「改訂復刻版 半沢光夫の福島発・歴史地図」は、福島市の歴史を知る上で大変参考となるものです。たまたま、80鎌田舟戸集落の歴史上の人物をみていたら、「米沢上杉藩福島城代本庄繁長の後裔本庄祗長(やすなが)寛延元(1748)~文化九(1812)舟戸に住する。福島舟場町の長楽寺に墓がある。」と記されていました。
 

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  本庄祗長については全然知らなかったので、どんな人なのか、なぜ福島に住んでいたのか疑問になり、調べてみました。
その結果、福島城代として伊達政宗の軍勢を撃退した本庄繁長の子孫で、寛文5年の米沢藩の半知により鮎貝に移った本庄政長から5代目の鮎貝御役屋将(※)を1年間だけ務めた方であったことが分かりました。
(※)米沢藩では、徳川幕府の発した元和元年(1615)の1国1城令により鮎貝城は廃城とし、領境で他藩からの攻撃を防備する支城を御役屋、城代を御役屋将と称した。
 
上杉家御年譜23御家中諸士略系譜(注)等により、鮎貝御役屋将を務めた本庄氏の系譜を調べてみた結果は、以下のとおりです。
(注)上杉家御年譜23のP233~P234によれば、本庄氏は次の系譜となっていますが、家督相続等の時期が合わないことから、Wikipedia(米沢藩)、ブログ(本庄氏の館)に記載されている系譜(充長-重長-政長(始忠長)-英長-義永-職長-祗長-精長・・・・・)としています。
充長-重長-政長(始忠長)-英長-義永-職長-長織-元長・・・・・
顕長-祐長-秀長-長貞-長昭-長武-祗長-精長・・・・・
 
本庄繁長は、慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封により田村郡守山城(郡山市)城代(知行11000石)となったが、徳川家康の会津討伐に備え慶長5年(1600)8月に福島城代に転じ、福島城に籠城し寡勢ながら伊達政宗の軍勢と戦い撃退している。
関ヶ原の戦い後、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減封され、本庄繁長も11000石から3300石に減俸されたが、引き続き福島城代を務め、慶長18年(1613)12月20日死去(享年74歳)している。
 
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その後、福島城代は充長(繁長次男)、重長(繁長六男、藩主定勝の命により家督相続)、政長が務めた。
 

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しかし、政長の代の寛文4年(1664)藩主の上杉綱勝が跡目を決めないまま亡くなり、改易となるところを綱勝養子吉良三郎(上杉喜兵次景倫、延宝3年(1675)に元服し綱憲と改名)が家督相続したが、米沢藩は信達2郡を召上げられ、30万石から15万石に半知された。
半知に伴い、本庄政長は鮎貝(山形県白鷹町鮎貝)御役屋将(知行1666石)に転じ、以後幕末までの9代にわたり、鮎貝御役屋将を務めている。
○本庄政長(まさなが)(始忠長)
 在任期間:寛文5年(1665)9月17日~元禄16年(1703)7月4日
 江戸番勤中、麻布邸にて卒
○本庄英長(ひでなが)
 在任期間:元禄16年(1703)8月23日~享保6年(1721)7月27日
 父政長死去により家督相続
○本庄義長(よしなが)
 在任期間:享保6年(1721)7月27日~延享2年(1745)2月27日
 父英長隠居により家督相続
○本庄職長(ともなが)
 在任期間:延享2年(1745)2月27日~明和7年(1770)11月11日
 平林恒広次男、義父英長隠居により家督相続
○本庄祗長(ただなが)
 在任期間:明和7年(1770)11月11日~明和8年(1771)12月17日
 父職長隠居により家督相続
病身により隠居
○本庄精長(きよなが)
在任期間:明和8年(1771)12月27日~寛政6年(1794)4月
職長三男、兄祗長病身による隠居により12歳で家督相続、父職長に後見役命(~安永4年(1775)6月14日)、寛政6年(1794)4月卒
○本庄為長(ためなが)
在任期間:寛政6年(1794)6月1日~文政8年(1525)5月
父精長死去により家督相続、文政8年(1825)5月卒
○本庄寛長(ひろなが)
在任期間:文政8年(1525)7月23日~嘉永4年(1851)5月
父為長死去により家督相続、嘉永4年(1851)5月中卒
○本庄昌長(まさなが)
在任期間:嘉永4年(1851)7月28日~明治2年(1869)9月
父寛長死去により家督相続、明治2年(1869)12月日隠居
 
以上のように、本庄祗長は1年間だけ鮎貝御役屋将を務めたが、病身のため隠居したとされますが、福島の町と村ⅠP221~P222の「舟戸八騎と旧領主の仮寓」では、次のとおり出奔したとされています。
繁長九代の孫、本庄祗長が某年某月突然舟戸の旧臣を頼って仮寓した。上杉文書の紹襲録では、明和7年(1770)11月家督をつぎ鮎貝御役を勤めていたが、安永8年(1779)役を棄てて出奔したことが見える。農業に従事していたという種々の話が伝えられている。文化9年(1812)11月3日64歳で歿し長楽寺に墓があるとされている。
 
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なお、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により米沢藩はなくなり、本庄氏は、明治23年(1890)に北海道厚岸町に移住しているようです。
○本庄勝長(かつなが)
 明治2年(1869)12月18日父昌長隠居により家督相続
 明治6年(1873)失踪
○本庄孝長(こうちょう)
 昌長三男、勝長失踪につき家督相続
 明治23年(1890)5月25日北海道厚岸郡大田村(現在の厚岸町)に屯田兵隊長として移住