悟っている人 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

  ネットで こんな記事(以下)を見つけた。
  そして、この89才のおばあちゃんは悟っている、と思った。
  おばあちゃんは、瞑想したわけでも、修行したわけでもないはずだ。「空」とか「非二元」のことも知らないだろう。「色即是空」も「目覚め」も関係ないだろう。
  でも まったく正しく「目覚めた人生を生きている」と思った。

  だから、(目覚めて生きる)悟りの人生のために、「瞑想目覚めが かならずしも必要なわけではないんだ。
  それは必要条件ではなかったんだ、と思った。

  苦しみ(苦悩の中にある人が悟るためには瞑想や目覚めが必要な気がする。そういう人(苦しんでいる人)はそうすればいい。でも、そうでない人もいるだろう。
  このおばあちゃんに 苦しみがなかったと言うつもりはない。辛いこと・苦しいこと(苦)はあっただろう。でも、それを苦しま(苦悩し)なかった(その辛い「苦」を「苦悩」に変えなかった)ような気がする。

  初めから正しく、
「苦」を「苦悩」に変換することなく「に適切に対処してきたなら、
いまここ」を全力で 精一杯生きてきたなら
  そんな風に人生を歩んだなら、
  瞑想も目覚めもなしに悟ることができるような気がする。
  正しい人生を生きることができるような気がする。
  このおばあちゃんの話を読んで、そう思った。

悟っている人
  わたしたちの身の回りに たくさん居るに違いない。



「私はこう思うけど、あなたはどう思うの? どうしたいの?」と常に相手の考えや希望を確かめながら折り合いを見つけつつ事を進める。
  また、もともと出世や名誉に対する欲がない先生は、自分よりはるか年下の医局長や院長といった上司にも、妙な劣等感や嫉妬を抱くことなく自然なフレンドリーな態度で接していかれます。
自分は自分他人は他人。他人の人生と自分の人生を比べても仕方がない」という意識が常にぶれずにあるようです。

  戦中戦後の混乱と激変の世の中で生き抜いていくためには、いちいち他人と比較して落ち込んだり嫉妬したりする暇はなかったのかもしれません。
「他人さんのことなんか気にしている暇あったら、目の前の仕事をこなそう
それぞれの立場で、たくさんの悩みや苦しみを抱えている。どんな立場になっても悩みや苦しみは常について回る。だから羨んだりしても意味がない」
  そんなふうに先生は考えているようです。



89歳医師に学ぶ!
生涯現役を続けるしなやかな「メンタル力」
人から必要とされ続ける秘訣とは何か?


2018/8/10
  7月から高気圧の異常状態が続き、前代未聞の酷暑の夏となっていますが、あなたの心と体は お元気でしょうか? 
  こんにちは、精神科医・産業医の奥田弘美です。

  さて 私事で大変恐縮ですが、このたび89歳で現役精神科医を続ける中村恒子先生の金言と生きざまをまとめた本『心に折り合いをつけて うまいことやる習慣』(すばる舎)を上梓(じょうし)いたしました。

  中村先生は 約70年にわたって勤務医を続けている方で、人生100年時代といわれる現在において、生涯現役を 文字通り体現している先駆者的存在です。今回は 拙著の一部を抜粋しながら、産業医としての筆者の経験も加えつつ、先生が生涯現役であり続けることができる秘訣を紹介したいと思います。



  89歳の今も 精神科医として週4日フルタイムで働く中村恒子さん
  中村先生は、つい1年前の88歳までは 週6日、みっちりフルタイム勤務を行っていました。2017年夏より、ようやく2日減らした 週4日勤務に変更しましたが、今でもきっちり 朝9時から午後5時までフルタイムで働くサラリーマン医師です。しかも管理職ではなく、若手医師と同じ勤務体系で 大阪府内の病院とクリニックで診療し続けています。

  世間には 中村先生より高齢の医師もいらっしゃるようですが、私が知る限り そのほとんどが病院長、もしくは 名誉教授・理事長のような形で、管理職やフリーランス的に働いている人が ほとんどです。先生のように 勤務医の現役プレイヤーとして現場でフルで働いている方は存じあげません。

  中村先生は1951年、つまり終戦の6年後に医師となり、戦後の激動の時代を生き抜いてこられました。特殊な技術や専門性があるわけではなく、一貫して市井の臨床医として働き続けています。

  私は18年前に当時70歳だった先生と出会ったのですが、そのころからずっと「生涯現役で働き続けられるパワー」を 波乱万丈の人生とともに本に書いてみたいと願ってきました。そしてようやく その夢を実現することができたわけなのですが、ここでは「組織から長く求められる人材になる」という部分にフォーカスして、先生から学んだ秘訣を2つに分けて紹介します。


その1「仕事の好き嫌いに振り回されない

  89歳まで現役医師を続けていると聞くと、中村先生は よほど医者の仕事が好きで、何か大きな目標を掲げて 使命感に燃えて頑張ってきたのかと思われるかもしれません。でも 実は違うのです。

「出世したいとか、成功したいとか、何かを成し遂げたいとか 全く考えたことなし。自分と家族が食べていけるだけのお金を稼ぐために、目の前の仕事をしてきただけ」

「仕事は大嫌いやないけど、大好きでもない。どっちかというと 好きな方に入るかなあ。自分が人の役に立てているのは、うれしいことやねえ」

  そう 先生は話します。

  中村先生は、終戦の2カ月前の1945年6月、広島県尾道市から たった一人で 医師になるため大阪に出てきて、現在の関西医科大学の前身である 大阪女子高等医学専門学校に入学しました。その時、高等女学校を出たばかりの16歳。終戦末期は 大阪などの大都市を中心に 米軍による空襲が頻繁に繰り返されており、いつどこに爆撃機が飛んできて機銃掃射されたり 焼夷弾をばらまかれたりして死ぬかもしれないという 恐ろしい状態の中での入学でした。

