何しろ、消し去る所までは行ってないのだから。
なんにせよサボるわけには行かないのでこの取り組みを続けていくことにしよう。
……ただそれらの想いや思考のすべてが自分ではなかったと知るために。無意味さや無価値さを知るために、そのために時間を使って幻として消え去ってゆく様を眺めていよう。
どうせそのうち私はそのような在り方に疑念を抱かなくなる。そしてこの場には私だけしか存在しないのだから。
………………それをどのタイミングで垂れ流しにしたり暴発させたりして見送ってゆくかの違いでしかないのだから、済ませられる内に済ませてゆこうじゃないか。
元よりこれらはすべて、放っておけば長い長い時間の中で放電するかのようにして少しずつ薄れ消え去ってゆくものを集中して早めているに過ぎないのだから。
そして私はこれに意味を見たいんじゃなくて、むしろそこに見えてる物を見えなくしたいからこその取り組みなのだから。
そんなものを誰も理解できるわけがないのだよ、
文字通りの意味で(笑)
だから私が分かち合いたいのはそれじゃないからそれを理解してもらわなくていいし、むしろそんな物は見えないでもらえた方がありがたいことなのだと気付くのですね(* ̄ー ̄)
そしてなぜ私がそれらを公開しているのかについては私の理解すべき範囲には無いのです。ただ私は目の前に取り組み片すべき物があるからそれを片そうとしているだけなのだし、それを黙々と行っているに過ぎないのですね。
……この場ではこんなにもおしゃべりな感じで言葉を書いているというのに、実際にはそれらを眺めているに過ぎないのですから(笑)
人間の中身とはわからんものなのですな。
……しかし、そうやって考えていくと、本当の自分ではない一時的な設定や錯覚に過ぎない自分の中に見える思考や感覚なんかを垂れ流しにして恥を曝すのは耐え難い苦痛だとずーーーっと長年信じていたけれど、
いやしかし、
よくよく考えてみれば、目の前に誰かが居たり極めて重要な場面でそれらの混沌とした自己が暴発するのに比べたら、それは物凄くマシだとさえ思えてくるではないか………………(゜Δ ゜)いやホントに。
ここで自爆して最後まで自分で処理して見えなくなって最初から無かったことにする方が間違いなく後始末とか禍根を残さない状態に持っていくまでの時間や労力が圧倒的に楽なのは間違いないじゃないか。。。
そしてこれらはいつかどこかで自分の持ち物として直面してよくよく観察した上で捨て去ってゆかなければ破滅願望を抱えたまま生き続けることになってしまうのも間違いない確実な事実と言えるものなわけで/(^o^)\
……結局、これには意味がない。
だから私が基本的に多く書いているこの類の記録には意味は求めるべきじゃない物なのだ。
だって、そこに意味が無くなってほしいと願いながら書かれている物なのだから。
だから意味が無いと感じるのが正解なんだよ。
虚しさや報われなさを見るだけじゃなくて、本当にそこには何の意味もないんだって気付いた時に初めてそれらを捨てられる。
捨てるために抱えてみる、
真に手放すために終着してみる……
私はそんなことをしているのだから。
『これに全く意味を感じない。』というのが正解なのだから。
それはとても理解し難く、そもそも頭で理解できるような物でもないのだけれど(笑)
最終的にはそれがどれほど重要で必要な取り組みになるのかがわかるはず。
だから自分の中のこんがらがって混沌としているのさえわからないような思考や心の中を眺めてゆくのですね。。。
……それに、ほら、
いくら幻想だっていっても、あたかも状況やタイミングの変化に合わせてその中身が変化してゆく様を眺めてゆくのは結構楽しい物でもある(笑)
……ただ一つ、そのどうしようもない思考をしているものが自分だというわけではないと気付いて居られたなら笑い話で済まされることなのだから。
だからそう、今の私は思っている。
9割は無駄に見えて構わない。
しかしその無駄であった9割があればこそ理解することができる物もあるのだから。
無意味な物は無意味な物でしかないのは変わらないのだけれど、ただそこに苦しみや葛藤が見えなくなるのだとしたら、それは私にとってだけは必ずしも無駄ではない物なのだから✨
……ってゆーか、これが見えてる限りは他の物が何も見えないんだよ。
……それはとても困るんだよ。
動いていようが止まっていようが、なにかをしていてもボーッと過ごしていても、その何かが見えてる限りは他の物は見えないんだ。
それは本当にとても困るんだよ!
