わたくしの父の実家の在る福岡県久留米市田主丸町※川会邑(通称、竹野タカノの唐島)から、光仁天皇の妃に為った高野(竹野タカノ)の『新笠ニイガサ』が、奈良平城京へ召される事に為ったのか、を皆様とご一緒に考えてみたいと思います。
※、ホツマツタエに依りますと、ニニギネ(瓊瓊杵尊=饒速日命=アマテル=火明り命と同一人物と考えられます。)から、賀茂建角身命が(阿蘇の豊玉姫の弟の『賀茂速甕玉命』カモハエミカタマの事です。=秋永氏の源元。)、『カワイの國=川会邑を賜った。』と、述べられていますので、記述と符合します。
わたくしの考えでは、(古代は、久留米の城島をシキと謂った。と、考えられます。筑後川の河川敷を意味しています。)
第19代允恭天皇(オアサズマワコスクネ雄朝津間稚子宿禰天皇)は、シキの御井町朝妻に居た。と考えられ、久留米市御井町朝妻で、『曲水の宴=AD353年代以降、中国の3月3日に禊をして、曲水に盃を流す宴の風習を、倭の貴族が真似て行った。日本書紀には、AD485年、第23代『顕宗天皇』の時に、『曲水の宴』が初めて記載されています。因みに顕宗天皇の幼名は、来目稚子クルメノワクゴです。』の痕跡が出土しています。
第19代允恭天皇・第18代反正天皇(ミズハワケ瑞歯別天皇)と、第17代履中天皇(イザホワケ去来穂別天皇)は、三兄弟で、父は第16代仁徳天皇(大鷦鷯天皇)。母親は(武内宿禰=内氏ウチウジの孫娘になります。)豊後葛木襲津彦の娘『磐之姫イワノヒメ』です。
第15代応神天皇(誉田天皇)は、若狭か、亦は豊前で、渡来人の拓跋氏(源氏の元=伊奢沙別命イザサワケ)と入れ替わっているもの。と考えられます。
根拠は、宇佐公康さまの『宇佐家』に代々伝わる口伝承と、日本書紀、神功皇后摂政13年条項に誉田別の立太子の時に武内宿禰と北陸『氣比大神(伊奢沙別命)』のもとに行き、名前を交換した。とあり、此れは『人物の入れ替わり』の比喩とも考えられます。
元々の豊受大神(後漢時代の蜀の太守『高躬』)が、AD205年頃、倭に遣って来た時には、熊本八代市~天草の白氏一族(久留米白山姫=天之御中主命に代表されます。記・紀で述べられています白日別=筑紫に進出してワケ別が付いた。BC473年頃に渡来した人々と考えられます。)で、九州から山陰・北陸越前・朝鮮半島新羅を治めていたものと考えられます。
倭(九州)からの本州への移住移動が既に行われており、航路は、博多湾から山陰出雲を通って、若狭から上陸。の日本海航路と考えられ、南九州発祥の息長氏(BC110年頃に『南粤』王族=秦氏として渡来。)も福井から近江に散らばっています。その後は三重・愛知・岐阜・長野・静岡・関東・千葉・茨城へと『豊後紀氏』(豊日別氏)=『阿蘇氏』は愛媛~香川・岡山~兵庫~瀬戸内海航路で、関西に散らばります。
若狭湾には、阿蘇海が在り、『ゆふいん』大杵オオゴ社(禾へんに午)で祀られています、『椎根津彦=珍彦=和氏』(記・紀では、神武天皇を船(亀)で倭ヤマトへ道案内した人。)が元伊勢『籠神社』でも祀られています。『籠神社』の主祭神は、『ゆふいん』から天孫降臨した、(ニニギネが八洲廻りした。と、ホツマツタエが述べています。)瓊瓊杵尊=日高彦天火明り命=アマテル=饒速日命であります。
京都府宮津から愛知県の『尾張國造』に移動鎮座したと考えられます『乎止与オトヨ命』(=『ゆふのいん』サカオリの宮に居たと考えられます『建斗米命』の子が、『建田背命=但馬國造』でありますので、『建斗米命』と『乎止与』は『天火明り命』の末裔とされていますので、親族と想われます。)が、
