これまでに自分が人生で得た力を総動員して、真に意図される意思を見出だしそれに自分を統合してゆく……ということをしてました。
より具体的には、お金、料理、家族との関係などなどの要素を使って、↑の学びを進めていたということなのです。
あまり一般的な技能を持たない私ですが、バイト生活で調理の技能と知識をある程度習得してるのど、少なくとも自分が美味しいと感じられる食べ物をいろいろと作れるのです。
その技能を活用して、家事手伝いとして夕飯の支度を引き受けてお小遣いをもらう……という試みを実行したのです一月中に。
なんとか、メニューの被りやアイディアの枯渇などの問題に直面することもなく、約1ヶ月の間、晩御飯を作るという目的を無事に達成できたみたいなのですよ(意外なことに)
相応にやりがいは感じられます。
とりあえず「自分が美味しいと感じられる料理」を作ることは好きなので「マンネリや芸のなさ」を回避するためにレシピ開発に挑戦してみたりして。
こんな人生状況ですからね、自分が作ったものを家族がおいしーおいしいと食べてくれるというのは、なかなかに嬉しいものなのですよ。資金面とかでは借金者なので(  ̄ー ̄)
「まずはこの一年は家の移り変わりを見る」という予感があったのでそれを継続中なのです。実際にそれを四月からここまでやって来て思うのは、自分の家族や家はこのようにして回っていたのだなということなのです。
お金の話、仕事の話、病気や健康の話、ゲームだとか趣味の話などなど……。
家庭に居場所がないと感じて進学をきっかけに家を出たあと、(元)彼女と離れたり戻ったりを何回か繰り返して、計らずも実家に帰ることになってはじめて家族がどのように生活していたのかを知ることになったのです。
死に損ないのような生きあぐねている何者かのような時期を過ぎて、相応に自分がこの状況に置かれていることには意味があると気付くようになって、奇跡のコースの学習と実践をはじめていって
いつの間にか9か月ほどは経ったらしく、ここに来てようやっと、何かを否定するということはすべてを否定しなければならなくなるということに気付くようになったのです。
思えば、離れていた間にも家族の人も色々とあったわけで、それらについて度々少しずつ考え続けてていたのですが、やがて過去のどこからでも「あの人は間違った選択をした」と信じることは、全く自分の望むものに相応しくないと理解できるようになったのです。
ようやく、否定しようと思えば「あなたはそれを間違えたor否定するならあなた自身も必ず存在が否定されることになる」という結論に実際に達したのです。
仕事、就職離職、病気………………
それらが間違ったものではないのだとしたら、私が切り開こうとしている道は必須事項でさえあるものなのではないかと感じられるように変化していったのです。
それは「誰だって自分の人生が間違いだったと否定され有罪を宣告されることよりも、何一つ間違いなど有り得ない完璧な流れであり今も完全に調和している」ということを知りたいと感じるはずだという意識の変化によるものです。
見ようと思えば罪は、見えます。。。
それは私が「なんとなく仕事をやめて人生に失敗してしまった」ように見えるのと同じく「間違った場所に勤めてしまった」ことだったり「事故を起こして仕事を失ってしまった」だとか「人間関係がうまくいかず病気になってしまった」だとか
………………見ようと思えばそれらは罪です。完全に間違いに思えるでしょう。事実そのようにずっと思っていたし、そう感じられたのだから。
でも、私は、そんな人生は嫌です。
救われません。現代社会で言う「現実」なんてものを見るのなら私の家も私自身も明るい未来など想像することは不可能なのですよ。
「ただのフリーター上がり」で「自動車免許も持ってない」私は、「まっとうな仕事」に就くことはできない(やらない)でしょうから。
年金も健康保険料も払わずに踏み倒し、その請求のすべては家族に払ってもらうわけですよ事実として、
罪を幻想を見るなら全く救われません。
至福の世界と遥かな理想を求め、「光」に導かれて進んできたこの人生とは間違いであり、ただの社会不適合の落伍者でしかないわけですよ私は。
直線的に人生を見るならそんな感じです。家庭の年収も貧困層のラインを余裕でぶっちぎるような状況なわけで、
まったく、
この人生には救いなんてどこにも有りはしないのですよ!!!