だからなるべく早く、自分の心に見える影みたいな物を取り除いてやらないとよくわからないまま過ごさなきゃならなくなる。
……この意味が本当にわかったなら、誰だって私と同じようにこの心に映る膜みたいな砂嵐みたいなザリザリした波動みたいな何かを最優先で取り除こうとすると思うんだよ。
だって、ちゃんと見えないから。
だからそれを取り除くためなら、結構どんなきっかけでも構わないってくらいの気概で取り組んでゆこうと思えるくらいに、物凄く深刻な意識状態になってしまうのだね……すべての形あるものが敵に見えるようになったりとか(苦笑)
……だって、そんな意識状態の時の自分なんてのは何かの病気になっているような物なのだから、基本的に無視をしちゃイカンと思うのだよね?
だって、すべての人間が信用できないとかそんな状態で居るのって確実に不健全じゃん?
それに、自分が望むはずのすべてが見えなくなってしまう状態なんて一秒でも早く消し去ってしまいたいものでしょう???
少なくともこれは一時的な物なのだし、相応に対処の仕方も知ってるわけだから……何よりも優先してすぐに癒すための手順を辿ることはあまりにも当然のことだとボクは思うんだよ。
だからこれらも置いていく。
とにかく全部置いていく。
『これだ!!』とわかるもの以外のすべては心の中で置いていくのですね。
……現実的なレベルではなんの違いも見えないから何の問題にもならないってのは本当にありがたいことだと思うよ✨
いつしかボクも、
『じゃあ、ただそれを手放せばいいんだよ。ボクがそうしているようにね!』
……とか言う日も来るかもしれない。
それにすべてを等しく同じ物として見るために、どんなに崇高そうに見える自分でも、どんなに劣悪で受け入れたくねぇとしか感じられない自分でも、そのどれもが本当には自分として残り続ける物じゃなく表面的な物だと知って一つ一つ脱ぎ捨てていかなきゃならん。
そのために一つ一つ着こなしてみせて、満足して捨て去ってゆかねばならん。
そうやって魂のコスプレの履歴を増やしていけば
やがて囚われることなくそのような設定やキャラクターを必要に応じて瞬時に切り替えて使うこともできるようになるのだから。
……そういう意味ではそのようなレベルには何一つ自分としてのアイデンティティーも本質も求められなくなるけれど、一つ一つ本当に自分であって欲しい物か試してゆくわけだから手放される物は必要じゃないってことだし、
ってゆーか、この世界でどれだけ手放しても必要らしき物は勝手に戻ってくる(笑)
だからそこで初めて、なぜか自分の物として残った設定のすべてを採用していくと、本当の自分らしさとかオリジナリティーってのが見えてくるようになるのは本当に不思議だと思うよ( *´艸`*)
それは言行一致になるんだと思う。だって最初から最後までそういう人間だったって自分が最も理解している状態になってるんだろうから💡
……実際にこの記事でも、最初は無意味さや無価値さを知ることに集中しよう、そのためにこれらのすべてを使おうってやってたはずなのに、
気付いたらなんかそれで楽しいような気がしてくるし、それもまた自分らしさの一つだということを思い出してきてなんかとても心が楽になっていたりするのだから!!
……そして多分それが、私がそのうち理解して不要なものを手放した本来の自分らしさを今、思い出してるってことなんだと思う。
だから私は語ろう。
この世界の無意味さや無価値さを知るために無の道を進んでいたはずなのに、気付いたら最初から幻想と知ってそれらで遊んでいただけのような気がしてくることがある。
もしそう感じられたなら
『私は最初から遊んでいただけなのだ!』とその可能性に気付いた瞬間から華麗に手のひらを返して全く違う可能性を自分として受け入れて語ることをオススメする(笑)
最初からすべてはノリノリの演技だったと考えても十分に辻褄が合うから!!
少なくともその前提で読んでも話は通るから!!
論理的に矛盾しないから!!
それに、『今』があるってのはそういうことなんだから。
過去の連続で同じ状態や意識で居続けようとは思わなくなった瞬間こそが、本当に『現在』が現れた瞬間なんだって、それがわかるから✨
……そこで私は気付く。
今日は1月8日、
ワークブックもレッスン8になりました。
そしてその内容こそが
『私の心は過去で埋め尽くされている。』
だったのですね!!
『過去しか見えてない』のです。
『現在』なんて物は永遠に消え去ってしまったのですから………………。
しかしそれなら、
私は一体どうやってそこから抜け出せばいいのだろうか?