『乎止与オトヨ命』の息子の『天稲種命』(=景行天皇の息子の『日本武尊』の東征に旗頭=副将軍として、従軍した人。『乎止与』の娘の『宮簀ミヤズ姫』は『日本武尊』の妃に為った人です。)
尾張國造『乎止与命』は、『日本武尊』の希望『サカオリの宮=アサマの宮』の絵図を宮簀姫と一緒に観てみたい。』を叶える為に『ゆふいん』(=サカオリの宮)迄来て、絵図を尾張へ送った。と、ホツマツタエで述べられています。
渡来系八幡物部氏は、若狭から、播磨・備前を経て船で瀬戸内海から豊前・豊後・田川へ遣って来ているものと考えられます。
記紀では、崇神天皇の兄弟とされています『日子坐王』の位置には、『景行天皇』=猿田彦が、ホツマツタエの叙述より、考えられます。
『日子坐』の妻とされる『息長水依比売命』とは、『景行天皇』が、日田か田川で娶った『豊玉姫=水波能女=弁財天=猿女』を意味しております。
記紀の叙述は、7世紀後半藤原氏(豊後日出町藤原が本貫地と、思います。)が663年白村江の戦い以降、奈良藤原京を建造促進し、『藤原不比等』が、記紀の捏造(日本の歴史長古化)を強いたものと考えています。
『藤原不比等』の後妻『県犬養三千代アガタノイヌカイノミチヨ』(橘氏は筑後川中流域=日田・うきはの耳納ミノウ山麓に展開しています。最初は敏達天皇=蘇我稲目=法興王の息子の『美努王』ミノオウに嫁ぎ、葛城王=橘諸兄・橘佐為・牟漏女王3人を儲けています。)とは、豊後大分市犬飼イヌカイの場所を指しています。橘氏の『三千代』は、豊後葛木氏=豊日別、紀氏です。
娘の『藤原宮子』が、『文武天皇』(倭根子豊祖父天皇)=筑紫で産まれた草壁皇子と元明天皇(天智天皇の第4皇女)の子。の皇后になり、『聖武天皇(首皇子)』を儲けます。
天智天皇とは、中大兄皇子の事で、竹野郡唐島から、西暦501年倭王武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)オハツセノワカサザキを捨て、百済第25代武寧王=諱は斯麻王シマオウとして、韓半島に渡った和氏の末裔、『翹岐』ギョウキと考えられます。
『聖武天皇』は、朝倉の『普門院』や『大生寺』の再創建を僧『行基』に命じて再興します。
うきは市の『大生寺』は厩戸皇子が産まれた。と、考えられ、穴穂部間人=孝徳天皇の皇后が中宮天皇として居た場所と、推察されます寺です。
※多分、厩戸皇子を産んだ『穴穂部間人皇女(欽明天皇第3皇女で用明天皇=橘豊日尊皇子との間で厩戸皇子・来目皇子を生みます)』と、『穴穂部間人皇后(舒明天皇と、斉明天皇の皇女で、孝徳天皇の皇后になった方)』は、同一人物と考えられます。
『斉明=皇極』が、自分の娘を、自分の弟である軽皇子=孝徳天皇に嫁がせる。不自然さ。が猜疑されます。あり得ません。『穴穂部間人皇后』は皇極=斉明の実子では無く、『穴穂部間人皇女』の子=佐富女王(=泊瀬王と結婚した人)を、養女にした。のかもしれません。
泊瀬王は、厩戸皇子と膳部菩岐々美郎女カシワベノホキキミノイラツメの間に儲けられています。
膳部菩岐々美郎女は、別名を高橋姫と呼ばれて景行天皇時代、日本武尊の追悼の旅に膳部として、三重県~茨城県に赴いた磐鹿六鴈(=田主丸鹿狩ロッカリ地区があり、)筑後川向こう岸に高橋地区(戦国時代に大友宗麟が豊後大分の飛び藩地にしてキリスト教を布教します。)が在りますので、此処の出身かも、と想われます。
