々と見えない敵と闘い続ける狂戦士な自分になってしまうことでしょう(笑)



いやはや、狂気である自分にはそれが狂気であるということは全くわからないのですね。






……ふむ、そう考えると私はとてもギリギリな人間である側面があるのでしょう。それは最初からそのような人間だったと言われればそうだと思うしいくつかの原因となる体験があって精神を磨り減らし過ぎて正気を保てなくなったと言われればその通りだと思える






そしてたぶん、この感じこそが狂気なのです🌀






この私とはそのような物です。
ここに救いはありません。



もはや自分が正気であるのかどうかもわからなくなってしまった自分にまともな判断などできるわけがないのです。



それが私という人間の半分。


神聖さや聖性を知り、それらを語り表現するという自分もまた捉えがたく理解しにくいけれどこっちの嘘偽りであり影であり霧であり闇である自分というのもまたとても捉えがたく扱いにくい。

しかし私はそれらどちらもを認識する。
だから私はそれを知らずには居られない。
他の誰が必要としなくても私だけは自分であるものを知ることが必要なのだから。




というわけで私はそのような人間です。

狂気と正気を知るからこそ、
真実である物と幻想である物も理解でき、
それらどちらもを超越する聖性を知ることもできるのです。


そしてそれらは明確に異なる物であり、
同時に認識することもできない。



だから入れ替わり切り替わることになる。

まるで多重人格のような
複数の自分として存在するかのような、
そんなリアリティーを経験することになる。



だからそう、

こっち側の自分にとって唯一救いとなるのはそのような自己としての存在を認識するのは一時的な物であり相応の目的や役割があって起こっているということでありそれらを思い出せれば救われるということ。

だからこっち側に救いがないのも必然。
この世界というのはそのような半分なのだから。




これら決して実在し得ない影に過ぎない物を苦しまずに受け入れてゆくことはとても難しく生涯を通して理解していかなくてはならないこと。


しかし必要である。




それが自分であるなら信じたり救われる術を求めればいいのだし、それが自分ではないもう一人の自分だと感じられるのなら積極的に救い出すことを選べばいい。

そのどちらもが私なのだし、
どっちを自分としてももう片方が残るのだ。


だとすれば、
それらはどれほど異なっているように見えても全く同じ自分なのだと知る時も来るのだろう。





きっと私は一定量、割合的にこのような話や表現を行ったり自身のために必要とするのだろう。


そしてそのような行動や意思だけが私というわけではないのだから、別にそんなに特別視しなくてもいいのだと思う。


これもまた私の一部であり、
このような側面や性質があるからこそ私の本体というか全体像みたいなものが神聖さや聖性というものを知ることができるのだ。


きっとこれまでの私はそのようないくつもの自分の側面や性質に良し悪しを見て、それゆえに否定したり特別に大切にしたり恐れたりしてきたのだとわかる。

そしてたぶん多くの人間も同じなのだろう。


自分自身を深く知ってゆく中で、見つけてはいけなかったのではないかと感じられるような性質を持つ自分に気付くことがあるのは別にそんなに珍しいことではないと思うのだ。


私は数える気も失せたり完全に忘れるほどに否定的な想いや闇である物と直面してきた。そしていつしか完全に越えた物は別に闇でも違ってもどうでもよくなったことを知っている。


だからそれでいいのだ。



私は時に迷い狼狽え正気を失い、
それにすら気付かなくなることもあるだろう。

しかしそれが私だったのだ。

そのような私を自分として非常にギリギリなバランスで進んできたことも知ってるし、物事ってのは基本的にそういうギリギリで絶妙なバランスで進んでゆくことの方が多いということもわかる。



