目覚めてなくても私はマスターである。 / 奇跡のある道に必ずたどり着くから。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

これは10/1/午後8時40分頃書かれた記事です。



……ものすごく嫌なタイトルですね。


でも、今、私が教えられていることとはそういうものなのです。本当に嫌だと思うのは、その言葉に関係する記憶が思い出されているから。それは半ば無理矢理に幻想から引きずり出されるような経験をしたと思ったままの記憶。
その闇に、今こそ正しい理解という光が与えられているのだとわかるのです。

だから今の私は理解できなかった自らの振る舞いを恐怖と共に見つめてきた時の記憶が蘇っている所なのです。辟易です、満身創痍です、戦意喪失です、無力な自分を思い出しています。。。




私は、幻想をそうと知らずに見過ごすという経験を何度もしてきました。それらは私の見ているものとはまったく異なる何かで、私はそれらが理解できず怒りや恐怖ばかり感じて、まさに身体の中から自身の振る舞いを見つめてきたのです……。
私はそれらがずーーーーーっと理解できなかったのです。きっとそれは押さない頃から同じ。私がこれまでずーーーーっと最大の幻想として残してきた、なぜか目の前の誰かの怒りに自分は何の反応も返さないことがあるという疑問です。


先に明確にしましょう。私はずっとそれらに誠実に対応すべきだと思いながらも、まったくそれらに対して反応できない自分は頭がおかしいのだと信じて生きてきました。


……実に不愉快なことですね。そう、その通り。
それもあって私は善だとか愛だとかを信じなくなったので、自ら偽悪的な人格を選んでいったと思っています。そう、ちょうど偽善が信じられなかったから反対の偽悪は本物に足るのかを知るために試すみたいに。


しかし、奇跡のコースを独学でも学び、幻想を見過ごさせてもらうということを意味もわからないまま理解できないままに一年以上続けてきて、今こそ、そのような問題を無視したような自分の振る舞いがなんだったのか、なぜそんなことをしていたのかを理解する一つのインスピレーションが与えられたのです。
それは、どのようにして幻想の世界を越えて罪も問題も存在しない癒しと完全さで満たされた世界に入っていくのか、またその時には自身は人間としてどのような経験をするのかということを教えてくれます。


私が奇跡のコースを信頼し受け入れるに値すると判断した一番の理由が、神の教師となる存在へと向けられた教えや指導項目みたいなものが、自分にとっては自然なものであり、それこそこの世界の何かが引っくり返っていてどうやっても受け入れられないようなクソみたいな概念や教えと違って、本物の世界と自分を経験するだけじゃなく言葉でも表現できるようになるくらいに正しく学ぶことができると確信したからです。それはまさに救いでした。この世界は私を受け入れないし、その世界を生きる人間としての私は生きるに値しないと強く感じていたからです。

失望の核となる意思がそこにあります。だから私はこの幻想の世界を生きるなら、それは死んでいることと何も変わらないし、身体ごと無理矢理に行かされているだけだと感じていたのです。
そこで私は世界の最果てだと感じられる場所にたどり着いたと感じたのです。そして悟りました……もうその先はどこにもないのだと。だからどこにいっても何も変わらないのです。そこで生きるくらいなら死ぬことだけが望ましく、それだけが唯一の救いとなるという言葉の意味が理解できたのだとわかりました。

しかし私は死ねなかったのです。それはできないのですよ。それでも死にたいなら死にたいと願い感じる私の意思が死ぬしかないのです。私には成すべき何かがあるから、私の意思が死んだとしても身体はそのために動き、必ずそれは成されるのだと感じていたからです。正直私はそれでよかったのですが、残念ながら世界はそのようにはできていなかったのです。



残念ながら世界はそのようにはできていなかったのです。

これ以上に幻想に目覚める瞬間に感じられる想いを表現するに相応しい言葉があるでしょうか?
それはどれほど力ずくで開けようとしても開かなかったドアがようやく開いたと思ったら、そこには足場も何もなくてなんだかよくわからない世界に飛び込んで救われていたと気付く、みたいな感じなのですよ。
意味がわからなさすぎて泣くかもしれません。
救われた喜びで泣くかもしれません。
何もわからずに泣くかもしれません(笑)


それが最も困難な幻想から解放される瞬間という体験なのです。その時に目の前にいる誰かが居たなら、今までは恨みや憎しみで呪い殺そうとしていると感じていたのが、一瞬にして慈愛を向けてきていると感じられるようになるのです。

まったく意味がわかりません。
わからなさすぎてどうすればいいのかもわからずポカーンとするのが正しい反応なのでしょうね?