そうすると、うきは市の『大生寺=柏寺=橘氏の寺=厩戸皇子が産まれた傍。』に、豊後大分の難波長柄豊碕宮から孝徳天皇崩御(654年)後に移動して来た仏教に帰依した『穴穂部間人皇后』の心情と、661年斉明天皇の行動が理解できます。新羅・唐との戦争の勝利祈願。と、うきは市『大生寺』に居た『穴穂部間人皇后』に会う為に来た。と、想われます。
そして、斉明天皇と、朝倉に在る第2代天照大神=豊玉姫=秋永氏の祖竹野姫の墳墓と考えられる『長田大塚古墳』や、厩戸皇子と穴穂部間人皇女・欽明天皇の斯帰=磯城・斯麻=唐島の宮、高橋氏・推古天皇(豊御食炊屋姫=628年に崩御。墳墓は『磯長長田陵』と述べられているので、恵蘇の宿八幡宮1号2号古墳のどちらかと思われ、もう一方が竹田皇子の墓と、思います。)が繋がります。
九州息長氏が渡った近江。琵琶湖竹生島の『宝厳寺』(弁財天=豊玉姫=水波能女命=息長水依比売命を祀っています。)も『行基』に命じて創建します。
遣唐使派遣は遣隋使派遣に続いて、欽明天皇2年(630年)から20回(200年)程行われますが、出発地の『難波津ナニワノツ』・『住吉津スミノエノツ』を関西大阪と、勘違いしている研究者が大半ですが、此れは大きな間違いで、難波津ナニワノツの当時の所在地は神武東征の『男の港』の場所=豊後紀氏の本貫地『鶴崎』(阿蘇竹田方面から犬飼地区を通って流れる『大野川』の河口です。此処が葛城氏の本貫地です。)
豊後紀氏(豊後葛城氏)の本拠地別府湾 大伴氏=大友氏は相模國大友荘に鎌倉時代初期大友能直が1192年豊前・豊後守護職に下向1223年死去。と謂われていますが、此れは間違いで、BC110年頃南九州曾於に『南粤ナンエツ』王族の『多オオ氏』が遣って来て、熊本玉名~八代の白氏『塘トモ氏』と合体してオオトモ多塘氏=大伴氏=大友氏を名乗り、ルーツは九州豊後にあり、相模國が本貫地では無く、大友=大伴氏の本体は古代よりずっと九州から動いていません。庶氏としては、戸次氏・橘氏=立花氏・堤氏・友氏・臼杵氏※・矢野氏・田原氏・本間氏・大蔵氏・一万田氏・波多野氏・中原氏・近藤氏・佐伯氏等多くの氏族があります。
安岐には、『奈多八幡宮』があり、『宇佐八幡宮』とは、関係が深く8月に行われる薦枕『行幸会』の最終地と、特別扱いされ、『奈多八幡宮』大宮司であった『奈多鑑基ナタアキモト』の娘を『大友宗麟』が正室に迎えています。
大伴氏=大友氏の本拠地であります、『難波長柄豊碕宮』とは、(軽皇子=孝徳天皇や以前は、推古天皇が治めた小墾田宮オハリダノミヤ=尾張田宮・蘇我馬子の墓が鶴崎桃園地区=桃原に在ります)別府湾の事です。
遣隋使の出発地の『住吉津スミノエノツ』とは、大分市『住吉町』=大分川河口を意味している。と、考えています。此処、豊後大分が大伴氏=大友氏の拠点です。大伴氏の『金村』が、欽明天皇『大連』を辞退した後に隠遁して亡くなった場所です。
蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が行橋勝山黒田の『馬ヶ岳』(甘樫の丘)に居たものと考えられ、遣隋使・遣唐使派遣の出発地の『住吉津』は、大分市春日浦(春日神社の傍)の『住吉津』であると想われます。
亦、造船を行った『安芸』アキとは、広島県の『安芸』では無く、別府湾の対岸に位置する国東半島に在ります、スサノオとアマテルが『誓約』ウケイを行った(天之真名井が在ります。)杵築市のアマテル『大内宮』が有った。と考えられます傍の、『安岐』アキを意味しています。
『天』アメとは、豊後大分を意味する『海部』アメ・アマを指しています。大分には以前は、海部郡がありました。
