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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 4
まずは 体が先。 心を先にしたら 忙しくなって、体を知ることは できませんよ。
【24時間・365日の瞑想】
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気づきを高めるのに、 歩く姿勢が慣れている人は、 歩くことを感じながらやるといいでしょう。
立つ姿勢が慣れている人は、 立つことを感じながらやるといいでしょう。
座る姿勢が慣れている人は、 座ることを感じながらやるといいでしょう。
横になる姿勢が慣れている人は、、、 座ってやった方がいいですよ。
横になった【り、 目を瞑つむってしまった】ら、すぐ眠りに入ってしまうことが多いですからね。
【カンポンさんの場合は 全身麻痺なので、ほとんどの時間は 横になっている姿勢。
しかし そのままの姿勢で (過去や未来を彷徨う)思考を止めようとすると 眠くなってしまう。
思考を彷徨さまようままにしておけば苦しいし、止めれば 眠ってしまう】
【眠気を避けたり 気づきを維持するには】型を使ってやるのが オススメです。
動きのある型を使うということ。 体に気づきを向けるということですね。
体の動きに気づく、体を動かそうという 意図がありますね。
「気づいていこう」 と 心を向けていく。この自分の この体にね。
【型のある動きを使った瞑想では、動かそうという 意図があり、
気づきの対象としての 動きがあるので、思考を止めても 眠くならない】
私は、手のひらを動かすということを しています。
気づきを高める瞑想をやり始めた時、私の体で動かせるところは ほんのわずかでした。
右腕が 少しだけ動かせるだけでした。左腕は ほとんど動かせなかったのです。
ですから カムキエン師にアドバイスいただいた通りに、
手のひらを上に向けて、それを感じる。 手のひらを下に向けて、それを感じる。
手のひらを上に向けて、それを感じる。 手のひらを下に向けて、それを感じる。
【これが、 カンポンさんの 型のある瞑想。
普通の人の型のある瞑想は、座る瞑想や歩行瞑想・手動瞑想など】
動かす意思を持って、感じることに 心を向けていく。 何度も 何度も 続けて、 たゆみなく行う。
型を使って 気づきを高めていくというのは このようなことです。
【カンポンさんにとって、型のある瞑想に これ以外のやり方はなかった。
だから、この方法を 一心に続ける他なかった】
体を知ること、 それは すなわち 「身念処:体を如実に観察すること」 です。
【 「四念処」という言葉がある。 身念処・受念処・心念処・法念処 の四つ。
四念処とは、 マインドフルネス(瞑想)の 具体的な内容。
まずは 身念処からスタートして 順に、受念処→ 心念処→ 法念処 と進めていく。
意識して 「能動的(主体的)に」行うのは 身念処だけ。
型のある瞑想だけでなく 日常生活の中で型のない身念処を行えば、 あとは 「自然に」進んでいく。
もしも 進んでいかなければ、それは 正しい瞑想ではない。
最後には、 法を観て、法を知る(正知) 法を知ることが「智慧」である】
心に 煩わされないこと。 思考に 煩わされない、 思考によって 忙しくならない ことです。
【体を知る ・ 体を感じる。 体の動きに意識を向けていれば、 思考が湧き上がる 「余地」 がない】
体を知ることですよ。 体を気づきの土台とすることです。思考を禁止するということではありません。
しかし、 思考に関心を向ける必要はありません。
【 「体を気づきの土台とする」 とは、体を心の居場所とする(心身一如のこと)】
心は 心のことですから、まずは 置いておきましょう。 体【リアル】が先です。
心【非リアル】のことを先にすると 忙しくなって、 体のことを知ることが できなくなります。
【体が先とは、体を心の居場所とすることが 先で、 体をスタート地点とするということ】
動かすぞ!という意図を伴っての、 「型のある 気づきの瞑想」そこに 心を向けていきましょう。
ただただ 知るだけです。 自然に従って、知るだけです。
見つめなくちゃ! と、 気合を入れて 凝視する必要はありません。
コントロールする 必要もありません。
楽にして、リラックスして、型のある瞑想をやっていきましょう。
【明確な意図(決意・自由意思)を持ちながらも、 深刻でなく リラックスして取り組む。
深刻になって 緊張すると、 思考(マインド)に 捕まって 自由意思がなくなってしまう】
ただ 観るだけです。 はまりこまないように。 動きとともにいることです。
【 はまり込むとは、心が 感情を伴う非リアルなもの:サンカーラと 一体化すること。
動きとともにいるとは、心が リアルな体と 一体化すること:三昧:心身一如
同じ「一体化」だが、(非リアルとリアルという)対象が違うことに注意してほしい。
「三昧」 とは、たとえば 掃除をするときは 掃除をすること(動作)に意識を集中して、
他の余計な考え事をしないでいること。
三昧ざんまいは「サマーディ」 を音写したものであり、正定しょうじょうと同じことである。
三昧とは、リアルに一体化したまま つまり そのありのままの状況を受容したまま、
「ジャッジしたり 別のことを考えることで 非リアルにシフトする」 ことを避けている状態。
掃除をすることに対する 「ジャッジ」 とは、 「こんな ツマラナイことばかりして... 」 など】
これは 思考を何も使いませんよ。 ただただ 自分【の体】を感じていくだけです。
そして、 【同時に 自分の心も感じながら】続けていくということ【忍耐:正精進】だけです。
私は 朝から 晩まで、 横になった姿勢で 手を動かしています。 私は 無職ですからね。
【他にすることがなかったから。
手を動かしていなかったなら、感情を伴う思考(に基づく後悔や不安)が生じて
苦しむか 眠ってしまうか、そのどちらかしかなかった。
そういう意味で、わずかに動く右手を除く 全身麻痺という障害は、
カンポンさんの 気づきのトレーニングに適していた。
言葉は悪いが、他にする(できる)ことがなかった ので ひたすら 瞑想に取り組むことができた。
「動きを伴う瞑想は、私のような障害者には 相応ふさわしい」
カンポンさんが そう言ったのは、上記のような意味だろう】
目が覚めた時から、眠りに落ちるまで。
眠りに落ちたら、できませんね。 眠りに落ちたら、眠るだけです。
【カンポンさんは 文字通り一日中 24時間(正確には起きている間中)365日 瞑想し続けていた。
この言葉は けっしてオーバーな表現ではないだろう。これが カンポンさんの悟りの秘訣だと思う】