いや本当に。幻想を赦すという意思を持たずにそのような状況を経験したなら、そんなポカーンとするだろうし、もし一度でもそんな経験をしたのなら誰かに感じる闇とは幻想で、本当は愛がそこにあるのではないかと理解できるようになるのですよ。

そしてそうなった時に初めて、どうやら自分が選んだものは間違っていなかったのだと理解することができるようになります。少し前まで見ていた悪夢のような記憶が交ざって混乱するようにもなるでしょう。でもそれが幻想の相手と闘わずに解き放ってゆくという選択を呼び覚ますのです。

私はこれをパートナーとの間に経験して、十分に理解できたらしく、以後、自然と別れる流れへと進んでいったのです。その流れは本当に十分に奇跡なのだと思えました。その流れの中でそれまで解決不可能と信じていたものが一つ一つ取り上げられ解消されていったからです。

個人的に絶対に不可能だと信じていたものが達成された時に、やっぱり世界は自分が思っていたようなものではなく、自力でどうにかできるようなものではないけれど、本当の力ならいとも容易くどんな問題も文字通り消え去ってしまうのだと信じられるようになりました。


よい機会です、それをここに明らかにしておくことにしましょう。


私が絶対に不可能だと信じていたものは、父親にこれまで私が見てきた世界観や生きてきた現実というものについて必要と思えるだけすべてを話して助けを求めるというものでした。


……もちろん言いましたよ、無限の豊かさだとか、スピリチュアルだとか、マスターだとか、スピマにも出店したとか、そういう普通の人間には絶対に理解してもらえずに受け入れてもらえないと信じていたすべての闇を!!


それらの、私の本質にあたる、これまでひたすらに隠してきたものを、最も言いにくいと感じている父親に話したのです。もう後は何でもいいって心境でした……私は死んだのだと思っていたので、ある意味ではとても気が楽でしたよ(笑)

って言うか、もう完全に自力ではどうすることもできないと悟ったので、もう神に救いを求めたのですよ、文字通りにね☆
そこで私の、この幻想の世界との闘いは終わったのですよ……もちろん私の完全な敗北という形で。そして私は完全に敗北したのに、救われたのです。もはや生きるに値せず、社会的にも死んだような状況にあって、生きる道も明らかになったのです。


それが奇跡の道でしたね。


そういう問題も跡形もなく消え去るんだ……という現実的な経験もしたので、その力が現実味のないものとは思わなくなりました。跡形もなくなるのですよ……まるで最初から何の問題でもなかったことにようやく自分が気付いただけみたいに。


………………私はまだその本質を理解していなかったのです。一年半ほど前、すべてに降伏し、社会的な契約や法に関係する領域にも関係なく奇跡は及び、完全に跡形もなく消え去った奇妙さを見ていた時と同じように。



だから今こそ私はこの答えを自分のものとして受け取ることができます。すべての問題に見える状況というものは既に存在しないものとして見過ごされることだけが相応しいのだと。

だからこそ闇であるものは隠さずに明らかにされなければならないのですよ、それを誰かに表現するかどうかは別として、それが問題だと信じている意識や感情や、それが現れた行動こそが問題が実在すると証明させてしまうから。

だからこそ闇と信じられるものは隠さずに光の元へと連れ出して、それが本当に実在するものではなかったと知ることが必要なのです。これこそが闇でありすべての幻想を越えていく唯一の手段なのです。



だから幻想と信じていたものが浮かび上がる時にそれが本物のように、実在するように反応せずに居られたならそれは消え去るのです。それを見なければ元々存在しないものだったのですから。それが明らかになった時にはどんな深刻な悩みであっても笑い話になるのです。


……そんな経験をついさっきしたので。
それが正しいとか間違っているとか行動を選ぶのではなく、それが本当に存在する領域でそれがただの思い込みの錯覚だったと理解しなくてはならないのです。
そしてそれはこの世界には存在しないのです。だからこそそれらの問題は幻想と言われ、幻想ではない実体の領域で簡単に取り消されるのです。

そしてこの世界に存在しないがゆえに、人間には決して手の届かないものなのです。







そして私という人間の振る舞いもまた真の現実では唯一の意思によって選ばれている。だから私がその意味や理由を理解できないとしても、本質の私に相応しい振る舞いだけは守られるのです。




……たぶんこれを自分の個人の願いだと感じることがなくなったら、目覚めてなくてもすべての存在は完全なままである、って表現することになるのでしょうね。
でも今の私はこの理解を自分に必要として求めています。それがすべての存在に示されるに相応しいものだという確信が今の私にはないからです。そして私はそれをまだ完全に受け取っていないので誰かに差し出すことは不可能なのです。持っていないものを差し出すことは誰にもできないのですから。



私は気付いたのです。幻想をそうだと確かに知っている者に表現するやり方と、幻想の中にあると気付いていない者に表現するやり方は明確に違う形になるのだと。
……それも幻想って話をしたらマチガイなんだよ。それならこの私も幻想、このもじも幻想、全部が幻想だわね!!ってなっちゃうし、それを見てる人が幻想って気付いてない状態だから。

その加減っていうかバランス感覚が必要なんだよね。






うん、
これを完了したことによっていくつかの幻想を束ねた後で、病気とか罪とか欠乏とかバラバラに見える概念を扱っていけるはず!


私はこれを書くのに疲れたので終わりにするよ(笑)