『天之香具山』とは、『天之』は、豊後大分の『海部』を指しています。『香具山』とは、『高天原』=『高海部原』=『孕ハラミの山』=『別府鶴見岳』=『イザナミ』が『カグツチ』を産んで亡くなった場所です。
『イザナミ』=初代卑弥呼の墓は『ゆふいん』に造られたと考えられます。
魏書では、『卑弥呼』の墓は100余歩。徇葬者が100人余。と述べられています。
当時の一歩は、周・秦の時代の周髀算経『一寸千里の法』で考えられていると仮定すれば、1里は、76~77mと考えられます。短里の計測法では、踵から爪先迄(25.5㎝)の300歩を1里とされ、初代卑弥呼イザナミの墳墓は直径26m~28m前後で有った。と考えられます。
魏から、拝領した『親魏倭王』の金印は『ゆふいん』から、発掘される。と考えられます。
『イザナミ』は『ゆふいん』で天照大神アマテル=瓊瓊杵尊を儲けています。
小野小町コマチ・小野妹子イモコ・小野篁タカムラ・小野道風トウフウで有名な小野氏の本貫地は、日田市の小野地区でしょう。
小野氏は、『ゆふいん盆地~日田盆地』に居た天足彦國押人(=記紀では、伊弉諾尊イザナギとして扱われています。伊弉冉イザナミ=初代卑弥呼247年崩御の夫です。)の末裔です。
日田は、上宮王家であります、『高躬結び神』一族=初代卑弥呼=伊邪那美(大山祇命一族=葛城氏)の本貫地であります。大山町もあります。景行天皇=天之児屋根命伝承も残っています。後の天武天皇系です。
天智天皇=中大兄皇子=翹岐は、第2代卑弥呼豊玉姫=竹野姫=斯帰斯麻宮=秋永氏=息長氏系です。
ホツマツタエの記述では、瓊瓊杵尊が『新治宮』ニハリノミヤを造った時に天之児屋根命(オキツヒコ)が『火と水の祓い』を行った。と、述べています。当時の『新治宮』ニハリノミヤは、現在の日田市の臨済宗『岳林寺』(足利尊氏の命にて創建)周辺に在ったと、思われます。
藤原氏の本貫地は、別府湾日出町藤原地区でしょう。戦国時代は、豊臣秀吉の正室・高台院『御寧』オネが徳川家康から日出藩(木下延俊3万石)を拝領しています。
尚、豊臣秀吉については、故百嶋由一郎様の調査研究に於いては、藤吉郎の祖父は、比叡山延暦寺で修行した後に還俗した『星野氏』であった。そうであります。もし、此の事が本当で有れば、秀吉のルーツは九州朝倉にある事が推察されます。
星野氏の本貫地は九州福岡県八女市星野邑であります。星野氏は後に筑前朝倉(今でも筑前朝倉須川には、35軒の星野氏が、第98代長慶天皇の墓を守っています。)に移動して、愛知関西方面等全国に散らばります。
織田信長が朝廷から『征夷大将軍』を賜位される時に、秀吉も『筑前守』を賜位され、『筑前守』を名乗ります。此れは秀吉の希望で賜拝したものと考えられます。
そして、決め手は久留米市御井町『高良大社』の『奥の院』の伝承であります。
秀吉の死後、家康支持衆から、京都伏見に造られた、秀吉の埋葬地が荒らされて、惨憺たる荒廃状態に為った儘、(家康の武力行使の仕返しを恐れて)放置された遺骨を、高良山玉垂宮の神宮寺『蓮臺院』の住職(現在の御井寺)が、(行き掛かりの立場上、見過ごす事が出来ず)遺骨を収めに京に上り、分骨を持ち帰り、高良山玉垂宮『奥之院』毘沙門堂奥の『宝塔』に納めた。との伝承です。
『秀吉』の御霊が久留米高良山奥之院の『宝塔』に眠っている事になります。
現在は『宝塔』の由来は伏せられています。
此の事を信じて考察しますと、『秀吉』のルーツは『筑前朝倉の星野氏』にあり、百嶋氏の調査研究は正しい。と謂う事に為ります。
