夢の中の自分とスピリットとしての自己はそうして共存できますか? / 言行一致の瞬間に報われます。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

ティナのアイコンはしばらく続ける予定です☆












ワークブックも今日でレッスン15、
レッスン13で初めて『神』の概念が語られるようになったのですね。




そして私は現在『聖性』というものについて興味を持ち始めたようです💡


そしてそれは、特別さを手放して神聖さを選ぶようになった私にとっては必然とも言える心境の変化なのでしょう。
私は、去年の出来事やら流れ……特に3人の女性との縁や関わりを通して非常に多くの特別な願いや夢を解き放つことができたのだとわかります。


私が自らの意志で大切に残していた特別さという物は、そのほとんどが仕事とパートナーシップにあったのだなとわかるようになったのです、
こういうものは本当に手放してみて初めてわかるものなのですね(笑)






私は『いつか再びそれを必ず……』という想いからそれらを残していたのです。

……人、それを未練とも呼ぶものですね( *´艸`)



だから私は、実際には望まない幻想を望ましい幻想に変化させるという可能性を諦めては居なかったのですよ。

それでいて自力の限界を確かに悟ってもいるので同時に2つの相容れない信念や領域での学びや取り組みが進められていたのが私という人間のわかりにくさの一番の理由だったのでしょうね(笑)


私は人間として、ある一定の時期になってそれに相応しい出来事や体験を通して初めて、自分には必要でなくなった想いやら願いやらをその時になってようやく手放すことができるようになるとわかるし、事実、人間としての自分にとってはそれが正解なのだと確信しているのです。
だから人間としての私は時間の中で経験を積み重ね出来事から学び変化してゆく存在なので、

それまでは変化しないと知っているのです。





……さて、そのことに気付いたのはもうかなり前のことなのだけれど、

それに対して霊的な自己……スピリットの方の自分はそういう時間軸的な理解や段階には全く関係ない一貫した意識や意思を持って存在していることにも気付いているので、、、

必要なだけ入れ替わる、というやり方が選ばれるようになったのですね(*゚∀゚)

正しくは『切り替わる』という感じでしょうか?





……しかしまぁ、これらは非常~に理解しにくくて他人に理解されることも全く期待できるような物ではないと思いながらも、いわゆる悟りやら覚醒体験みたいな物を経験した人間であれば同じようにバランスを模索したり、その完全な超越を目指すことになる(それが『赦し』というものなのでしょうね)ものだと思うのです。





……だからそう、

『自分の中にも誰も存在していない』と知ったとしても、『誰かが存在しているわけじゃない』と悟ることがあったとしても、

それでも『同じ体験をしたことがあります!』とか言って共感したりそれらの想いを分かち合うことは可能なのですね
『実際には中に誰も居ない』のだとしても(笑)
それが見せかけの幻想に過ぎないのだとしても。

それでも、それらの出来事や体験というのは夢の中の自分にとってはとてもとても大切で嬉しいことなのですから✨






……というわけで、同じような体験をした者であれば同じような地獄の苦しみもそれが消え去った一瞬の世界の美しさも輝きもわかり合うことは可能なのですね💡






だから『どうせ私は理解されない』という想いはもう必要ではないのです。時と場合によっては理解されることはあるのですから。

そして深い部分では『どうせ私は理解されない』という信念と呼べる想いがある限りはどうせ理解されないような体験を証明することになってしまうのですから。
それに気付くのであれば『まずは自分が自分を理解してあげよう』という所から始めるのが手っ取り早いと理解できるようになるのでしょう。




……そうして外側に答えや変化を求めることは不可能と悟った人間は、私のようにひたすらに自分自身やら自己の無意識やらに直面し大掃除を始めることになると思うのですね( *´艸`)











……という↑のようなプロセスを完了させると個人としての自己意識から『わたしたちである自分』の意識へと自然にシフトすることができる気がするのですね、私の場合は✨






だからそう、
その意識で語られる言葉とは『私たち』のためのものなのでしょう。


だってその時の『自分』とは『私たち』のことなのだし、実際に今の私が用があるのは私たちとしての自分なのですから。
つまり『聖性』とはそこら辺にあるのですね✨






そして私は思うのですね。

『神聖さ』という物は個人で探求し追い求め自己鍛練を重ねることによって呼び覚まし獲得することができたように思えるのですヽ( ・∀・)ノ


しかし『聖性』というものは、どうやら個人として見つけられるような分離の幻想の中にあるような物ではないみたいなのです。

だからそう、たとえどのような動機やきっかけであったとしても『聖性』を自分の物にすることを望むのなら分離の幻想を越えたものを見なくてはならず、自分も他者も等しく神聖さを宿す存在として見ることが必要になるみたいなのです。


……それが私という人間の個性なのかもしれないのですが、神聖さや聖性を呼び覚まし獲得するということはとてもカッコいいことのように思えるのですね。
そしてそれは、仕事で成功したいとか、幸せな家庭を作りたいとか、立派な人間になって尊敬されたいとかいう願望と中身は全く同じものだとわかるのですね( *´艸`*)



そう、だから


たとえどのような動機やきっかけであったとしても



と書いてあるのですね(笑)
でもこれ、人間としての夢の中の自分にとってはすごーく大切な部分なのですよ?