幻想を見るなら。
まさか、このような話を、このブログに書く時が来るなどとは思わなかった。本質のであり「エッセンス」であるものだけが羅列されてゆくブログだから私個人の人生状況などというものは不必要なものなのだと思っていたから。
こういう「あの時は辛かった!!」という話を聞いた時には「もうそれは終わったのですね、もう安心ですね、よかったですね」という観測をして証明してやればいいという。ネガティブな話、とかいうものを聞いた時にはそうすればいいのだとか。
まぁ、私とか家族の人生状況ってのがそんなものだったとしても「それはそれ、これはこれ」なわけで。
一人の人間として自我が見てる世界ってのは実際には関係ないものだし、そういう一個人の意識を飛び越えて自分の人生を見通すっていう言葉が意味するものを少しだけ理解できるようになってきている。
まぁ、つまりそれが「時間をゼロにする」の意味するものの一つなわけで。
幻想が悪夢なら、時間というものが遅すぎて気が狂いそうだという思考があるのなら、その感情を体験しきった後には、完全に無視してしまって構わないのだ。
まぁ、それは「この世界で感情を味わい尽くす」という超☆重要事項を既に完了させた者にしかできないのだけれど、そこまで来たら、辞めようという意識に気付いた時が幻想を手放す時だから。
まぁ、このブログが何年も続いていてご丁寧に葛藤や「内なる闘い」の記録もそのまんま残されてるくらいに何年も挑戦して進んできたわけで。
それらの経験が、やがてすべての罪を洗い流し、神聖さと完全さだけを見続ける救済者のビジョンになるってんなら、「今となっては」祝福の一面になってるんだ。
今となっては、ね!!
……それが私の引き受けた役割なんだ。
それらをわざわざ、スピリチュアルだの宿命だのチャネリングだの奇跡のコースだのと語る「必要はない」わけで。
そーんなことを延々と考えながらも、実際の行動としてはソシャゲをプレイしながら晩御飯を調理して、それらすべてに完全な調和を証明する意味を見出だすことに意識を向け続けてみたりして……
それが、私の人生なのだ。
最近は割と、気に入っているみたいだ(笑)
ただ一つ、自分が思うような幸福や成功の枠組みとレールを組み上げようとせずに、最も善いものが望むよりも先に与えられていて、自分はそれがわからないだけだからそれを知ることに全力すればいい、
って在り方を選べるのなら、その瞬間はすべての間違いも罪も消え去ってるんだ。
つまりそれが私の役割であり願いなんだよ。
それは本質的に自分自身のために実現を望むものであり、現実的には関わるすべての人々にも最善のものが与えられているということを「見る」ということなんだ。
不毛な闘いを辞めるのに何年かかったんかねぇ。
うん、そうやって振り返ると「ここまで来た!」というのは事実なわけで。嬉しいね(ノ・∀・)ノワーイ
ただの一つも取りこぼさずに罪を見ずに幻想を選ばない意思と在り方を実現するってんならさ、実は「今あるその場所で与えられる状況のすべてに最善と完全さだけを見られるように訓練し続ける」ってのが一番の近道だったってわけだ。
まーね、そんなのすぐわかるわけないよね(笑)
だからこれは結果論。「その時」は来たんだね。
砕氷のモリみたいなものをわざわざ買って振り回したり、木刀を振り回したり、物干し竿も振り回そうとしたりしても、
それも私なのだ。
そしてそれは、結果論なんだ!!
どうやら私とは「そういう人間」であり「そういうお人だから」と言われて呆れられて許されるくらいがちょうどいいのだ。
そして人間って、みんなそんなものなんだよ。
どんな聖者だろうがマスターだろうが、一個人としての趣味嗜好ってのは必ずあるわけで、まさに「それはそれ、これはこれ」なんだよ。
そうやって、すべての人間をあるがままに認めることで相手にも何も責められることなく許されるようになってゆくのだとしたら、人生って、どう変わっていくんだろうかね?
存在も行動も意思も、そのすべてが間違っていると言われる季節を越えて、やがてはそのすべてが完璧で喜ばしいものだと分かち合うことができる時がやってくるのだとしたら、人生はどのように変わっていくのだろうかね。
納得して死ぬために生きる人生を越えて、真に望むものを体験するために人生のすべてを使うことを決意するなら、人生はどのように変わっていくのだろうかね。
この世界は救いを求めて闇や弱さと闘い続ける舞台ではなくなった。救われていることを知るために弱さと闇のすべてを正し癒すことが進むべき道になったからだ。
自分に与えられるすべてを真に望まれるものを知るためだけに使うことを選択するなら、自分に与えられるものとは必ず「自分が望むもの」になるのだろう。
その時、すべての願いは自分が気付くよりもさきに叶えられていることに気付くようになる。そうなれば、きっと誰だって感謝するだろう。
きっと、「すべてが自分の思い通りになる人生」ってのは、自分に意思され望まれるものと自らが望み選択するものが完全に一致する状態になっているから、必ず自分の願いは叶えられているという確信があればこそ実現する世界のことだったんだ。
三、四年前に、知りたいと願ったその真の意味を知った私は、何を望むのだろうか?