『秀吉』の家臣『黒田官兵衛』の本貫地も、『行橋勝山黒田』に在る。と、考えられ豊前の小笠原藩地を拝領します。
『黒田官兵衛』は、『秀吉』の薩摩島津氏討伐遠征の拠点を勝山黒田『馬ヶ岳』に20万の兵を集めて、圧力をかけて島津氏を降伏させます。
亦、黒田官兵衛を幽閉した摂津の『荒木村重』のルーツは、久留米市『荒木』の(磯城大善寺玉垂宮=第9代開化天皇・第10代崇神天皇が居た。と、考えられます場所です。)『村重』と解釈しています。
序でに、秀吉が織田信長に可愛がられて出世した理由は、『織田氏』も、『筑前朝倉』にルーツを持った家柄であった。と考える事で本当の歴史を紐解く事が出来ます。
『織田信長』は、平重盛(平清盛の嫡男)の次男、『平資盛スケモリ』の流れと称して『織田木瓜紋』を使っています。
『織田氏』は、元々は『斯波氏』の家臣であります。『斯波氏』の本来の本貫地は『越前』の『朝倉』では無く、『筑前』の『朝倉』の『志波』=『司馬』=『斯波』であります。後に『織田氏』を伴い『越前朝倉』に渡ります。『朝倉氏』・『斯波氏』・『織田氏』の源元は、『筑前の朝倉』であります。
『筑前の朝倉』には、小田地区が現在も在ります。
『織田氏』は、『桓武平氏(秋永氏)』であり、竹野姫=豊玉姫=第2代目卑弥呼が居た竹野郡に平地区が在ります。平地区には、平知盛(=平清盛と二位の尼時子が儲けた四男)を祀った神社が在ります。
秋永氏・徳永氏・吉永氏・森永氏は、鹿児島県にルーツがあり、元はインドナガランド方面へと、海南島・琉球~沖縄・南九州曾於方面に別れた『秦始皇帝』の『南粤』王族『秦氏(弓月國=現在のキルギス國)』であります。ナーガ族とも呼ばれ『蛇』(龍)を祭祀する一族で、『蛇行剣』(水神)祭祀が有名です。
秋永氏の集落は、唐島地区(10数軒)と常持地区(15軒程)に別れています。
唐島地区の秋永氏は、全て家紋が、『丸に違い鷹羽』で、常持地区は、殆んどが、『木瓜に剣花菱』か『丸に剣花菱』です。
此の常持地区は、源元の竹野郡唐島地区に居た『秋永氏』が都に上がり、再び戻って来た『家紋』が変った『秋永氏』を留め置く集落と考えられます。
集落の中に在ります『庄の前神社』(祭神は、ミズハノメ=豊姫=秋永氏です。)には、1185年4月25日の壇ノ浦の戦いにて落ち延びた安徳天皇・平徳子(建礼門院)・平時子(平清盛の妻の二位の尼)・按察使局伊勢アゼチノツボネイセ(安徳天皇の乳母)・平知盛(平清盛と時子の四男)等がその後に遣って来て、平時子(二位の尼)が『鏡』を奉納しています。
しかし、源氏からの平氏追討命が草野氏に及んでおり、『草野永平』に追われた一行は筑後川を下り、鳥栖市下野(鷺野サギノ)で『藤吉種継』に匿われます。
此処に在ります下野『鷺野の水天宮』が『久留米水天宮』の元宮です。
(久留米市瀬下町の水天宮全国総本宮は天之御中主命と安徳天皇・二位の尼・建礼門院・四柱を祀っています。脇社として、按察使局伊勢=千代松を祀る『千代松神社』(尼御前社)が在ります。)
安徳天皇は『藤吉種継』の娘の『千代』と18歳の時結婚して男子(吉丸)を儲け25歳の時に天然痘で亡くなり、小笹山=篠山(わたくしの誕生地)に埋葬されました。現在の京町に在ります『日輪寺』(以前は、篠山に位置していた。と、謂われている。)が菩提寺と伝承されています。按察使局伊勢の墓もわたくしの生家近くに在ります。
安徳天皇が持っていた『三種の神器』(天之叢雲剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉)は、高良山玉垂宮に奉納され、後々の戦国時代に有馬藩が篠山城を造り、安徳天皇の『墓』と高良山玉垂宮の『三種の神器』は行方不明に為っています。
