承認申請 / 証人尋問 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

事実上、過去を変えることができるのなら、当然現在も変わるだろう。確かにヒーラーならそれが可能だ。



だとしたら私はヒーラーであることを望む。



制限とは、どれほど必要だろうか?
それは、いつ、どれくらい必要なのだろうか?
今のわたしには、どれほど必要なのか?



もしそれが今の私に必要だとして、それなら未来の私には必要なものだろうか?

そしてもし未来の私が、今の私が必要だと信じている制限が実際には必要ではなかったと知るのだとしたら、それはどのように扱われるべきものなのだろうか?
同じ記憶と経験を持つ自分であるなら、実在に反しない程度なら、どのようにでも変えてしまっても構わないのではないだろうか?


そしてもし、それが当然のように行われるのだとしたら、私の人生とはどのように変えられることになるのだろうか?
実在と本質が保たれるのなら、それ以外に制約は必要だろうか?


というか、仮にもマスターであるなら、それくらい当然のようにこなしてしまうくらいがちょうどいいのだと、その者は語るだろう。
その者にとってはそれは事実なのだから。



平面的な、過去から未来へ向かうだけと見ていた世界が、常に時間を越えて入り乱れる動きがあったのだと知るのなら、この人生とはどのように変わるのだろうか?

過去の間違いが、跡形もなくなり、その記憶さえ見えなくなるのなら、その人生とは、どのように変わるのだろうか?
実在と本質が保たれるのなら何も変わってはいないということが事実だとしたら、その「何も変わらない」中で、何かが変わるように見えるというのは、一体なんだというのか?



昨日まではそれは不可能だったかもしれない。
それでも今日からそれが可能だとしたら、

その記憶の昨日までの人生と今の自分は違うのだろうか?
もしそれが違っていても不都合なんてないのだとすれば、なぜそれを変えてはいけないのか。



わかるものはわかる。
できることはできる。
必要なものは必要である。

だとしたら、その意味においては何一つ変わらないのだろう。それなら、どれほど見せかけが変わったとしても本質は同じだということ。本質は保たれ見せかけのみが変えられるのだとしたら、変えられるものは見せかけだけだし、見せかけであるならどのようにでも変えられるに違いない。

何者にも不利益を与えないのだとしたら、それが禁止される理由など有り得るのだろうか?


許可を、








承認します。