ノートであり記録であるもの。
私はこの、一人の人間として到達できる最高のレベルになったとしても、実際には持ち得ない幻想に過ぎない自分像というものと、幻想の世界と本質の世界では知覚が反転しているという部分を見ていくことで重要なことに気付けると予感している。そしてそうやって、自分にわかるものとわからないもの、持っているものと持っていないものを正しく識別することは、本当に自分として持ってうまれた神聖な計画を顕現させて生きてゆくという目的には必須だと感じる。。。
これはあたかも終わりのない探求の旅のように見えることに気付いているし、実際には一つの道を正確に辿っているだけだということもわかる。
だとすれば、それらの異なるレベルでの知覚と自分を、もっと正しく価値あるものとして使っていくためにはどうすればいいのか?
というのがこの話のゴールになるのだろう。
「知っている」らしいものを知っていると表現しながら、それを本当に知るためのプロセスを意識的に辿っていく……それが今の私に必要なんだ。
そして幻想を幻想と気付かないでいる自分を表現する時は、必然として「そうなる」ということをいい加減に受け入れて完全に統合させてゆく時期に入っているんじゃないだろうか?
いかに見せかけと知覚がそのようであったとしても、本質は既に「完成している」ということには気付いていられるはずだ。だからをそれを実際に行っていく。
本質を表現している自分と、幻想を表現している自分が入れ替わる度に一々戸惑うのはやめにしなさい、といった所か(笑)
とにかく、こうしてここに書かれたものは実際に完了されて次へと進んでゆくのだから、それを眺めていればいい。
どこかの時点に到達したから完璧なのではなくて、完璧であることを常に選び続けるからこそ、その者は完全無欠であると知っていられる。それを証明するためのすべてを実現しているからそれは可能になる。
だとしたらそれは、一瞬一瞬の繰り返しの中だけに見出だされ知ることができる完全さそのものとして存在していることを自ら選択している結果だと言えるだろう。
つまりそれは、私が本当に完全な存在として生きていきたいと願うのなら、常にそれだけを選んで実現していくことで可能になる「在り方」だということ。
そこには幻想は存在しない。すべてをそれと知って意識的に選択して実現するのだから、それらはすべて本質の現れそのものであるのだから。
だとしたらこのように、あたかも混乱や幻想が見出だされているかのような表現の中で、一体どのように完璧さを保っていくことができるというのだろうか?
もちろん、その答えは既に書かれている。
それに気付かないのは、その意識こそが幻想そのものだから。それを外れた瞬間にわかる。そして本質はそこにだけ存在する。
どれだけの時間、どれだけの頻度で、完璧さと本質だけを選び続けられるだろうか?
つまりそれが、今の自分がどれほど完全無欠な自分としての在り方を選んで実現しているのかという結果とイコールになる。
……というかそもそも、幻想を表現する自分である時に、必ず自分も幻想をみていなければならないのだろうか?
後になって幻想を見ていた時にも、本質は確かに存在していたと知ることになるのなら、わざわざそんなものを選ぶ必要なんてないし……何より、それじゃあもうそもそも「幻想を選ぶ」なんていう表現こそが幻想でしかないわけで。。。。。
……↑に書いたものが「なにかわからない」と感じるようになった。多分、それで完了。もう私が見ていたものは存在しない。
「積極的に幻想を使う」って、なんだろうか。
それは信頼というものと関係あるのだろうか?
でも、幻想を見ながらそれを活用するなんてできるわけが…………………………??
………………もし、幻想があるかないのかの違いというものが「それを見る者」にだけある錯覚なのだとしたら、、、、、実際には無意味である。
それは実在しないし、意味も持たない。。。
元よりそれは、「元々自分が持っているものだ」と思い出すまでに必要なことであって、、、だとしたら、そのあとは、どうなんだろうか????
それが、統合だとしたら?
自分の外にあると、持っていないと信じていたものが「既に自分の中にあった」と知ったのだとしたら、それは…………………………「存在そのもの」になるんじゃないだろうか?
自分の中にあり、自分そのものであるものを一体どうやって自分の外に探すことを必要だと信じることができるのだろうか。
だとしたら、それはなんなんだ?
かつて理想として追い求めてきたものが、自分の中にあったと知った時に、どうなるのか。
……どうもしない。探さなくなるし、持っていると知っていることに満足する。願うものと自分自身が一致していることにくつろぎ満たされ感謝するだろう。
きっとそれは、自ら選択することなしに、決して知ることはできないのだろう。だから、そこに導かれるものはすべて意識的に選択する訓練へと導かれる。
そして「本当に知っているということ」は、きっと何か特定の在り方とそれを表明する上限というものがあるのだろう。つまりそれは「幻想を通して本質が現れる状態」なんだと予想される……。
…………………………理解、しにくい。頭がいたくなるような概念だ………………。しかし幸いにも私はそれを実際に経験しているのだ。それが「幸せな夢」という概念だ。
人生がどれほど本質を現すものになったとしてもその実体は確かに「幻想」なのは変わらない。幻想は真実にはならないし、真実は幻想に置き換わることは決して有り得ない絶対だから。
しかし、そこに映し出されるものが真実を表すものにはなり得る。そしてそれは、正され癒され浄化された心によって可能になる。。。。。
………………つまりそれは、本質は心に映し出されるものだということではないだろうか?
そして実際に見ているものとは、そのようなものだったと、そう気付いていないだけなんじゃないだろうか?
心で、見る……?
心を通して、見る?
……………
…………
………
……
…
…………………………終わり。