現在の高良山玉垂宮の社殿は第3代有馬藩主『有馬頼利』が寄進して造られており、その時に『三種の神器』が持ち出されたのかも知れません。
安徳天皇を祀ったと考えられます『佐岐神社』が伊勢天照御祖神社(通称大石神社)に在ります。
『草野永平』が居た、草野町の西隣りが山本町です。山本町耳納2129番地に天智天皇から寺田を賜った。と伝承があります曹洞宗『観興寺』が在ります。
『観興寺』伝承には、天武天皇の奥方(鸕野讚良=後の持統天皇)が、病気に罹り、寺僧100名で、回復祈願をした。との伝承があります。
天武天皇と鸕野讚良と草壁皇子は小郡市『高橋官衙』通称、『明日香浄御原宮』の造営に邁進して『白村江の戦い』の戦後処理を行ないました。
織田信長の木瓜紋は、彦穂穂出見尊=孝元天皇に繋がる日田上宮王家=高躬結び神一族=筑紫君の紋です。
日田上宮王家=高躬結び神一族=筑紫君は、527年の『磐井の乱』と531年『辛亥の変』で滅んで終います。
此れが元で、第23代新羅王であった『法興王』=葛城氏=豊後紀氏が派遣の王=葛分(文)王が、『伽耶國』を532年新羅に併合します。
そして、仏教徒の『法興王』は倭の豊後大分市稙田ワサダに540年召喚され、蘇我稲目=後の敏達天皇として、斯帰斯麻宮=磯城(久留米市)唐島宮に居た『欽明天皇』の『大臣』オオオミに為ります。
織田氏(平資盛スケモリの流れで有れば秋永氏と考える事が可能です。)は秋永氏を重庸して『弾正位』を得ます。桓武天皇の子孫と謂う事に為ります。
その証拠に、明治維新迄続いた奈良の柳本藩(織田家)の代々の家老は、『秋永様』がなさっております。
藤原不比等が、後妻に娶った『県犬養橘三千代アガタノイヌカイノタチバナノミチヨ』とは、大分市『犬飼』地区に居た『橘氏』の『三千代』を意味しています。
伊豆半島の『北条氏』も出自は、阿蘇氏と考えられ、第56代清和天皇(秋永氏)流れの『源頼朝(秋永氏)』を匿います。阿蘇郡小国町には、北条氏の家紋『三つ鱗』の元寺と考えられます『満願寺』が在ります。
ホツマツタエの記述では、建鹿島タケルカシマ=阿蘇神社に祀られています健磐龍命=武御雷之男命の事で、倭国戦乱の後に千葉~茨城に渡ります。娘がヒメオオカミと述べられています。即ち、龍神姫=ミズハノメ=阿蘇津姫=息長大姫大目命=天の鈿女=弁財天様=豊玉姫=豊姫=欝色謎命=うきは竹野郡唐島秋永地区で活動して、(『ゆふいん』で活動した)初代卑弥呼『イザナミ』の後継『二代目卑弥呼』に推挙され、13歳で就任します。
最初は、彦穂穂出見尊(通称は孝元天皇=久留米高良玉垂宮下宮で祀られています。母親は磯城県主の『大目』ウズメの娘『細姫』クワシヒメと、述べられています。)と結婚して、若倭根子日子大毘毘(通称は開化天皇で、ウガヤフキアエズとも、住吉神とも謂います。)を儲けます。
開化天皇は、久留米市荒木=磯城=城島の水籬ミズガキの宮『玉垂宮』が拠点で、海路で活動。博多~苅田~豊前~大分~宮崎に伝承を残しています。
豊姫の姪である玉依姫と彦穂穂出見尊が儲けた崇神=天之日鉾が、父親の名である彦穂穂出見尊を名乗り、神武天皇の彦穂穂出見尊と混同の誤解を招き、混乱を生じさせています。
開化天皇は、叔母の玉依姫(伊香賀色謎命)を娶り、連れ子の崇神=天之日鉾を養います。ホツマツタエ序によりますと、此の行いに、オオミケヌシが大臣の職を辞した。と述べています。