もし、正しくその言葉の意味を理解することができたなら、どこかに行って足りない何かを探そうとするでもなく、自分が持っていないものがあると信じるために何かを手に入れようとすることも不要になって、だとすれば、きっと、今置かれている与えられているすべての経験と体験と周りの人々、それら自分と人生のすべてに、完璧さと祝福を見出だしてそれらを喜び讃えることになるのだろう。
その時、たぶん、私はどこにいて何をしていたとしても完璧さと喜びだけを見るだろうから、すべてに感謝し喜びそれを分かち合おうとするのではないだろうか。
どこに行く必要も、自分ではない何かになろうとする必要もないのなら、自分と人生のすべてを喜び感謝し楽しんで過ごすことを選ぶだろうから。
そんな、果てしない理想だったものが現実の状況や人や物の有無に関係なく実現されるものだと知るのなら、私は自分と自分の人生にあるすべてを喜び祝福し分かち合おうとする者になるだろう。
それは、実はもう既に今では手が届く願いになっているのかもしれない。。。
自分が思い描く幸せな人生と理想像を手放すことができるのなら、それは既に目の前にあるのだ。
もはやこれが私なのであり、それこそが私が引き受けたものであり、果たされることを望まれているこの世界での役割なんだ。
なんだか随分と遠くまで来たものだ。
ん?
もしかして俺って、既に目指した地点にたどり着いたんじゃないのか?
それが勝手に証明されるようになるのなら、もはや逆に疑うことすら難しくなる(笑)
あぁそう、ようやく(一度は)心が決まったんだよ。この人生にケチをつけるのは、最後まで完了して真の意味と計画と価値がわかってからにしようって。
ってわけで、どれほどに素晴らしいものがあるのかを知ることを目的にします。
いつの間にかそうなってたのか……知らんかった。
とか、そういうことを「ブログに書く」のも私だということ。言うべきことは「どうやら私とはそのような者らしい」ってことになるね(笑)
事実なんだから仕方ない。そしてそれを否定するのは少なくとも肉体が死んでからだ!!
今そこらへん。
で、今日はなぜか妹とコレで遊んだ(?)
芋のメーカー ってやつ? 今回はリンクなし。
「この(慈愛に満ちた)目が最高だよな!!」とか言ってたら妹に「あー、ハイハイ」言われた。生温く見守る優しさって大切。
目がピンクなのは二次元キャラ前提だからです。
三次元にピンクの目なんてないよ。
うん、やはり二次元は理想像を描いて眺めて楽しむには素晴らしいものなのだ。三次元と混ぜてはいけないよ。混ぜるな危険!
……↑そういうこと言ってるのも一人の人間としての私の趣味嗜好ってやつだわね(笑)
(いやでもこれすげぇ便利なんだぜ?なぜかっていうと、理想の「異性」像を作り上げて恋に恋する幻想偶像真っ只中!って状況の時に、「こ、コイツは可愛いぜえええぇ!!」って心を燃え上がらせれば偶像を追い求めずに統合を進めてゆけるってわけで。理想の二次元美少女?を追い求める中で幻想が打ち破られるという素晴らしい発明に違いないのだ!!)
すごくニ○コイの色とかデザインに似てるなって思った(アニメのやつ、詳しく知らないけど。)
妹が無理やりとってきた失敗スクショ
「すべてに真に望まれるものだけを見る」ってのは実際にはそういうことなんだよ。例外はない。
どれだけブレようと意識は勝手に本質を捉える……それもまた私の一面。
今日はこのブログ少し頑張った。
らしい。
とりあえず真に望まれる役割は抵抗せずに果たすのです。その積み重ねがあればこそ時間は有意義なのだから。それがやがて本質の輝きになると思えば感慨深い、はず。
芋のメーカーの素晴らしいところは、前髪とか後髪とかに分かれてて、女性の髪型の知識がなくても試してればそれらしいかたちに仕上がってその構造がわかるという所。そして絵が好みです。
(これ最初から最後まで全部書いて初めて意味があるんだぜ?)