近頃、著しく運動不足です。このため、何かいいウォーキングがないかと思い、4月29日開催の「春の高子二十境と伊達・箱崎の獅子舞を巡る」(主催:高子沼を楽しむ会)に予備知識なく、ただ「歩く」ことを目的に参加しました。
 その際、見つけた高子沼(伊達市保原町高子)ほとりにあった高子沼案内図の「高子地区の山々は金鉱山だった」との記載が気になっていました。案内してくれた高子沼を楽しむ会の会員の方も、金山があったと説明していました。

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   何か、高子金山関係の資料がないか探したら、「伊達の散歩道 ほばら編」に「伊達政宗の金山伝説が残る・高子沼」として概略が記載されていました。

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   独眼竜で有名な伊達政宗は、高子の金鉱石を採掘・精錬していたが、天正19年(1591)、豊臣秀吉によって伊達郡・信夫郡などを召し上げられ、岩出山に移された際、次期領主の蒲生氏郷に金鉱の存在が分からぬようにするため、堤防を築き、精錬所跡に水を引いて沼にしてしまったという高子沼の伝説のようです。
 なお、上保原村鑑指上帳(寛保2年(1741)6月)の「金銀銅鉄山」に、以下のような記述があり、八拾年(1661年)余以前の米沢藩統治当時に高子の金山を採掘していたことが表されています。
 是者内山銀山掘跡八拾年余以前羽州米沢御知行之節、陸奥信夫瀬上村
 治右衛門申者御願申上、銀山繁盛仕堀尽、其後相止、此外金銀鉄山無
 御座候
 これは、万治元年(1658)12月16日(以御黒印奉行郡代江命令)に「金山近年不吟味故か能山不出候間借米をも致山をも見出候様に可申付事」とされており、米沢藩が鉱山開発を奨励していたことと関係があるのではないかと勝手に考えています。

   一方、「伊達政宗の金山伝説が残る・高子沼」には、高子沼の周辺には金鉱山の坑口が残っており、昭和初期には高子沼の底から中世のものとみられる鉱石粉砕用の石臼や廃鉱石が多数出土したとも記載されていました。
 ということは、高子に金山があったというのは事実ということなので、またまた資料探しです。
○ 「高子沼の伝説を科学する(田子健吉著、昭和25年8月発行)」のP23~P30に、水路修繕のために減水した高子沼の沼底を昭和12年9月下旬から約3か月調査して、沼底から鉱石粉砕用の石臼や廃鉱石などが出土したと記載されていました。

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○ 「ふくしま伊達の名勝 高子二十境 ~高子熊阪家と白雲館文学~(松浦丹次郎著、平成24年8月31日発行)」のP31に、高子沼周辺の金鉱山の坑口の写真があったので、現地を探したところ、残念ながら坑口は土砂採掘で消失してしまったようでした。

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                                                                  ↑ 金鉱山の坑口

 ※上の写真の左上の箱崎の愛宕山と中央の大きな家を目印に見当をつけましたが、ちょっと場所がずれているようです。

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 なお、高子二十境については、後日「ふくしま伊達の名勝 高子二十境 ~高子熊阪家と白雲館文学~」を参考にして、ご紹介することにしています。