カンポンさんの「流れを超えて」15(スマホ版) | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

このブログの記事は、 アメーバブログのスマホのアプリを使って

文字サイズを3に設定すると、 画面サイズ内で見やすくなります。

また、 このアプリ画面の青字をタップするとリンク先に移ります。




  カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 15



 運河:障害を渡り:のり超えたければ
 かかっている橋:涅槃に渡れ:戻ればいいんです

   。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

  ただただ 【感覚で】知ること
  それによって思考はすぐに、働きを止めます。
  飾り立てられることなく、そこで終わります。
  まるで 映画のフィルムが切れたようにね。

映画のフィルムが切れるとは、
  自分が思い描いてきたストーリーのある
  意味づけ:条件づけの世界から目覚めること

  これを、
  離行りぎょう【行から離れる】
  条件づけられることのないこと涅槃
                                        といいますが、
  それはつまり 飾り立てられることがないこと、
   飾り立てられていない心ことをいいます。

   【 「から離れる とは
     条件づけられていないことであり、
                    「涅槃のことである。

     「条件づけるとは
       過去のたまたまの経験によって
             意味づけることである

  善/悪・優/劣という 二元的視点」 によって
「意味づけ」 が生まれ、
       二元の一方を 強く欲求し
         もう一方を 強く否定することになる。

  飾り立てられていないとは、
     という    二元的欲求に 
                       囚われていないことであり、
  それは
  涅槃という 非二元的視点を 知ること
                                によって可能になる

  つまり 「離行:飾り立てられていないこと とは
  二元的視点から 非二元的視点にシフトし
意味づけを絶対視しなくなることである

  思考が 生じた時に、パッとただ知ること。
              ただただ 自然に、知ることです。
  思考を 禁じることもなく、
  思考に ついてもいかない。
  思考に はまりこんでもいかない【相対化する】

  心は、  自ずと 真ん中になっていきますよ。
  心が              真ん中になる
  それは、
  思考の流れを超える心 とも言えましょう。

【真ん中の心=中道。  中道
  二元の反対側にある二つの極の中間 
                              ということではなく
  二元世界を超えた
      非二元涅槃の視点を持つ心の状態】


  カムキエン師こうおっしゃっていました。
  体の動きを        観る人となり、
  心に 何かが生じてきたら、
               それを 観る人となりなさい、と。

  観る人になるということは、 別に何か 
      特別なことをしなくてもいいのです。

観る人は心の座(涅槃)に位置して、
                 そこから すべてを観ている

  運河を渡ろうと思ったら、
  運河にかかっている橋を歩けばいいのです。
  橋の上からは、その流れが見えるでしょう。
  あるいは   運河を渡る舟が見えるでしょう。

【     心の要素側である    二元の視点 から見れば 
  困った問題と思えるような障害(運河)
                                   があったとしても
  心の座(橋)側である 非二元の視点 から観れば
  それに対処する方法(舟) 必ず存在する
「対処できないときは諦めるという
                対処法があることも観えてくる】

  水の中に飛び込み、
  流れに逆らって 泳がなくてもいいんです。
  舟に乗り込んで、
  流れに逆らって 漕ぐ必要もありません

   橋の上から 流れを見ればいいのです。
   思考が 生じたら、  思考を ただ観る。
   ただただ 観る
         すると思考は 滅するでしょう。

  【心の座(橋)に立てば  流れが観え、
    流れは たんなる対処すべき課題となり、
    流れを超える  「対処法」 が見つかる。

    しかし そうでないなら 
                      流れは 困った問題となり、
    無理に 泳いだり 漕いだり
  「余計なこと」 をしなくてはならない

  そして 問題であると捉えているうちは、
            何が正しい対処法か分からない】

         何もする必要はありません。

する(doing)のでなく 観る(look) 
                  すると 観えてくる(see)

  思考の流れを 超えることができます。
                                       できますよ。
  何によって できるか?
  それは 自分【の心】を感じる【マインドフルネス】
                  ということによって可能です。

  思考が生じても
  飾り立てられてはいない【絶対視していない】
        心は いつものようにさわやかです
  これですよ。これが【これを実感することが】 
  自分自身から学ぶ ということなんです。

  体と心を【分けて】知る
【さらに、   心の中も分けて知る】
                                      知る人となる
  ただただ【体の苦と 心の苦悩を】観る人となる

  自分を感じている時には
              思考を掴むことはできませんよ。
  執着できないんです【絶対視できない】

【心の座を占めるものは、
  いまの瞬間 一つの要素しか存在し得ない。
  感覚(R:色)と思考(非R:名)という
  違う種類の要素が 
        同時に 座を占拠することはできない

  この原理に従い、意識の座の上に 
  感覚という一種類の要素だけを置いておこう
     とする 瞑想トレーニングを行うことで、
  名と色の分離【名色分離】だけでなく
            想と行の分離もできるようになり
  違う種類の要素である 
  (思考)と (欲求)を切り離す
                    コツをつかむことができる。

  心の中で悪循環が起きているときは、
  違う種類の 非Rの要素である想と行 
        まるで 一体化しているかのように 
  素早くグルグルと入れ替わっているのだが、
  瞑想のトレーニングによって
  この想と行を 分けて観ること
                                できるようになる】


  様々な感情【という要素】からも 自由になり
                           純粋さが生じてきます

  【という要素】からも 自由になりますし、
  【という要素】からも 自由になります

要素の中の 想思考 :欲求・感情  
               観分けることができるようなり
  さらに 体や心という要素と 座は違う という
           要素と座を観分けること も知って
     いつでも座(我が家)に戻れることが 自由

  要素という 「部分」 から
     座という 「全体」 へシフトすることが 自由

  いのちの理解が どんどん深まっていきますよ。

  ですから
  体に生じる苦しみ】  は 
                              問題ではありません
  問題【心の苦しみ苦悩
「体はこの私である、 この私のものである」
  と 執着して
   はまりこんでしまった時に生じるのです。

問題(苦悩) 何一つなくすべて
   対処すべき課題・出来事(苦)に過ぎない



(最終改訂:2022年5月29日)