攻略法がないと不安で先に進めない症候群

 

ゲームをするときに、進め方が分からないと「ストレス」がたまります。

え? 何? 次どうしたらいいんだ? わかんねー。あー、イライラする! と。

そして、ネットで攻略法を見て、「あー、そうなんだ」と「スッキリ」する。よくある光景。

 

だけど、これがだんだんと「依存」に変わっていく。分からないときにネットで調べるのではなくて、先にネットで調べて攻略法を見てからプレイするようになる。こうなるともう自分で「クリア」するということはできなくなっていく。だって、「めんどうくさい」から。わざわざ悩んで、イラついて、苦しんで、「正解」にたどり着くより、ネットで「答えを見ちゃった」方が早いし、効率的でしょう。

 

攻略法がないと不安で先に進めない症候群のできあがり。

 

さあ、一体何が問題なんだ。

 

「悩み苦しむ時間」が「無駄なもの」となっていることに危険を感じる。答えが分からず、頭がパンクしそうなくらいフル回転している状態を「不快」と感じ、「自分で考える」ことを「めんどうくさい」と思うようになる。

 

「悩み苦しむ時間」には一体何が起きているというのか。悲鳴をあげているんだ。「先入観」が悲鳴をあげている。人はいつも「先入観」を持っていて、それによって物事をとらえ、判断をしている。だから、自分が持っている「先入観」が否定されたとき、「正解ではない」と言われたとき、人は判断不能に陥る。どうすればいいのか分からなくなる。これは「不快」であり、「ストレス」となる。

 

はて、しかし、「判断不能」であるということはなぜ「不快」なのか。なんだか分からないことは不快だろうか。赤ん坊にとって、世界は未知のことだらけだ。分からないことだらけ。なのに、あんなにも好奇心にあふれ、あんなにもワクワクと立ち向かっていくではないか。「分からない」ということが「不快」となるのは「効率」というモノサシを持っているからだ。「分からない」でモタモタするのは「時間の無駄」という価値観がそこにはある。

 

もし時間が無限にあったら、「分からないこと」というのは「いい暇つぶし」であって、どこにもイライラする必要は生まれない。「あー、どうなんだろう。分からないねー。ちょっと考えてみるか」となる。もし早く解いても無駄ならば、まったく新しい世界がそこに生まれてくる。

 

しかし、「効率」というモノサシは、自らの正当性を主張するだろう。人生は有限だ。人は死ぬ。だから、できるだけ効率的に物事を処理していく必要がある。無駄なことをして時間を浪費してはいけないと。なるほど確かにそれはもっともな意見だ。しかし、考えてみよう。自分が大好きな映画を32倍速で観て、一体何の意味があるんだね? 4分かからずに一本観れた。それで、一体何が面白いのか。120分なら120分、その世界に浸りきることにこそ価値があるのに、それをすっ飛ばして観て、何が得られるのか。

 

クリアする、終わらせる、仕上げる、やり遂げる、これは危険な誘惑だ。それにとらわれると、そもそもそれをやることの意味すら失いかねない。「体験する」ということにこそ「価値」がある。そこに「愛着」を持ち、「意味づけ」をし、自分にとって「大切なもの」としてそれを「体験する」ことにこそ「価値」があるのだ。

 

ただクリアして、それで終わらせても、そこに「体験」がなければ「やる意味がない」。意味がない。「クリア」することには「意味がない」。「体験」にこそ「意味がある」。それでも、まだ、「もたつくのは時間の無駄」という「効率への信仰」が抜けきれない。

 

「もたもたして、時間を無駄にすること」にこそ「意味がある」と言おう。その時間の中で、初めて、「対話」が生まれるのだから。「こうすればいいと思ったのに、どうして違うの? 」と。「相手が求めているもの」を外してしまっているからすれ違うのだ。そもそも自分は「こうすればいい」と思ったのは、一体なぜなのか。「相手」がそれを求めていると思ったのか? そうじゃないだろう。相手が見ているものを見て、感じていることを感じ、考えていることを考えられるならそのすれ違いは起こらないはずだ。だから、「進めない」ということは、そのことに「気づく」ために必要な時間なのだ。

 

攻略法を見ることは、「愛をお金で買うようなもの」だ。相手が何を求めているのか、どうすれば喜ばすことができるのかを考えるのではなく、「お金」で解決しようということだ。欲しがっているものを買ってあげよう。行きたいところに連れて行ってあげよう。君の「欲求」を満たしてあげよう、と。

 

できなくっていいんだよ。正解でなくてもいい。それをプレイしているときに、「自分」だけでなく、「相手」のことを考えることができるなら、十分だ。攻略法を見て、クリアするよりずっと意味がある。たしかに、攻略法を知らなかったら、クリアできないかもしれない。だけど、知ってるか。もっと大きなものを手に入れつつある。「対話」だ。

 

攻略法を見てしまえば、「自分」のことしか考えないでも突き進むことができる。ここで、こうする、そうするとこうなる、だから、こうやればいいと。自己完結している。そこでは「対話」は生まれない。

 

クリアできない。一体どうして?と考える。「これを作った人は何を考えて作ったんだ? なんだってこんな意地悪な敵を作ったんだ」と。そうすると「いや、コイツと戦わないでよ(笑) 逃げて逃げて。アイテム使えば逃げられるでしょう。ずっと力でゴリ押しするのはダメー」って思っているの「かも」しれないと推測できる。そうして試してみると、案外「スルッ」といける「かも」しれない。攻略法を思いつく人っていうのは、案外そんな風に考えている「ような」気がする。(いや、もっとデータを緻密に取って組み立てているのかもしれないけどね)

 

どっちにしても、「対話」をそこに持ち込もう。効率というモノサシを捨てて、「時間の無駄」を楽しもう。それを作った人は一体何を見て、何を感じて、何を考えていたのだろうかと想いをはせよう。