ホツマツタエは、『景行天皇に大田田根子が献上した。』と考えられており、日本書紀崇神8年10月の崇神紀にも大田田根子が『大神』オオミワノカミ=大己貴命を祀った。と、出て来ており、
崇神と景行天皇は、同時代の人物と考えられます。(記・紀では、崇神の孫が景行天皇と述べられて、噓を記述しています。)
連れ子の崇神=天之日鉾は、新羅王にする。べく、彦穂穂出見尊・豊玉姫・玉依姫・八咫烏一行は、対馬経由で韓半島に渡り、天之日鉾を置き去りにして帰還します。
その後、天之日鉾は大勢の新羅人と共に、国東半島の葛城氏の本貫地別府湾に遣って来ます。
杵築に留め置かれた『天之日鉾=スサノオ=崇神』は、天照アマテル=瓊瓊杵尊の『大内宮』(北局=杵築市大内地区)に在った出雲からの『妃』マス姫モチ子(北局典侍)・コマス姫ハヤ子(北局内侍)二人に手を付けて夫々『天之穂日命』・『宗像三女神』を儲けています。(ホツマツタエの記述に拠る。)
日出・杵築の境界に在ります『海部(天)之真名井』で『天照アマテル=瓊瓊杵尊』と『スサノオノミコト=崇神』が誓約ウケイを行ないます。
近くには、アマテルとスサノオが対峙した『海部(天)之安河』と考えられる『八坂川』が在ります。
豊姫(欝色謎命)の弟が賀茂建角身命=賀茂速甕玉命=八咫烏であります。
瓊瓊杵尊の娘『伊香古夜姫』(ホツマ伝では、瓊瓊杵尊の『妃』に為っていて、イソヨリヒメと述べられています。)(記紀では、『伊香古夜姫』は、饒速日命(瓊瓊杵尊)と登美夜毘賣命(長髄彦命=景行天皇の妹)の間で産まれた子とされています。)を下賜され、玉依姫(伊香賀色謎命)を竹野郡川会邑唐島地区で儲けています。
登美夜毘賣命(長髄彦命=景行天皇の妹。別名ミカシキヤ姫)は、鳥栖市弥生が丘~基山に居たものと考えられます。弥生が丘には、景行天皇伝承とミカシキの地名があり、基山には、瓊瓊杵尊の伝承が残っています。
近くの田主丸町には玉依姫が儲けた崇神の長男『豊城入比古命』の『豊城』の地名が在ります。(人的関係はホツマツタエの記述に拠る。)
元々別府湾・大分豊後は、『葛城氏』の本貫地であり、『阿蘇氏』の拠点であります。
『藤原氏』・『志賀氏』・『宗像氏』・『蘇我氏』・『橘氏』・『大山氏』・『工藤氏』・『甲斐氏』・『あべ氏』・『太田氏』・『大伴氏』・『牧氏』・『佐伯氏』・『梶原氏』・『エトウ氏』・『日野氏』・『北条氏』等々が、別府湾から全国に散らばる本貫地です。
此の様に、北部九州を中心に歴史が動いており、近畿の歴史は、『大彦』『垂仁』等が、発展させたものと考えられます。
推古・厩戸皇子の時代には、豊後紀氏の葛城氏が近畿関西に渡っており、関西が発展をして、遷都が検討された。と、考えられます。
百済から九州福岡県田川郡赤村辺りに帰還した『翹岐』ギョウキは、第35代『皇極天皇』(=第37代斉明天皇)の養子になり、『中大兄皇子』ナカノオオエノミコと、呼ばれます。元は福岡県竹野郡唐島秋永地区(通称、斯帰シキ=城島の斯麻シマ)から百済武寧王(倭では、第25代武烈天皇=小泊瀬稚鷦鷯尊ヲハツセノワカサザキノミコト。父は第24代仁賢天皇、母は第21代雄略天皇の娘の春日大娘皇女)として、韓半島に渡った末裔と考えられます。
645年、田川郡赤村辺りに在った饒速日命=瓊瓊杵尊(天孫降臨)由来の『飛鳥板葺宮』にて『乙巳の変』を藤原鎌足等と一緒に起こして、蘇我入鹿を殺害します。蘇我蝦夷の居た『甘樫丘』は、勝山黒田『馬ヶ岳』(黒田官兵衛の本貫地と、思われます。)周辺に在った。と、考えられます。(福永晋三氏説)
近くには、『勝山御所』『みやこ町』が在ります。