……という想いが、私にこれを書かせたのだと、私は知ることになったのです
完
……なるほど、私が無意識にでも修得していつからか日課みたいになっていたこの幻想を消し去るためのブログみたいな『エゴの自動書記』みたいな物も、私が一時的に信じている思考のすべてを明るみに引きずり出して並べて光に当てることによって、その真実が見えるようになるという仕組みだったのですね!!!
そして私は気付くのです。
……実は、闇とは過去なのであり、
しかもその過去ってのは錯覚に過ぎない本来はとても曖昧な存在したようなしなかったような想いなのであって、
だから、それに対して何もしなければ勝手に消え去ってゆく本当にただの幻想に過ぎない霧のような物だったんじゃないかということに………………。
…………………………………………
その一瞬の錯覚でしかなかった物を、
毎秒毎分毎日365日生涯中頑張って、心臓の鼓動と同じレベルで休むことなくずーーーーっと繰り返し思い出して幻想を上塗りすることによって、それがあたかも存在しているかのように信じられているだけなんじゃないか???
……それが、本来の意識が持つ全能に近い具現化の力をエゴを存続させるために信じられないほどの密度と信念によって幻想に過ぎない物が途切れることのないように使われ続けているってことなんじゃ………………
……って話が『コース』のテキストにもそれはそれは文学的に書かれているのですが(笑)
……一致しますな、、、
だから『聖なる瞬間』に気付いて、ほんの一瞬だけでもそれを認識した瞬間に、あの本来の輝きを取り戻したような世界と自分の意識に戻れるということなのですね、、、、、
(いやさ、確かにテキストにそれはもう完全に過不足なくその詳しい詳しい説明が書いてあるよ?でもあれを読んでどれくらいの人間が理解できるってのさ?実はもう遊んでるんじゃないかってくらいノリノリで書かれてるアレだよ???)
……というわけで、私が何をしようとしていたのかこの非常に曖昧なわかりにくい形而上的なスピリチュアリティの実践な取り組みに名前が付けられるようになりました。
つまり私は、自分にとって真実でも愛すべき幻想とも思えないソレを、聖なる瞬間へと連れていって自分の目を覚ますための手段としてこのような『エゴの自動書記』みたいなやり方を使っていたということなのですね!!
このやり方にも利点はあるのですよ✨
表面的な思考のすべてを垂れ流し出し尽くした時に初めて、幻想として消え去りにくい自分にとっての本質の部分が出てくるということです💡
そしてその前後で幻想に過ぎなかった過去の喜ばしくない幸せでもなんでもない想いのすべてを解き放った上で、自分にとっての本質こそを自分らしさとして置き換えてゆくことができるようになるってことなのですね!!
それはいわゆるクリアリングでもあり思考の置き換えと呼ばれる物なのです。それらの思い込みや無限に近い幻想があるとしても、明確に自分が臨む物ではないと知られた想いを自分の物にしておくことは人間には不可能なのですから、
少なくとも悪夢の種が一つ手放せたということにはなるのですね!!
(↑は精神世界的な解釈をした場合の見方ね?)
……私は今まで『形而上』という言葉の意味が全然わからなかったし、全く自分の興味にも当てはまらなければ、自分が果たすべき役割のために理解すべき物だとも思わなかったのですよ、
全く、少しも(*ノ・∀・`)
……しかし、そもそも『聖霊』も私が探し求める至福の世界もそれを知る本当の自分も記憶も、形而上の、全く形のない物なのですね!!
『だからこのブログは死ぬほどわかりにくい』のですね!!(笑)
だから私は自分が取り組んでいることが死ぬほどわかりにくくてかなり頻繁に苛立ちを感じていたりしたのですね!
いや~!!
わかりにくい理由がわかって物凄くスッキリしましたよ!!(*゚∀゚)
それならわかりにくくて当然!!
スピリチュアル系ピーポー1000人のうち1人でも取り組む気になる人間がいれば十分なスピリチュアリティの実践そのものであり、形而上とか形が有ってはならない物を核として扱っている話を書くための場所なのですから!!
そんな物がわかりやすいわけがないのですから!
そんな物は別に理解されなくてもほとんどの人間にとっては問題ないのですから!!
わかりにくいのなんて当たり前!!!
もともとそういうものなんだから!!(*゚∀゚)
そういうのを望んでない人間は読む機会すら与えられないはずのものなんだから!!
……うむ、ここには完全に書かれるべきことが書かれておるのがワシにはわかるわい……。
……よし、これなら私が何をしているのかが少なくとも明確に記されているぞ!!
