不思議のダンジョン 風来のシレン4 神の眼と悪魔のヘソ/スパイク
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 冬休みに入って、二、三日何をしていたかというとニンテンドーDSをしていた。風来のシレン4だ。風来のシレンは、「ローグ系」と呼ばれるゲームで、プレイするたびに迷路の形が変わるダンジョンを地下99階まで潜るというゲーム。同じ形の迷路は二度と出ない。毎回違うから「1000回遊べる」というのがキャッチフレーズ。


 このゲームは、迷路をさまよいながら敵を倒してレベルを上げる、武器や防具を鍛える、そうやって苦労して主人公を強くしていっても「やられてしまったら武器も防具も全てのアイテムを失ってLV1からやり直し」という恐ろしいゲームだ。苦労して育てた武器や防具、LVが一瞬で失われてしまうという「スリル」がこのゲームの決定的な特徴である。


 本当に、ちょっとした油断でやられてしまったときの「悔しさ」、ニンテンドーDSを地面に叩きつけたくなるくらい悔しい。半端じゃない悔しさなのだ。軽く失恋したかのような気持ちになる。しかし、この「悔しさ」が大きければ大きいほど、それに比例するようにレアなアイテムが手に入ったときの「喜び」が大きくなる。序盤で最強クラスのアイテムが出たら「やった。今回はイケる」とウキウキしてくる。また新しい恋がはじまるのである。


 この「悔しさ」と「喜び」の絶妙なバランスが、「こんな思いするぐらいなら、もう絶対やらない」とやられるたびに思うのに、ついついまたやってしまうという「麻薬的中毒性」を生み出している。このゲームをやってると一日があっという間に終わってしまうので、本当に危険だ。


 しかし、冬休みにニンテンドーDSでゲームやってるって、いい年して青松と一緒じゃないかと一瞬思ったが、ちょっと違うとすればこのゲームは僕にとって生きるということを教えてくれるものだということだ。


 今回、シレンをプレイしていて思ったことは、「攻略法」が分からないと「怖くてプレイできない」という「病」についてだ。


 情けないことに、今回シレンをクリアするためにネットで攻略法を見ながらプレイをしていたのだ。そうしないと、「不安」に耐えられなかった。(根性なしゲーマーだなぁ。)しかし、攻略法を見て、「ああ、そうやっていけばいいのね」と確信を持ちながら進め、最後のボスを余裕でたこ殴りにしてクリアした後、なんだか空しい気持ちになった。「なんだ。余裕じゃん。つまんね。こんなに強くする必要なかった。ビビリ過ぎてたんじゃないか」と。


 「やられたくない」という「恐怖」。それが「クリア」を遅延させた。本当ならもっと早い段階で余裕でクリアできたのに、その「恐怖」があるために「自分」が「絶対に勝てる」と思うレベルまで最後のボスに挑むのを避けていた。「攻略法」を見たのも「安心」したいからだ。どこでボスが出てくるのか、どのくらい強いのか、どうすれば勝てるのか「知って」いれば「安心」できる。


 こういう「へたれゲーマー」ではいかんのではないかと思った。だって、「攻略法」がなかったらどうするの? そもそも上手い人は一体どうやって「攻略法」を作り上げてるの? どうしたらそんな風になれるんだろうと疑問に思った。そして、これはそのまま濱口梧陵さんの話につながっていく。


 濱口梧陵さんは、「津波」という魔物と戦った。「地震が来たら、海の様子に注意しろ。津波が来そうだったら高いところに逃げろ」と本を読んで「攻略法」を知っていたけれど、「堤防」をつくろうなんていう「攻略法」は誰も知らなかったんだろう。一体どうして、どうやってそんなことをやろうと思いついたのか。


 自分がなぜやられたのかということを「ふりかえって」分析すること。おそらく、そこに鍵があるだろう。