マタイ4:8
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」


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これは、普通に読めば「はいはい。キリスト偉い偉い」と読めてしまう。
誘惑に負けなくて偉いねぇと。
そんな風に読んでも何も学ぶことはできないのだけれど。

全てを手に入れることができるのに、それを退けるのはなぜだろう?
欲しいもの全て手に入ると言われて断ることができるだろうか?
「魔法使い」にしてやろうか? って言われたら喜んで「はい」って言うでしょう?

何でもするから、「宗教やめて」っていくらお願いしたって、信者はやめやしない。

僕は知っている。そんな人いくらでもいる。
だけど、その人たちはちっともイエスらしくない。ブッダらしくない。
一体どうしてだろう? どんな誘惑にも負けない強い信仰があるのに。

彼らの誘惑の断り方とイエスの断り方は質的に違っている。
一体、どんな違いがある?

「救われたい」と思っているかどうか。

イエスは「救われたい(既に救われているから)」と思っていない。
普通の信者は「救われたい(まだ救われていないから)」と思っている。

ご利益があったら信じるってのは、信じてないんだ。
本当のところ、それは悪魔と取引したに等しい。
悪魔は天使の顔をしてやってくるんだ。

じゃあ、ご利益なんか一切いらない。
そういう境地って、一体どういう境地?

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なあ、この世の全てをお前にやろうって言われたらどうする?

「え? もらう? 」

だよなぁ。でも、イエスは断ったの。どうして?

「・・・もう持ってるから! 違う?」

え? そしたら誘惑になってねーな。

「うーん」

断食して腹ペコになってるのに、もう死にそうなのに、「石ころをパンに変えたらどうだ? 」って言われても、「いらない」って言うの。どうして?

「変人だったんだよ。変人の考えてることは分からないよ」

うーん。どうして? イエスの気持ちになってみろよ。

「無理無理」

なんでかなぁー。必要なものも欲しいものも全部いらないって言うの。もう、全て完全に満たされてしまっていると感じていないとできないんだよなぁ。それ以外に考えられない。もう何もかも満たされ切っているということでしょうかね。

「ふむ。もう頭痛くなってきたからお腹いっぱい。もっと簡単なのにしよ」

おい。

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まぁ、とにかく、結論は分かってるんだけど、プロセスが見えない。

「全部満たされてる」って想像すればいいんだ。

そうすると、「いい気持ち」になって「緩む」から、体がゆるゆるになる。
囚われがゼロになるから。そうすると、誘惑を退けられる。
それがイエスっぽさの源泉。信仰の本質。完全に満たされたその先。
ご利益があったから、あるから信じるってのは信仰じゃない。ただの取引。

完全に満たされたその先ってのは、自然(神)への服従。
服従っていうか、もう一体化だな。
自分と世界の境目がなくなる。
「自分」がドロドロに溶けてなくなっていく。