やった!
私はついに探し求めていた物を見つけ出して自分が何をしていたのか少なくとも言葉で表せる概念として理解することができるようになったのだ!
(*゚∀゚)✨
……って感じに、その時々でなぜか頭ん中に浮かんでくる言葉を垂れ流しにしてゆくと、最終的に自分が『その瞬間にどれを使えばいいのかわかる』ようになるのです。
エゴという幻想に振り回されることなく、それらをあたかも自分が上手にコントロールして言行一致させて操ることができるマスターみたいになったなら、その人間は幻想の中でとってもとっても進歩したってことになるんだね!!
あたかも自分が操っているかのような振る舞いができるようになるのはかなり時間がかかりそうなので、その形を待たずに聖なるビジョンでそのスンバラシー世界の記憶を先取りさせてもらうことにしたいと思いましたヽ( ・∀・)ノ🌟
……で、結局これも幻想なんだぜ?
どれだけ神聖な自己そうに見えても形の中にはそれは存在しないってんだぜ?(* ̄ー ̄)
だからそのドラマも役割を果たしたら一度リリースってことになる(笑)
そもそもこれらは一度は完全に手放されるために書かれていた物なのだから。
うん、スピリチュアリティとか形而上なものってのは実践なくしてわかるわけがないのです。
だから実践してない人間が理解することは有り得ないと考えた方が正しいのですね。
だから私はある意味ではスピリチュアリティを実践してない人間は存在しない物として扱ってるとも言えるんだね、少なくともこの場では(* ̄ー ̄)
……って、めちゃくちゃ分離の幻想を見まくってるように見える自分も同じく幻想なんだぜ?
……じゃあどうすればいいの?
そんなの決まってる。
それらが一つも見えなくなるまで続けるんだよ。それに心を定めるなら人生ってのは十分にちょうどいい程度には長い物だろうからね( *´艸`*)
……で、最終的に私みたいな者が残してゆくメッセージってのはシンプルなものなのだね。
『外側に答えなんて無いよ?もしかして知らないの?』
(゜Δ ゜)?
ってのを自分に確認させるための長い長い茶番劇ってことだわねコレは!(*゚∀゚)
私は教える者じゃない。
私が学ぶためにすべてがあるのですから。
そして私はその認識に満足しているのですね👌✨
……何が厄介って、自分として現れるそのどれもが幻想って気付くとさ、最後までもう出てこなくなるまで確認しなきゃいけなくなるってことなんだよね(笑)
それが時間がかかるんだよ、
それが一番の悩みだね!!
それも幻想なんだけど。
たぶんこの文章が読める人間は、私程度に人格が乱れたりしてもそんなに不思議には思わないだろうから、普通に自分の思考を観察したり、その果てに本当の自分と呼べるに相応しい自己意識に辿り着けると思いますよ( *´艸`*)
聖霊の幻想てのは素晴らしい物で、
どんなに無意味で無価値なはずの物でも、真に学ぶための手段として見るならどんな幻想も十分に価値がある物になるのですね。
この世界自体には意味はなくても、自分が最も相応しい意味をすべてに見ることを決めたなら、それが自分にとっての現実になるんだね。
なんでも進んだり上達すれば楽しむ余裕が出てくるってことだよ!!
それはスピリチュアリティーでも形而上学的な形のないものでも同じなのですね。それこそがこの世界で学ぶってことなんだから✨
って所まで書けば今回は完了みたい(゜Δ ゜)
可能なら『誰かがこれを書いてるわけじゃなかった!』ってとこまで行きたいけどそれは高望みかもしれないね(*ノ・∀・`)
……っていうかおかしいな、まだ思考が途切れないんだけどどうしようか。そうか、タイトルにあるようにただそれを景色として眺めてればいいんだっけか、そうすればそのうち特に何も気にならなくなって何も見えなくなって終わるときがくるだろうからそれまではこれをひたすらに繰り返して進めていけばいいに違いないのだねそういうことなんだねでも思ったよりもなかなか終わらないねこれは困ったねどういうことなんだろうねなんだか眠くなってくる気がしてくるねどういうことなんだろうねなんだかどうでもいい気がしてきた気がするよボクはまぁそういう日もあるよねそうじゃないときがあってもいいとおもうんだねどっちでもいいならとってもきがらくでうれしいね明日はいい天気になりますか雪ですかそうですかやっぱりですか知ってました
……それで、何してたんだっけ?
それで終わり!!
お疲れ様でした⛄