江戸への廻米のための阿武隈川舟運の安全を祈願するため勧請された弁財天の歴史を辿りました。

 

 阿武隈川舟運の始まり

 阿武隈川舟運は、信達地方(現在の福島市、伊達市及び伊達郡)を領していた米沢藩(30万石)が明暦元年(1655)から万治2年(1659)まで伊達郡西根郷(現在の国見町、桑折町、伊達市(旧伊達町)の一部、福島市飯坂町湯野・東湯野・茂庭)の米を阿武隈川を利用して荒浜(現在の宮城県亘理町)へ下げ、大船で江戸まで運び、藩財政等のために米市場で売り現金化したことが始まりのようです。しかし、岩が多く、流れが急峻な五十沢(現在の伊達市梁川町)から水沢・沼上(現在の宮城県丸森町)までは、山道を牛に積み替え陸送し、水沢・沼上で再び舟に積み替えられていました。

 ところが、寛文4年(1664)に米沢藩が15万石に減封され、信達地方は江戸幕府が直接治める天領となったことにより、米を江戸まで廻米する必要に迫られることとなりました。

 このころ、舟運を請負う江戸の商人渡辺友以が自費1万両を負担し、人夫5千人で五十沢から水沢・沼上の水路の開鑿が完成したことにより、福島から水沢・沼上まで舟で輸送することが可能になりました。

 因みに、渡辺友以が寛文元年(1661)より水路を開鑿したという説や米沢藩から江戸への廻米を請負っていた渡部(辺)家は代々十右衛門を名乗っており、友以と同一人物であるという説があります。

 なお、寛文10年(1670)に河村瑞賢が再測量と改修工事を行い、翌寛文11年(1671)から本格的に阿武隈川舟運が行われるようになったそうです。

 (注)参考文献:阿武隈川の舟運:竹川重男、近世阿武隈川の舟運:伊達の香りを 楽しむ会

 

 弁天山の由来と弁財天の移転

 阿武隈川舟運の「福島河岸」が置かれた阿武隈川左岸の「御倉邸」(福島市御倉町)の対岸には、椿館と弁天山が見えます。享保20年5月に作成(文化2年写)された「福島城下惣町絵図」には「渡利村椿館ト云」とあり、弁天山という名はありませんでした。

 

天神社からみた弁天山

 

 貞享2年(1685)に渡辺友以の子渡辺貞嘉が阿武隈川舟運の安全を祈願するため、近江国琵琶湖の竹生島に鎮座する都久夫須麻(つくぶすま)神社の弁財天の分霊を勧請し、「福島河岸」を見下ろせる渡利村椿館西側の山頂に弁財天を祀る妙音廟を造立しました。

弁天山山頂にあった弁天堂跡地

 

 元禄15年(1702)に板倉氏が入部すると、椿館西側の山頂から御城を見下ろすのは失礼にあたるとされ、麓の天神社へ降ろされたという伝承があります。また、「政事集覧」(福島市史資料叢書第60号)によれば、宝永7年(1710)6月5日、福島藩では渡辺十右衛門に椿館の弁財天を阿武隈川上流の黒岩村向い(小倉寺村地内?)に移すよう仰せ付けたが、渡辺十右衛門は渡利村天神河原(現在の天神社境内)地内の百姓持分の地代、年貢納入も負担し、そこに弁財天を移したい旨藩に願い出し、認められたとされています。

 椿館西側の山頂に弁財天が祀られていたのは貞享2年から宝永7年までの25年間だけでしたが、これが弁天山の名の由来となりました。

 

天神社弁天堂跡地


天神社境内に弁財天があったことの遺構

 

(注)参考文献:生活の伝承第21号「福島の弁天山のこと」-三百年前の寅年の出来ごと一件から-太田隆夫、近世阿武隈川の舟運:伊達の香りを楽しむ会

 

 弁財天の再移転

 宝永7年に天神社境内の弁天堂に祀られた弁財天は、長らく渡利村の曹洞宗高林寺が別当(管理者)となっていましたが、明治初年の神仏分離令により高林寺住職釈格英が兼任していた神職専門となったことから、明治8年(1875)に高林寺は廃寺(※)となり、また、天神社境内に弁天堂があるのは不合理として、弁天堂も取り壊しになりました。

(※)神職となった高林寺元住職は、明治11年(1878)に再度本願寺で得度を受け、浄土真宗来迎山瑞龍寺に寺号を改め、初代の住職になっています。

 

 このとき、弁財天は、高林寺住職の親類の上名倉村長勝寺住職が「身元引受人」となり、長勝寺境内のお堂に安置され、現在に至っています。

 

 

長勝寺の弁財天安置のお堂

 

都久夫須麻(つくぶすま)神社から分霊された弁財天

 

(注)参考文献:生活の伝承第21号「福島の弁天山のこと」-三百年前の寅年の出来ごと一件から-太田隆夫、福島の進路2017.11信達の歴史シリーズ第8回弁天山と椿舘

 

 以上のように、近江国琵琶湖の竹生島から奥州福嶌の椿館西側の山頂に「舟神」として祀られていたのに、麓の天神社境内に移され、さらに阿武隈川支流の須川(現在の荒川)上流の長勝寺に安置されるに至ったことがわかりました。