分離の幻想の実体に気付いて『完全に否定する』時。 / 『私は未来永劫この意志を変えない。』 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

……自分のブログを書く時に『よくわからない』という思いから始める人間てのはどのくらい存在するのだろうか……そんなことを思った。



そして今は思考の方が自動的に精神世界的な癒しだとかについて考えているらしい。そして私は今現在楽しくもなんともない『タスクの消化』に取り組んでいる気分と認識でいる。。。










……


今日で1月も終わるらしい。
色々なことがあったような気もするし、思い出すには値しないものばかりだったような気もする。

まぁそれは単純に、今の自分が見たいわけではない何かしらの過去の残像ばっかりが見えている状態だからそうとしか思えないだけなのかもしれないけれど。

しかしそれらが『過去の残像』に過ぎないものだと気付いているのなら、当然そのうち薄れていって見えなくなることにも気付いているとは言えるのだ。


……それなら、そのうち消え去ってゆく物なのだから別にそんなに気にしないで眺めていればいいだけだと思えるし、そう考えると気が楽になる。

実際今の自分は何かと闘っているわけではないのだけれど、何かに抗い抵抗している(どちらも同じ意味である)ような感覚の中にある。



……このような状態では見たい物など見えないのだし、何が見たかったのかさえ思い出せないものなのだから、とにかくひたすら目の前に見える消化すべきタスクやら下準備やら布石やらを整えることに目的を見出だすべきなのだろう。


だとすればこれも同じこと、本来の目的としては分離の幻想の悪夢の記憶を削り取ることにあるのだとしても、

これらの取り組みが完全に無駄で無意味で無価値なわけではないのだから。少なくとも必ずしもそのような見方をする必要はないとわかる。

……だから、何か違う物を見よう。
















……

私の癒しやらヒーリングに関する研究や調査というのは、その大部分が5年ほど前の段階で終わっている(止まっている?)と思える。

というのも、基本的に私は癒しを目的とはしていなかったから。癒す力があるのなら、気に入らない世界を変えるためにそのすべての力を使うべきだと信じていたから。

そんな『力目的』だったり『魔道』のような捉え方をする私が癒しやらヒーリングやらというものを自らに許容するわけがないのだ。事実、そのような『闇側の存在としての自己認識』という物は結構定期的に出てくるもので(笑)

……そのような重たくでネガティビティそのものみたいに思える物こそを抵抗せずに受け入れることでのみ統合し解き放つことができるようになるという経験を何度もしている。


……というよりも、それらに直面して正体を突き止めない限りは、そのような思い込みを延々と続けなくてはならないのだ。実際、今も『闇側の自己認識』というものがあることに気付いた瞬間に、なんだかとっても気が楽になったのだから💡





スピリチュアル×リティ界隈で言われる『闇』ってのは、その正体を捉えられた瞬間に霧散する程度の影みたいな物に過ぎない。
しかし、隠せば隠すほどにその闇の実感とリアリティは強まってゆく…………だから賢い者はそんな実体のない恐怖を信じないためにもその正体を突き止めなさいと言う。



いやしかし恐ろしい(気がする)のだ。
どうしてもいつになっても恐ろしい(きがする)のだ。


……しかし『いつになってもどうやっても恐ろしい気がするもの』こそが闇の概念なのだとしたら、それはそういう物として最初から受け入れる方が随分と気が楽になるに違いない(笑)



そして真実の光の下に闇を晒すことによって簡単に消え去るというのなら、それらはむしろ隠してはいけないものに違いないのだ。
……そして私はなぜかそれを誰かにも見られるように形で表現し曝すことによって本当に闇にも恐れるにも値しない錯覚に過ぎないと気付くための精神修養となるワークみたいなこの記録を続けてきているのだ……






そんな私は思わずには居られない。
すべてを等しく赦すためには、その前の段階としては必ずやすべてを等しく憎み呪うような、そんな分離の悪夢を映し出すような世界という記憶を通過してこなくてはならないのではないかと。

……そうしてすべてを呪った果てに赦しを知ることで許すことができるのなら、それこそがこの世界的には最も神聖で価値ある生き方となるのかもしれないと、
そう思わずには居られないのだ。


そして、そのように理解する時に初めて、
すべてに絶望や恐怖が映し出されるような想いを味わわなくてはならない人生が選ばれるに値するものだと思えるようになって、そのような人間としての自分を生きた者は救われることができるのではないかと。




だとしたら、それもまた『資質でありギフト』と呼べるものなのだろう。。。

しかしそのような『神聖さに目覚める資質を持つ者』が分離の悪夢と本来の世界の記憶のあまりに鮮やかな極性のコントラストに目覚めるのは、私のように十代の中頃であるに違いないとも思えるのだ。。。







……私はこの記事や表現それ自体には大した意味は見出だせないと感じるし、別に楽しくも面白くもなんともないと感じている。

しかし無駄だとは思わないし『無駄だと思いたいわけではない』ということにも気付いている。だからこれもまた特別さを見ない赦しの機会として使われることが相応しいのだろうし、

それと同時に『今は意味を成さなくてもやがて全体像を知ることによって十分な意味を持つことになるもの』だとも感じられるのだ。



……そしてこれは多分、以前までなら両立させられず矛盾を見ないで受け入れることができなかった認識に違いないのだ。だから私はそれらの異なる一見して矛盾しそうないくつかの認識や概念を等しく同じものとして受け入れられたことを喜ぶことが相応しいと思うのだ。

元よりスピリチュアリティの実践などというものはこのような極性を行ったり来たりしながらそれらの違いを望まなくなってそれらを見る必要性から卒業してゆくことにあるのだ。
これらは別に全く面白くないものだとしても隠す必要も無いものに違いない(笑)


