嫌だ嫌だと思っていても実際にはとても楽しいので辞められないこと、あると思います。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

現実を変えようとする(実際には不可能)よりも、波動を整えることの方が圧倒的に簡単であり楽なのだと私は理解しつつある。それゆえにその二つの選択肢のうちどちらを選べばよいのかで迷うことは基本的になくなるのだろう。しかしそれとは別に波動の法則は操るものではなく既に存在している影響力のような物だという事実は変わらずに残る。それなら一体何ができるというのだろうか。そもそも何かできることなどあると言うのだろうか。いやもし何もできることがないのだとしたら、そのようなことを考えることも最初から必要ではないのかもしれない。とはいえそれが実在するように見えて、しかも自分にとって絶大な影響力を持つものだと感じられる以上はそれを無視することなどできるわけがないのだから。それならば、たとえ不可能であり意味を成さない試みと知ってもなお、自身が望む物を本物にするべく何も気づかぬ時と同じように挑戦し続けることこそが人間として自然な在り方と言えるのかもしれない。もちろんそんな物は何一つ現実も状況も変わらないことを認めることであり、それが気に入らない以上はその変わり映えのしない挑戦と結果を同じ輪の中と知りながらも回り続けるしかないのである。

 

ああ、なんと虚しいことか!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・

という物を書いてみたのですが(笑)

 

 

私は思考と波動という物は必ず一致するという事実に気付いています。

それはつまり、書かれるべき物を必然として書く時には、必ず一時的にでもその内容に相応しい波動に自身が変化するということです。それゆえに私は、書かれるべきことが書かれるままにしておくことによって、別に自分の物にしておきたい波動ではない物を最も素早く解き放つことができるのです。なぜならその望んでいるわけではない波動とは、表現のための手段の一つとして与えられた物なので、その目的である表現を完了させてしまえば不要となり消え去るのですから。

だから一番最初の文章は一度も改行もしていませんね(笑)

思考の連続性やとりとめのなさという物を正確に表現するためにはあのような書き方が適切なのです。

ものすごく読みにくいですよね、でもあの波動と共鳴するのなら非常に読みやすい物にさえ感じられることでしょう。

 

 

 

というわけでこれは終わり。

 

 

 

思考が必ず波動と一致すると知ったことによって、自分の頭に浮かんでくる言葉を延々と頭の中ででも繰り返し続けてゆくと、やがて消え去ってみえなくなるというクリアリングの手段がどのような原理なのかも理解できるようになったのです。私がたまに書いているあれですね。今回の一番最初のやつもそれです(笑)

そこに感情的な体験を必要としない段階に達したのであれば、あとはひたすらそこにある波動を好きなやり方で捉えればいいだけ。私の場合は思考を延々と言葉として繰り返し、それらが別に自分の望んでいる物ではないと理解するまで続けるという手段だとか、このブログでそうしてきたようにとにかく全部書き出して吐き出してしまうというやり方が選ばれていたようです。

 

この記事はクリアリングの記事なので、文字に色も特に付ける予定はありません(笑)

ここにあるのは言葉に意味を持たせることではなく、そこに与えている意味を取り除くことが目的となっている文章なのですから。だから別にどれほど読みにくくてもどうでもよいことなのですよ。そもそもこれは読むような物ではないのだし、別に実体のない幻影であっても構わないと積極的に肯定的に幻想を捉えた結果の表現だからです。だから白黒はとても相応しいのですね☆

 

 

私は引き寄せの法則だとかをこちら側から意図的に扱うような便利な道具としてではなく、自分も含めてその力に覆われているのだと正しく知ることこそが必要だったのです。そのような見方をした時に、どうして現実は基本的に思い通りにならないのか、そしてどのような捉え方をすれば現実が必ず思い通りになっているのかのとても大きな別次元の隔たりを捉えることができるのです。そしてそれこそが望まない悲劇的な人生を究極的には何一つ問題も想定外も有り得ない完全な調和と幸福に満ちた人生という可能性を現実にすることができる手段となり得るものなのです。

 

 

本質とは得てして見えない物です。

それは見えないというよりも理解のしようがないと言った方が正確かもしれません。

 

残念ながら私は正しいことを書きません。今の私はそれを必要とはしていないからです。

だとすれば何を必要としているのかと言えば、どうやら実際に自分が必要としているらしい物を知ることです。このようにしてその意味も意図も知らないままになんとなくただなぜかしら書かれてゆく文字を見ながら、やがてその意味や全体像を理解してゆくような、そんな在り方こそが私という人間の最も有効的な活用法なのだと知ってゆくことなのです。

 

私は波動の波を行ったり来たり・・・という表現はあまり正確ではない気もするのですが、そのような感じで波動に揺られながらこれを書いているのです。これは現実の表と裏が反転した感覚では、割と楽しかったりどこかに遊びに出かけるような気分だったりもするので、そのことに気付いている波動状態であればこれはとても楽しい時間になったりするらしいのですよ、今気づいたのですが(笑)

 

 

 

 

 

・・・というような形に納まるようですね、私の文章は。

非常に長い時間そのような在り方に葛藤したり悩んだり抵抗したり識別するべく取り組んできたきもするのですが、流石に慣れてきたのかもしれませんね(笑)

 

つまりこれが私の個性なのです。そして私らしい在り方なのです。

わかってるはずなのに何もわかっていないような表現をしながら最終的には完全に理解していたと知る、という在り方が私にとっての正しい表現の一つなのです。それは私自身が確信していればよいことなので誰かの同意も必要としないことです。というか、目の前の状況を変えようとするよりも、自分の意識の在り方を変えて波動を真に望む物へと整えてゆくことこそが本命でありその過程に望むすべてが存在していると知るのなら、これは喜んで受け入れ感謝すべき事実となるのです。自分にとって最も受け入れ難く死ぬほど苦労するきっかけになった物が今では本当に素晴らしいギフトであり祝福なのだと、心からそう思えるのだとしたら、それはとてもとても神聖な在り方と言えるではないですか。そしてそれはとても素晴らしく楽しく幸せなことではないですか☆

 

そこまでたどり着いてしまったのなら、もはやこの記事の一番最初のアレだってただのプロセスに過ぎず、そこに見えるのは神聖さだけになってしまっているのですから。

 

 

外側に波動の意味を求めるのはどうやら本当に意味もなく役に立たないおまじないみたいな物かもしれません。

だって、自身の内側にそれと共鳴する波動が存在しなければ、それを認識することはできなくなってしまうのですから。だから私は本命ではない解き放つべき物を書き終わった後には既に意味のない幻や残像として静かに閉じるのです。

 

この、見えなくなるというのは本当に興味深く非常に神妙な体験で、これを繰り返す内に自分の眼や心に映し出される感情的な体験という物は必ず自身の内側にある波動と一致していると理解することができるようになるのですね。本当に信じられないほどの苦痛を感じている何かをずーーーーーっと感情的にも思考のレベルでも見続けていると、やがてそれが消え去るのです。そしてその感覚や感情が消え去った時に波動が劇的に変化して、目の前の状況(特に険悪な状態だった相手がいる場合)も劇的に変化するのです。

これはもう、素晴らしいというかファンタスティックでとても面白い体験なのですよ。だから過ぎ去った闇という物は笑い飛ばされる程度の扱いが相応しいということになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・という所まで書いて、私はこれを認識できなくなってきたので終わりです。実在を認識できない記事を書くことはできないのですよ。

そしてこれもまた一つの完璧な表現なのですよ きっとね( ´艸`)クスクスクスク