愛の反対は、憎しみではなく、無関心である。

まぁ、愛とはなにかってのは I 川 くんに任せておいてと。
エネルギーとかスマートグリッドとか、そんなの自分とは関係ないよって思ってる
無関心な状況について考えてみよう。

知らないことには興味を持てない。
それはそうだ。

だけど、本当はなんにも知らないわけだからな。
最初は。

赤ちゃんは、何も知らない。
知らないことだらけだけど、興味津津だ。
りっひーとかな。スゴイ好奇心旺盛だ。

それがいつしか年を重ねるうちに、冷めていく。
あんなに好奇心旺盛だった赤ちゃんが、立派に無関心な姿勢を身につけていく。

「関係ないじゃん」
と自分の殻に閉じこもる。一体なにがあったんだ? 
あんなに世界を知ろうとなんでも口に入れていた赤ちゃんが
どうしてそうなった?

怒られたくない。失敗したくない。否定されたくない。
めんどうくさい。やる気になれない。つまらない。
興じない。面白くない。うざい。

ふむ。

要するに、受け身なんだな。
受動的。してもらう側なんだ。
消極的。非参加的。非協力的。

個人の自由を最大化することに「価値」があると思ってるんだ。

何かに参加したり、協力したりするっていうのは個人の自由を減らすことにしかならない。
だから、そんなことはしたくないし、すべきじゃないと。そういうことだ。
だけど、それを突き詰めて行った先にあるものは「むなしさ」だけだ。

「自由」を追求することは、生きていることに何の意味もないということを確認するに過ぎない。

人は、他者を必要としている。世界を共有することを必要としている。
だから、個人の自由を突き詰めていくと必要不可欠なものを損ってしまう。

本当に価値があるものは個人の自由ではなくて、
その場と一体になること、目の前の人たちと一体になること。


共振、共鳴すること。
愛着を感じられること。
「あ~、これいいわ~」と思えること。

だから、電気やエネルギー、スマートグリッドみたいなこと対して、無関心でいるのではなく、
「共振、共鳴する」。愛着を持とうとすること。そういうことをやるといい。

愛着を持つというのはどうするとできるのか。
愛着は、「なんか好きだわー」という漠とした感覚から始る。
好感を抱くこと。それはできるでしょう? 意識すればそんなに難しくない。
「ちょっと好きだよ」っていう気持ちをそれに対して抱くこと。

そうすると「興味が沸く」。
電気ってなんなの? いつ誰が見つけたの? どうしてビリってするの? どうしてコンセントから流れてくるの? どうやって電気をつくってるの? どうして魔法のようにいろんなことを可能にするの? 何が起きているの? どうやって観察するの? 何何? なんなわけ? 知りたいんだけど。みたいな。

関係をつくるときは、こっちから「好意を示す」必要がある。
そうでしょ? 犬みたいに、尻尾ぐいんぐいん振って近づいていけばいい。
ネコみたいにツンデレじゃなくてね。もう、犬でいい。ハァハァ言って近づいていけばいいんだ。

それが共鳴するということ。受け容れるということ。自分の中に取り込むということ。
そういう「好意」、「愛着」、「ちょっと好き」みたいな感覚抜きにしては興味なんて持ちようがない。
なんだか知らない人と関係をつくろうと思ったら、まず、こちらからオープンにならないといけない。
「関係ないじゃん」みたいな態度では、どうにも関係なんか作れない。
「ちょっと好きだなー」って気持ちで接する。

ちょっとずつでいいから、「好きになる」。

人は、「好きだな」って思ったときオープンになる。
「イヤだな」って思ったとき、クローズする。
自分の窓を自在に開けられるようになることができたら、スゴイよね。

いや、それができたらもう無敵だな。

電気とか、超助けてもらってるじゃんね。
エネルギーなかったら、生きていけないわけだし。
スマートグリッドって、なんかスゴイじゃん。
そういう「好感」を持ってみる。そしたら、興味なんて自然に沸くんだ。

いくら迫ってっても、こいつらは逃げないからな。ガンガン迫っていけばいいんだ。

心を開けば、興味が沸く。
興味が沸けば、関係がつくられる。
そこからがスタートでしょ?


「関係ないじゃん」を「ちょっと好きかも」に変えれば、簡単に心は開く。