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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 9
命は 「ケアしなければならない」 ことだらけ
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排泄をすること、 まばたきをすること。
まばたきをすることも、ルーパ(形あるもの:体)の苦しみ【苦】を解決するためのものですよ。
私たちは、 まばたきをせずに ずーっと目を見開いたままにすることは できません。
そうしていたら 目が乾いて大変でしょう?
大変さ【苦】を解いていくために、まばたきをしなければならないわけです。
それは 私【ナーム】ではありません。 ルーパ の話 なわけです。
おおー、私たちは 一日中【苦に対して】 しなければならないことだらけです。
ルーパの苦しみ【苦】を解決するために、【ケア】しなければならない。
姿勢を変え「なければなりません」 呼吸をし「なければなりません」
「なければならない」 「なければならない」
命は、 しなければならないことだらけです。
ルーパに してあげなければならないことばかり。 それは 「私【ナーム】に」 ではありませんよ。
【 命は、 「しなければ(ねば)ならない」 ことだらけ、 というのは 誤解を生みやすい表現だろう。
ルーパの「苦」に対処するために「しなければならない」 ことがある。
そして(ナームに でなく)ナームが、
ルーパの「苦」に対処するために「しなければならない」 と思い込んでいることもある。
実は、そのナームの思い込んでいる「ねばならない」 ということ(想い)こそが
「苦悩」 を創りだしている。
この 「微妙な違い」 を理解することが重要だ。
ルーパの「ねばならない」と ナームの「ねばならない」は、 決定的に 違う。
ルーパの「ねばならない」は ケアのことで、 ナームの「ねばならない」は 執着のことだ。
ナームの「ねばならない」は 不安に転化する。
「命は しなければならないことだらけ」という言い方は、
ナームの「ねばならない」 と信じた執着を肯定し、助長してしまう恐れがある。
本当に必要なケアは 限られているが、
必要だと 「思い込んで」 いることに限りはなく、不安は どこまでも拡大する。
ちなみに、この二つの「ねばならない」の違いを見極めることが「名色分離智」】
私自身のことを言いますとね、事故に遭いました。
プールの水底に 頭を打ち付けてしまい、 頚椎の5番目を 損傷してしまいました。
いろんな体の仕組み 動いてはいますけれども、普通の人のようにはできなくなってしまいました。
なぜなら
頚椎の5番目というの(5番目以下の脊髄)は、 体の ほとんどの動きに関係しているからです。
筋肉が萎縮してしまい、動きが上手にできなくなってしまっています。
ですから 動きが 制限されてしまっているんですね。
私ができる動きは、 首と肩のあたりまでです。 その他の動きは、 ほとんど できなくなっています。
何をするにも、 どこに行くにも、 誰かの手助けが必要です。
体の血液の流れも、 そんなに良くないんですね。 長く座っていると、足がむくんできます。
血のめぐりが うまくいかないので、 下がりやすく、 上がりにくいのです。
長く座った後に、姿勢を変えて立ち上がろうとすると、クラクラとめまいがします。
血圧が低いので、体が動いた時に、血液が脳に上がるのが 間に合わないんですね。
また うんちも、 普通の人のようにはいきません。 手伝ってもらう人が必要なんです。
おしっこも コントロールすることはできません。
消化の機能も そうです。 柔らかくて 消化しやすいものしか食べられないんですね。
硬いお肉などは、消化できずに、すぐに 便秘になってしまうのです。
呼吸も そうです。 深くまで 息を吸うことも、吐くこともできません。
いつも、 体にぴったりくっついたウェットスーツを着続けているような感じなのです。
毎日 毎晩、ウェットスーツをつけて暮らしている感じです。
肺も あまり うまく機能していないですからね。
【カンポンさんの「命」は、 頚損のために「しなければならない」 ことが とても多く、
これだけ ルーパの 「苦」 が多ければ、
そのほとんどを 「苦悩」 に変換していたときの辛さは、 計り知れないものだっただろう。
名色分離智を得たカンポンさんは、
しかし、 それらは「苦」に過ぎず 対処すればいいだけのことであり、
それを 「苦悩」 に変換していたのは 自分自身であったことに気づいた】