最近わたしは、3次元の地球に興味をもっていて、世界の現実を知りたいと思っています。

 

世界の現実といってもその内容は、旅をしたいようなあこがれの現実ではなく、この世の地獄の現実を見て回っています。

 

 

昔の私だったら見たくない現実です。

でも、今のわたしは高次元の視点で見ることができるので、その地獄の現実を、無限の可能性の一つとして認識できています。

 

 

地球の地獄は、行くところまで行っちゃっているなと言う感じですね。

次元上昇するしか道がないというのが理解できます。

 

 

 

 

ただ、わたし自身も長い時間3次元でいうところの地獄にいました。

でも、「不幸だったのか?」と問われると、「そうではなかった。」と言います。

 

地獄を見た。

地獄を生きていた。

でも、不幸ではなかった。

 

生き残る人には、それ以上に感じられる、幸福感というものがあるんです。

幸福が地獄を上回っているってことなんですよね。

 

 

 

わたしの現実は誰も知りません。

口に出さなければ、わたししか知り得ないのです。

そして、不幸だと思われる現実を上回っている幸福があると、悲鳴を上げることもないので、世間からは幸福な人だと思われるのだと思います。

わたしの地獄の経験は誰にも知られることがなかった現実です。

 

 

 

 

永続不可能なほどに、人間が破壊してしまった地球。

心を病み、身体を病んでいる人たちがいる。

 

それでも、「不幸なのか?」と問いかけたとすると、3次元の価値観で判断する不幸ほど、本人たちは「不幸ではない!」と答えるのではないかと感じます。

 

 

 

 

「幸福とは何だろう?」

「不幸とは何だろう?」

そのことを改めて感じさせられました。

 

 

 

 

たとえば、フェンタニルの薬物患者。

ゾンビのような姿で街を徘徊してはいるが、「絶望」しているとは感じられない。

「人生しくじるとこうなるなよ!」と、自分はしくじったとは思ってはいるが、絶望して苦しみもがいているわけではない気がします。

自分の現実を淡々と生きている気がします。

 

あの状態でみんな生きている。

最後まで生きている。

 

 

 

たとえば、ごみ山の中で暮らす人々。

劣悪な環境で、病気のリスクも高いながらも、日々、働いて、家族と共に生きている。

これはこれで、当人たちは、そんなに悪い生活だとは認識していない。

「別の人生の選択肢があるのであれば、選びますが・・・」と言った感じです。

 

 

たとえば、ある社会主義国。

国からの配給が滞り、食糧難の状態が続き、劣悪な環境で暮らしている。

自分たちの力ではどうすることもできない。

しかし、人々は助けあい、共に生きている。

 

 

 

 

日本はどうなんだろう?

これらの国々に比べたら、ものすごく裕福なはずなのに、絶望している人が多くは無いか?

お互いを批判して苦しめてはいないか?

「子供が『●さつ』を選ぶような国はいったいどうなんだろう?」と考えてしまいます。

 

 

 

 

前々から

「アウシュビッツで生き残った人たちは、何故、生きることをあきらめなかったんだろう?」

「奴隷と呼ばれていた人たちは、何故、生き続けることができたんだろう?」

「花魁はどう?」

「今でも、人身売買がありますよね。」

 

「わたしには無理!」と思っていたんです。

 

「乗り越えられない苦難はない!」っていう人がいましたけれども、

耐えられない「課題」を選んで生まれてくることはないということなんでしょうね。

 

 

 

そして、

人々が生きることができる「希望」というのはいったい何なのだよと考えたとき、

『生きる希望』というのは、現実が原因だけではないということですよね。

 

最後の最後まで生きたいと思える理由というのは、『愛されている』と実感できるかどうかなのではないかと感じるのです。

 

 

わたしは現実としては、何もかもを失いました。

家族をも失ったので、『愛されている』と実感できている人・・・という分類からも外れています。

 

今でも現実としては、わたしは一人です。

ただ、家族との関係で悩んでいるわけではない。

わたしにとって地球での家族は、地球でのご縁と割り切っているところがあります。

 

 

 

そして、わたしは『愛されている』と感じているんですよね。

だから、他人を愛せるんです。

 

わたしの『愛されている』。

それは3次元ではなく、魂から『愛されている』と感じているからです。

わたしはあちらの人間なのだと実感できているからです。

 

 

もしも、それが無かったならば、わたしは『捨てられた!』と思っていたかもしれません。

 

 

 

わたしが生きる理由。

わたしが生きていい理由ですかね?

 

それは、誰もが持っている絶対的な『愛』なんですよね。

だから、今でものうのうと生きているんです。(笑)

 

 

 

『愛されている』と感じている。

これはとても大切なことだと思うのです。

これが、『自己肯定感』の基に在る感情なのではないかと感じるんです。

 

 

 

  • 『愛されていた』という現実。
  • 『愛されている』という実感。

このどちらかがあれば、人間はどんな状況でも『生きる!』を選ぶのではないかと感じました。

 

 

あなたは、どうですか?

愛されていますか?