幻想と断罪の果てに。 / 許され癒されるべき時は来た。(未完 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

『本当の自分』というものへの疑問は、自分が心の一番奥で望んでいる物以外は現実になることは決して有り得ない
 
という理解により決着した。
 
 
 
決着したのですよ。
 
 
そして私が本当の自分という物を理解したことによって知ることになったのは、少なくとも今の自分は就労することもないし、何かを作って販売するということも有り得ないということなのです。
 
 
じゃあ何をするか?
 
だいたい音楽を聴いたりスマホゲームをしながら一日を過ごして、夕飯を作ります。そして抗うつ&睡眠薬を飲んで一日は終わるのです。
 
 
 
…………自堕落でしょうか、怠惰でしょうか?
そうかのかもしれませんね。でも、どうやら本当の自分という物は、私にとっての実在する現実とはそのような形だったのです。
それが現実である以上、もっとまともだったり常識的に思えるしっかりした生き方という物を手に入れようとしても、それらこそが淡い幻に過ぎないのですよ。
 
 
そしてそのような生き方が怠惰であり自堕落だと私が判断する限り、私とはダメな人間だと信じ続けることになるのです。
そうして私はようやく気付いたのです。私が望んでいた本当の自分とは、本当の自分という物ではなく、自分が欲しいと思ったものすべてを持っている何者かである、と。
 
この世界ではそれを幻想と呼びますね。
 
 
 
私はこのブログでも何度も書いてきたように、大きく異なる二つの世界観を行ったり来たりして生きています。一つは、とにかく自分が思った物とはかけ離れてしまっている、救いようもないほどに失望と失敗と無念さや苛立ちに満ちた世界観。
 
そしてもう一つは、それとは全く違う世界にしか思えない、あらゆる問題や困難と信じられた物が完全な全体の一部として納まり機能しているという驚異的な至福の世界。。。
 
 
 
 
私は幻想でも何でもいいから、とにかくこの思い通りにならない人生を何とかして欲しいと願い続け、その術を追い求め続けてきました。なぜならそれが必要だと信じていたからです。それなくして自分は決して救われることはないと心の底から信じていたからです。
 
だから、私にとって必要なのは、全く思い通りにならない惨めさと虚しさに満ちた目の前の現実ではなく、成功と輝きに満ちた幻だったのです。それは間違いありません。その視点を自分の人生とするのなら、今でも私はそれこそが正しいと思えるからです。
 
 
 
それでも、いつしか幻想は破れ去るもの。
やがて時間が流れ……もはや自分以外の誰も、自分を責めなくなった時には、必要になるのは過去の悪夢を繰り返し思い出しなんとかそれを現実にしようと躍起になることではなく、時が流れ変化した状況に相応しい現実を選べる自分を受け入れてゆくこと。。。
 
 
きっとそれが許されるべき時なのでしょう。
そうなってしまっては、わざわざ思い出したいわけでもない苦悩をずっと引き摺って思い出させようとする自分の在り方こそが、迷惑な存在になってしまうのですから。
その時こそが、善悪の判断が反転することになるタイミングなのでしょう。私はようやく、その時を迎えつつあるのです。
 
パートナーであった元カノも私を裁くことも否定することももはや必要とは感じていないのです。家族も今の私の在り方を裁くことを必要とは感じてはいないのです。
それら、私の罪悪と失敗の証人であった彼らが私を裁くことを必要としなくなったのなら、私は許されてもいいと言えるのでしょう。そして今では彼らが必要としていることは私が自分自身を裁いて罪滅ぼしをしようとすることではなく、支えとなり、共に生きる物として協力することだとわかるようになってきているのです。
 
 
確かに時間は流れたのです。
そこには一つ一つ状況の変化もありました。
私が待ちわび、望み続けていたけど、時間が長すぎて既に忘れてしまっていた時が来たのです。
 
 
残された物は、もう一つの可能性。
自分には必要のない物として、恐れ否定し切り捨てようとしてきた本当の現実が目の前にある。そこには私が思っていたような栄光や成功は見えないのかもしれない。それでも心の奥底では、幻を追い求めた自分ではない本当の自分にとってはずっと知っていた本当の世界と輝きがあるのです。
 
 
 
もう偽りの自分には勝ち目はありません。それを選んでも文字通り何も得られないかもしれないのです。消え去ってしまった幻を追い求めることは不可能なのですから。
 
 
今までの概念や思考が、反転することになって、それが以後通常の自分の意識として定着して行くことになるでしょう。
状況は特に変わらないでしょう。もしそれらを判断しようとするのなら、私は夢に破れ貧しく惨めな自分と人生という可能性を思い出すこともできるのだし、好きな方を選ぶための時間を必要としていくことでしょう。
 
なにしろ
間違いを探し、自分と人生を惨めな物として否定し虚しさで満たすための材料はいくらでも見つけることができるのですから(笑)
 
元より神経質で細かい部分やアラばかりが目につく私にとっては、物事や人の隙やほつれを見つけることはとても簡単で自然なことなのですから。
 
 
ただ一つ不幸なことは、その性質や能力の本当に正しい使い方を知らないことですね。使い方によっては全体像を見極め調和を保つために本当に役に立つありがたい洞察力としてあらゆる物に当てはめられるのですから。
 
 
やがて私は年齢を重ね経験を増すことでそれらを自分の物にすることができるでしょう。時間は急速に速まることも遅くなることもないかわりに等しく流れてゆくのですから。
 
 
 
 
 
 
そして私は疑問に思うのです。
就労や仕事を選ばないとしてこの人生にはどのような意図や計画があるのだろうか?
 
 
関係するすべての人間の事情や基本的な性質を、あるがままの現実であり一つの可能性として受け入れられるようになった私なら、全体像を見通すことは決して難しいことではないのです。私にとって最も難しいこととは、どれが本当の自分なのかを識別し諦めると同時に獲得することなのですから。
それらを一つ一つ識別するためには時間と経験を必要とするのです。だから若い頃はとにかく未熟でイライラすること間違いなしなのですよ!(笑)
 
 
 
 
マチガイサガシ、存在せず。