それなのに普通というありそうで無い物を基準にすると無駄に苦しいことの方が多くなる。残念ながら普通なんて物は無いのだ。あったとしてもそれは便宜的な表現に過ぎない。

それらは簡略化された世界を生きるわけではない者にとっては役に立たないばかりか無駄な枷として自らを縛ることになるだろう。





そしてこれらもすべて解き放つためのもの。

真の解放を得るために、
真の制限を課すことでもある。


基本的に物事は矛盾するし、
矛盾しなくなった時に余計な物は消え去る。


であるならば、
真に消滅させるためにはその真の原因である物を見極めたり隠された物を完全に吐き出しきってしまうという気概も必要になる。





私は悪夢の世界を知っているし、
そこから抜け出したいと思っている。

だから、
もしそれを完全に消滅させる方法があるというのなら多少難しくても厳しくてもその道を選ぶことは別に不思議なことでもない。


たとえその過程においては自らが完全に狂気に囚われてしまっているかのように思えるのだとしてもそれこそが真に狂気から解放されるために必要なのだと知ることがあったなら私はそれを選ぶことになるし、

禍根やわだかまりを解消するために意図的に隠されている想いを暴き出す必要があるというのならその過程において自らの意思でそれを誘発させるような振る舞いを相手に対して行うこともあるしその中で過去のトラウマを抉られるような想いを自らにも相手にも強いることになるとしてもその果てには解放の機会があると知っているから必要以上に自分や誰かを責めたり無駄に苦しむことは選ばない。






私は必ずそれをやってのけるだろう。
なぜならその悪夢の世界を永遠に消し去りたいと願うから。


私はそれを受け入れることになるとしても、
いつまでもそこに留まりはしない。



真に正気であるために狂気を受け入れるという選択はそんなにおかしなことじゃない。

そもそも自分が狂気に囚われてしまっていると気付いたのならそこから始めることが必要になるとわかるから。
だからそこから始める。最初から一気に正気に戻ることはできなくても繰り返す中で少しずつ抜け道は見つけられるだろう。


真に賢い者であるために愚かであるフリをすることが必要であるのならそれを選ばないわけにはいかないのだ。
私は自分自身を騙したいとは全く思ってはいないので騙されるフリをすることはあってもその真意は逆にあることは変わらない。

そしてそれらがどのようなタイミングで明らかになるのか理解されるのかということは私には知ることのできない物だとわかる。
だからこそ私は最善を尽くす。それこそが真実に相応しいと信じる物だけを選ぶ。


その中で必ず判断を誤ることもあるし、
実際にはそうでないと気付けないことも確かにあるのだろう。




しかし本意は変わらない。


私が見る物も信じる物も変わらない。
それらは見た目の違いや一時的な錯覚に惑わされるような物ではないのだから。



だから、


だからこそ私がそれらを完全に忘れてしまったとしても別に問題はない。真実も本質も変わらないのだから。


むしろ、

それらを忘れてしまっているかのように思えるような状況下でこそ真に覚えていられるのか信頼していられるのかを試されることになる。


物事というのはそういうもの。




そして私は常にそのような在り方を一貫して選び続けてきたのだと言われるのならその通りだと感じられる。






私は思うのだ、


きっと自分自身を知る方がはやいのだと。




本質も真実も変わらないと理解するのなら見た目にはどのように見えたとしても何も問題も違いもないのだと気付いていることになる。であるならば自分と他人に思える物があったとしても別に特別視しなくてよくなるし、全く同じ理由から特別視しても構わないと言える(笑)






幻想を超えて見るというのはそういう物なのだろうか?


本質や真実という物が変わることはないのだと知ることができたのならどれだけ違って見えたとしても問題にはならない。そしてそれは幻想ではなく本質を見ていると言えるのだろう。


しかし今の私にはそれが本質なのかどうかはまだわからないまま。



だからそれは予感という物になる。





私は永遠であり不滅であるものを予感したのだと感じる。

しかし今の私にはそれがどのくらい良いものなのかはわからないのだ。


私は当然のように形を見ているし、
それらの違いは特別な意味があると思っている。


それが問題かどうかは別としても、
私はそう感じているのだ。












(ちなみにこの記事を概念化して一般化するとこのような話らしいです。