この記事は頑張りません。よって文字は白黒。
情報の整理のために書かれています。
「自分自身を解き放つほどに自分の人生は確実によくなっていく」という確信を得つつあります。
一見して「間違っている!」と思いたくなる弱さに直面した時、無意識と惰性から本質的には同じ過ちを繰り返そうとしている時、自分の意思と心が分離し葛藤している時にも……
自分自身の定める正解という枠を取り除くことができたのなら、完全さと完璧さが存在していることを思い出して、それを自分と人生として取り入れて行くことができる。。。
これが本当に真実だと、祈りとは現実的であり頼りになる力だと知ることは救いであり癒しです。
文字通り、その選択が、自分を救い癒す結果を生み出す原因を選ぶことだと知るのなら、もはやそれを疑ったり迷うことは苦しみと間違いを自ら選ぶことでしかないと認めざるを得ません。
その時、それが本当の自分に相応しいものだと悟るのでしょう。
……という理解を得るまでにも、やはり個人的な闘いはあるわけで。
私はそれを、現状唯一「仕事」に相応しいものとして行っている「夕飯の調理」という所で学ぶことになったのですが。
………………限られた食材で「真に望まれるもの」を見出だして料理として仕上げる、というのはその意味内容としては非常によい教材になるものだと思い知らされました。
例えばカボチャ。
苦手です。好んで買わないし食べなかったからレシピ開発が進んでないからです。
あとはなぜか、いつでも冷凍庫にも冷蔵庫にも補給されてくる魚介類。切り身とかはよしとしましょう、わかりやすいから。
しかし「しらす」だとか、自分では買わない食べない興味はない、という食材ばかりが余ってゆくのですよ!!
しかもなぜか、新しく食材を買いにいく機会に巡り会えず、母親が気まぐれで買ってくるいくらかの野菜やらと、なぜか冷蔵庫内に実際に存在している魚介類なんかを使って料理をつくってゆくのですが、
それも一週間、10日と続いて行くと、本当に、苦手な素材ばかりが残るわけですよ!使えなくて無意識に避けてるから!
それまで避けていた食材をメインにして、自分に「真に望まれる」ものを仕上げる……やりにくい、非常にやりにくい、とにかくやりにくい!!
それは苦手だからと避けていたタイプの人と無理矢理に協同させられるようなものっっ!!
実にストレス、超、ストレス、
しかしそれは明確に「私に与えられた課題」だとわかるので逃げようもないのです。だから、少しずつ、避けていた食材も活用する方向にシフトしていったわけでして。
「いや、これ、もう食材ねぇじゃん!!」
と思いながら、「やっぱりこんなの間違ってる」という誘惑と闘い葛藤しながら、時には数分その場で停止して、「自分が何を感じているのか」を探ってみたり……。
その果てに、最後の手段として「自分の考え」を手放して、そこにある完璧さと意味を教えてもらうという選択をすることになったのです。
……
…これが「雛型?」という思いはまだあります。
しかし、本当に見ようと決意するなら、それは確かに私が今この時点で学ぶに相応しい経験を得るために最適化された状況なのだとわかるのです。
そこまでたどり着いたことで、それは終わったのでしょう。以後私は、「喜んでそれを選ぶ」ということを課題として与えられていると感じているわけです。
この記事も同じ。
「自分の考える正解や意味」を選ぶなら、私はこれが正しいのかどうかわからず葛藤することになるとわかります。事実、少し抵抗してるので(笑)
これまでのように「仕方なく自分を解き放つことを認める」のではなく「喜んで自分を解き放つ」ということが学ばれるべきことなので、そもそもそんな本質を見失って「これらの素材で何を作ればいいのだろう?」などと混乱しているのは、あまりにも残念だと言わざるを得ないのだと正気である限りわかります(笑)
……であるならば、この状態の意識と理解に相応しい祈りの言葉に改められる必要があるでしょう。
そもそもが目の前の「形」に意識を奪われて本質を見失っているのなら「私は何を忘れてしまっているのか思い出させてください」という祈りが必要になるし、実際それはゼロポイントに戻す前提条件みたいな祈りなので、なるべく取り除かずに行うことが望ましいのでしょう。
そのあとには「私は何を意思し思考すればいいのかをはっきりと思い出させてください」という言葉が望ましいでしょう。なぜならこれは「悟る」という概念に通ずるもので、そこには「そもそも私は本来それを知っているのだから」という意味合いが含まれるからです。
実在であり本質であるものを捉える、見えるようにするというのは「悟る」ことであり「思い出す」という言葉と同義です。
つまり「悟る」ことを望むのなら「私が本当に知っていることを完全に思い出させてください」と心から願う必要があります。
まず「悟り」を望む段階ではそれはまったく魅力を感じない提案となるでしょうけれど(笑)
一切の抵抗も葛藤もなくそれが望まれるのなら、完全な祈りとして瞬間的に答えは返されることになるでしょう。
なぜならそれは自分自身が妨げない限り、それに気付く前から「目の前」にも「自分の中」にもあるものだと思い出すだけでいいのですから。
しかしその時の「私」であるものとは、自我の私とまったく違った理解を得ます。
……私が今これをなぜ書いているのかわかっていないことに初めて気付いて「?」となるように。
そしてそれを知ることを心から望むなら知ることができるし、思い出すのです。
心から望むとは「それこそが私の意思だ!」と宣言することであり、それを証明させることになります。
まぁ、それは自然発生的に条件が整っていって、ある時にそれが超自然的なものだと、それを自分の意思と完全に重ねた時に可能になるのでしょう。
しかし残念ながらその者は形を見ていないので、物質それ自体に干渉しません。もしそのような奇跡が成されるのなら、それがその者に望まれる姿形だから、ということになるのでしょう。
そのような理由で悟りに到達したとしても、超自然な能力を使う機会は「自分がそれを望む段階にある限り」与えられないでしょう。
(経験談)
はぁ、そうなんですかぁ。
これはここで終わり。
これ、書こうと思った話じゃないしなぁ。
はぁ、そうなんですかぁ( ´Д`)