……それにこのような一見して無意味でバラバラで意味を成さない幻想の無意味さそのものに見えながらも、後々になってそれらのプロセスは必要だったり伏線や布石として使われることになることだってザラにあるのだから、


そんなにも悲観的に捉えなくてもいいのだろう。
面白くも楽しくもないけど、苦痛でも絶望すべきでもない物として受け入れられることが一つの着地地点になるのかもしれない。



そう考えると、私は自分があるべき道にあって、あるべき導き通りに進んでいるような気がしてきて、なんだかとても救われた気がした。。。











こうやって『自分のものとして出てきたあらゆる思考や感覚』を一つ一つ掬い上げて光の元へ連れ出して救ってやることは、余計な重たい波動やエネルギーを持たなくてよくなるから楽になるものだし、真に解き放たれた想いと同じものが戻って来ることは無いのだから、何百何千とそれらを見続けるとしても終わりが無いわけじゃない。やがてそのうち本質を見通す心の眼が育って、そんなにも回りくどかったり効率の悪いやり方をしなくてもよくなってゆく物なのだから。

精神世界とはそのような物であり、分離の幻想であるがゆえに必ず下から上に向かって上昇し精錬されてゆく世界観なのだから、そのような意味で決して人間としての自分の努力は無駄にはならないのだ。


自分が人間として生きるのなら、分離の幻想の枠組みにそっての動きは必要になる、たとえそれが見せかけなのだとしても(笑)


だからその生涯続くことになる、ネガティブとポジティブの上下を繰り返す必然の螺旋状のプロセスとそれらの体験という物を嫌がるんじゃなくて楽しむ心得を学んでおくことは、生涯役に立つことになる。





無駄に動くことは無駄にしかならないのかもしれない。
しかし、そこに無駄さ無意味さ以外の何かを望むのなら、必ず自分にとって役に立って価値があるものが見えてくる。

……案外、望まない物を見ないで真に望む物だけを見られるようになる訓練とは、私が延々と繰り返し取り組んできたこのような統合と変容のプロセスと同じものなのかもしれない。


……それなら、あまりにも苦痛で取るに足らないできる限り避けたい自らの無能さや無力さを晒し思い知らされるだけだと思ってきた受け入れ難いこれらの表現という行動も、最終的には常に必ず自分が目指し望んでいる自分に相応しい選択でありそれは真っ直ぐに伸びる一本道だったとさえ思えるようになってくるのかもしれない。。。


きっと私はその意識に辿り着いた瞬間に救われるのだし、救われる必要もなかったことを思い出すに違いない。
それらは消え去った後には何一つ意味も違いも生み出さない幻想に過ぎないのかもしれない……しかしそれらの幻想を悪夢として見ている自分が救われるためには役に立つ物なのだとしたら、それはきっと価値があるものに違いないのだ。


事実こうして私の心は軽くなり救われていることを思い出してゆくのだから。



……そういえば赦しの道とは、そのような物だったような気もしてくる。。。







事実、私はこのブログやこの記事の意味を理解している。

ただ私がわからないと思っているのは『自分ではない誰かにとってのこれらの価値』なのだ。


……そして分離の幻想を本物と見ておきながら混乱や根源的な恐怖から逃れることはできないのだとしたら………………それなら、そのような見方という物は実在しない上に私が愛するものでもないということになるのではないか???






……そして私はここら辺で『無視できないほどのあまりにも強い違和感』に気付く。






それはあまりにも強い違和感であり不快感なので

もしかしたら『それ』が私が見ているよくわからない何か気分の良くない残像の原因に当たる物なんじゃないかと思えてくる……。。。




………………このようなプロセスを辿るのなら、私は自分が見ていたり感じていた不快感や謎の恐怖の正体とは、自分の心が見ている分離の幻想の記憶という根源的なものなんじゃないかと、自然とそのような可能性に行き着く。


……もし仮にその『心のありか』がわからないのだとしても、それがある限り見るもの聴くもの考えるもの感じるものすべてにその不快感が映し出されることになるとわかる。。。


そんな物は許せない。
そんなすべてを無意味で無価値で無駄な物と思わせる原因である何かが、自分の心の中にあるのだとしたら、その正体がなんだとしてもわからないとしても、そんなどう考えても最低最悪な無意味さ無価値さそのものである何かを抱えたままにしておくことを許すことなんて絶対にできない!!



だから私はそれを許容しないし『否定』する。
それは私には相応しくない。
それは私の望むものじゃない。
だから私はそれを必要としない。
だから私はそれを否定し捨て去ることにする。


私はこの意志を変えない。
そんな物はどう考えても自分には相応しくない上に望んでもいない不必要な物だから!!

私はそれが見える限り否定し受け入れず消え去ることを望む。私はそれを望んでいないと知っているから私はそれを自分として絶対に受け入れないことを選び続ける。
私はこの意志を変えない。









そうやって、自分は分離の幻想を未来永劫望むことは無いと確信した時に、初めてそれらを完全に捨て去ることができるのかもしれません。







……そして私はそれらを思い出せなくなってゆく。
それならそんな物は実在しなかったのだろう。


……だとしたら、それは一体なんだったのか?



そうやって初めて、
『本当に自分はそれがなんなのかわからない』と知る時に初めて、その正体を知ることができるようになるのだろう。。。


だとすれば私は、ひたすらに『自分は何かを知っているという思い込みを取り除く』ということをしていたに違いない。











なるほど。
そうだったのか。

なるほど。