Osho,
昨夜、あなたが、禅は「大いなる恋愛だ」と言われるのを聞きました。しかし、禅の逸話や禅師の法話にはほとんど愛や慈愛への言及が見られません。どうしてでしょうか?
あなたがだれかを愛するとき、あなたは「愛している」と何度も何度も言って、相手を困らせたりしない。
そうでないと、彼はあなたを殺してしまう。
「愛している」という言葉に耳を傾けるのにも限度がある。人はうんざりしてしまう。
どんな恋人であれ、それを試してごらん、その愛がどれだけ続くか見てみるといい。
ボーイフレンドかガールフレンドはいなくなってしまうだろう、というのも、お菓子を食べるのはいいが限度というものがあるし、さもないといずれ病気になってしまうからだ。
禅はけっして愛に言及しない。
私の理解によれば、禅を実践する人はまさに息をするように愛する。
それはなにか特別なことではない、あえて言及しなくてもいい。
私はそのことをひとつも言っていないが、あなたは私の愛を感じないかね?
私に何度も何度もそれを言ってほしいかね?
禅はそれを言わない、それは禅が理解していることの明らかな証しだ。
愛は口にされるのではなく、あらゆる仕草に示されるべきだ
——あなたの目を通して、あなたの手を通して、あなたの沈黙を通して。
それはあなたの周囲に放射されるべきだ。
慈愛についても同じことだ。
それもやはり言及されない。
禅はアメリカでは生まれない、そこにはそこでだけ偉大とされる大思想家たちがいる、デール・カーネギーやナポレオン・ヒルのような人たち……
デール・カーネギーの本はアメリカでベストセラーになっている、聖書に次いで第二位だ。
彼はクラスや学校を開設していたが、そこで人びとは愛しているかどうかなど関係ないと教えられた。
問題になるのは言葉、表現だ。
内面についてだれが語りえようか?
家を出る前に、妻にキスして言いなさい、「愛しているよ、いとしい人。でも行かなくちゃならないんだ」
あなたは内面では別のことを考えているかもしれない、それとは正反対のことを、
「やれやれ、やっと解放されるよ……」
あるいはあなたはガールフレンドのことを考えているかもしれない!
だが、それはすべて内側のことだ
——あなたの妻は読心術師ではない。
だからたんに言えばいい、それに妻にキスをするのにお金はかからない、少なくとも毎日三回くらいなら。
仕事から帰ってくると、あなたは再び妻にキスをして言う、「愛しているよ、ダーリン」そして再びベッドに入る前にも、忘れてはいけない。
こうしたデール・カーネギーのような愚か者が、人びとの人間関係を改善する偉大な哲学者と見なされている。
ほんとうの愛にはみずからを表現する言葉がない。
ほんとうの愛は存在であり、あなたはそれを感じる。
それはあなたを風のように包み込む、それはあなたに雨のように降り注ぐ。
バラの花は「私はなんて美しいんだろう」とは言わない。
バラの花がデール・カーネギーを勉強しはじめて、「ダーリン、どこへ行くの? とっても愛しているわ。私はとってもきれいでしょう」
とあなたに言うようになったら、あなたはこう言わねばならない、
「黙れ! 花のままでいろよ——うるさいことを言うな!」——ほかにどうしたらいいだろう?
あなたの質問はいいところを突いている。
禅は愛であり、禅は慈悲だが、宣言をする必要はない、声明をしなくてもいい。
Osho
だから…
他人に見せるための
愛は必要ない。
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