そしてこれは、どのような博愛主義的な願望も個人的な野望と呼ばれる物だったとしても、最終的に行き着く所は同じだという理解から来るものなのです。

『私たち』というだけあって、それを求めるのであればワンネスだとかすべての存在に共通する本質的な部分を知ることになるのですね。



だから、
神聖さとか聖性とかを獲得した自分って超かっこいいと思うし『そんな自分になれたらこの上なく幸せに違いない!!』という自分を満たすためだけのエゴ的な想いがきっかけだったとしても個人の意志を越えてゆくことになるのですね………………


そしてそれがなぜなのか、私にはずーーーっとわからなかったし、それは全く興味も感じない部分だったのですが(笑)


つまりそれが

私たちが真に望む物とは
神と愛の完全な記憶と実感だけ

といわれる物なのでしょうね。




……これはとても簡単なことです。

『○○があれば私はこの上なく幸せになれる!』


という想いには必ず限界があるからです。





そしてそれを数えられなくなるほどに延々と様々な状況や種類に対して試み繰り返し続けると、
ある日その中身は全く同じ『喪失』を生み出すことになると気付くのでしょう。






……さて、その悪夢に気付いた瞬間とは幸せなものでしょうか?
それとも不幸なこと?


( *´艸`)




それをどのように捉えるかによって覚醒体験だとか悟ってしまった自分が幸運なのかそれとも不幸なのかが決まるのですね!💡




そしてその上で、
どれほどそれが本物そうに見えても、まだ魅力があるように思えたとしても、


『○○があれば私はこの上なく幸せになれる!』


という想いの果てには必ず喪失があるのだと気付くのなら、その想いを諦めなくてはならないと知ることになるし、やがてはそれを受け入れることになるのですね。

……いやだって、必ず喪失に行き着くんだもん。

たとえどれほど見た目的には幸せになれそうに見えたとしても、実際にその結果が喪失だってことを理解するなら『そんな物は選べない』ということになるのですから。



……いやだって、必ず喪失に行き着くんだもん。
……いやだって、必ず喪失に行き着くんだもん。
……いやだって、必ず喪失に行き着くんだもん!


そんなの選べるかぁ!!ヽ(`Д´#)ノ
そんなの選ぶやつぁ頭がどうかしてるぜ!!!







……そう理解した者は、それを理解しない他の者を捨て去ってでも『本物』を探すことになることでしょう。


……だってそんな、見せかけでしかない幸福や喜びを選ぶなんてできないし、その果てにあるものが必ず喪失だなんて許せないじゃないですか。






そうして目覚めた者は、
目覚めなかった世界を棄てて、

一人で探しに行くのですね。





どこにも本物なんてありゃしない、
すべてが見せかけに過ぎないと知ってしまった物はもはやそれを選ぶことはできないのですから。







そうして外側には見つけられなかった本物を探しに行くのです。
……外側には無いとわかったのに、探しに行くのですね( *´艸`)クスクスクス





そしてその先で、同じような想いを宿す者やそのヒントを与えてくれる存在に出会うのでしょう。




その段階まで進んだ人間にとっては人生とかすべての出会いってのは気付きのきっかけやヒントのためにある物なのでしょう。



……しかしその道は長いのですね。
またまだいくつも越えていかなくてはならない見せかけの選択肢や諦めきれていない願いだってたくさんあるのですから。















これは探求者を慰めるうたですか。




……うん、それでなんでボクはこんな物を書いているんだい???





→もしこれも赦しの機会として使うのなら、何か一つでも特別な意味や喜びや苦痛が見えるのならそれらを手放すきっかけにできるし、それらがもう見えなくなっているのなら、それを自らに示すこともできる。






私はこれでいい。
この生き方は私に相応しいし、
私にはそれがわかる。
ここには幻想は既に存在していないのだから。








こうやって見た目には『役割』を果たしているように見えながらも、実際には赦しの機会として目の前の状況や置かれた現実を活用しているということに気付いていられる、そのための訓練ができるということなのです。

もしそれを普遍化させることができたなら、
その上で、幻想が取り消された意識に完全な記憶だけが映し出されるようになったなら……全く同じような生き方をしながら完全な在り方を実現して常に喜びと平和に満たされた心で居られるようになるということ。


そしてそれは、いつどこで何をしていてもしていなくても、常にその自分が見る世界とは至福そのものになるということなのです。



そうやって何を目指していてなんのためにこれが行われているのかがわかると心は救われるし、いつか到達し成し遂げる目標となる物を既に心の中に見つめ続けていられるのなら、それを達成した瞬間の喜びや幸福を未来に見出だすことは必要なくなるから、今この瞬間にそれらを体感し逃すことなく受け取ることができる。


そしてそれこそが聖性を呼び覚ますためのビジョンになるのだから。


だから無意識に気付かぬ間に既に自分が望んだ物が与えられていることを素直に喜びなさい。そうすることで未来に先伸ばしにせずに望むものを受け取ることができるのだから。
このようなやり方によって時間の中で学び進歩する自分と、それらを超越したスピリットとしての自己の在り方を平行して進め、矛盾させずに自己の内側に個性として保っておくことは可能なのだから。




そのための長い長い道のりが既にあったのだから。






まずはこうやって自分が望んでいる物と自分の実際の行動が完全に一致しているという事実の価値を理解して、それを実現できた自分が越えてきた過去を祝福して解き放ってやればいいと思うよ✨



こうやって過去から引きずってきた幻想を解き放つこともできるし、それらが消え去ったなら既に自分は完全な生き方と在り方を両立させてきたと知ることができる……そうやって自分が本当に知りたかったし受け取りたかった成果を受け取ることができるようになることが君にとっては一番嬉しいことなんじゃないかな?

だとしたらこれは自分が自分のために用意してきた祝福とこれまで懸命に作り上げてきた至福を受け取るための器だと言えるんじゃないかな?

そういう表現、好きでしょ?(笑)



おめでとう、
結果として君は自分の願いは既に叶えられていて受け取っていることに気付くわけだ。




後はその実感が起こってくるのを待てばいいだけだよ👌✨