  こう書くと、先生には「お国のために医師になりたい」「銃後を守りたい」などと、その当時の軍国少女的な大志があったかのように思われがちですが、実は 女医になった主な理由は「自活するため」でした。


  中村先生の実家は 貧しい上に子だくさんだったため、長女の先生は 女学校を卒業したら自活しろと常々言われていました。そんな折、大阪で開業医をしていた叔父が、「医師がみな軍医に取られて 国内で医者が不足しているから、成績の良い者は医専の試験を受けろ。受かったら学費の面倒は見てやる」と 一族に大号令を出したのです。

  その時、先生は軍需工場に勤労奉仕に駆り出されていたのですが、両親にせっつかれる形で試験を受けることになったそう。当時は国の「戦時非常措置」政策によって女医を量産して 国内の医者不足を補おうと 全国に女子医学専門学校が7校も急造され、比較的入学はたやすかったとか。無事に合格した先生は、「とにかく自活できる仕事を得られるのであれば、何でもいい」と、そんな気持ちで大阪に出てきたといいます。

  医師になってからも60歳ぐらいまでの先生の働く目標は、ずっと「自活するため」「生活のため」 無報酬の極貧インターン時代を経て やっと医師免許を取得したものの、給料をもらえる働き口が見つからず(その当時は病院の数が不足しており、新米医師は 無給のまま大学病院で修業しつつ ポストの空きを待つのが通常だった) バイト先のおじさんに紹介してもらった開業医宅に住み込んで、助手兼 お手伝いさん兼 子守として働くことで 生計をやっと立てたそうです。

  3年後にやっと 奈良県立医科大学精神科助手のポストを見つけて 安定した自活ができるように。28歳で耳鼻科医の男性と結婚して 2男に恵まれますが、夫は 給料を飲み代に全部使ってしまうという酒豪だったため、常に「生活するため」が 仕事を続ける強い動機であり続けたそうです。

  そんな先生には、現代のビジネス書などでよく目にする「己のキャリアを積み上げる」とか「一流の○○になる」といった いわゆる出世欲・自己実現願望は一切なし。「自分と家族が生活できるためのお金が稼げたらよい」「ささやかでも人の役に立てていれば、それでよい」いった気持ちで 60歳まで ひたすら働いてきたそうです。

  60歳を過ぎて 子供を立派に成人させた後も、先生は「家にいてもすることもないから、自分を使ってもらえて 人の役に立てるうちは 働かせてもらいましょう。もはや仕事は 生活習慣の一部やから」と、相変わらず 淡々と仕事をこなしています。

  私は産業医として 若手社員と面談をよくしますが、過重労働などの問題がないホワイトな職場であっても、「今の仕事では、自分の能力を伸ばせない」とか「異動後の仕事は 自分のキャリアプランとは違う」などと悩む方にしばしば出会います。もちろん しっかり悩んだ結果、自分の目標に合わせて自力で転職を繰り返したり、一念発起して起業したりと、自分の望む仕事を 己のかい性で創り出していくチャレンジ精神や根性があれば 何も問題ありません。現在は そういうことが十分に許容される時代です。

  しかし そういったリスクを今は極力避けたい、今いる組織の中で働き続けていきたい と思うのであれば、時には 中村先生のようなスタンスも 必要なのではないかと感じます。


「自分は こんな仕事をすべき人間ではない なんて、たいそうに考えるから おかしなことになってしまうんです」

「余計な力を抜いて、『まあこれくらいやってやるか』『今は そういうときなんやな』と、変に力まず 受け入れてしまったほうがラクですわ」

  先生は、そんなふうに考えて 70年近く病院組織の中で 淡々と仕事を続けてきたそうです。組織が自分に望んでいるタスクを、自分の好き嫌いや都合で判断せず、まずはコツコツと 誠実にこなしていく姿勢を貫いてきた先生だからこそ、89歳になった今も 求められる人材であり続けている のだと思います。


その2 「声をかけやすい人になる我は捨てる

  私は 中村先生とは約3年 同じ病院で働いていました。その時 先生はすでに70歳を超えていましたが、若い医師や看護師、スタッフから とても親しまれ 愛されていました。その理由の一つは、「声をかけやすい」雰囲気にあると思います。

  病院のスタッフたちは「先生、この処置もついでにお願いできないですか?」などと 気軽に頼んでいましたし、先生は「ああ、ええよ」と 自分の担当患者さん以外の雑用であっても、気軽に引き受けてあげていました。

「先生、この患者さんのケアプランどうしましょう?」などと 若い看護師から相談を受けたら、「そうやなあ、私は こう思うんやけど、あなたは どう思う?」などと、上意下達ではなく、常に 相談しましょうという雰囲気で 対話をされていました。

  先生には、「この仕事は 私の仕事じゃない」とバリアを築くのではなく、自分のできる範囲で 臨機応変にスタッフと協力し合う という姿勢が常にあります。逆に 自分が分からないこと、例えば パソコンの操作などについては「ちょっと教えて~」と素直にヘルプを求め、助けてくれたスタッフに対しては「ありがとう、助かったわ」としっかり相手の労をねぎらい 感謝される。この「持ちつ持たれつの関係」をいつも築いているからこそ、多くのスタッフに慕われ 頼りにされているのだと思います。

  また 先生には「年上だから」とか「先輩だから」といった 妙なプライドや 我が全くなく、自分より年下の医師やスタッフにも 常に対等な意識で接するのも特徴です。

  どんなスタッフに対しても「私は こう思うけど、あなたは どう思うの? どうしたいの?」と常に 相手の考えや希望を確かめながら、折り合いを見つけつつ事を進める。また、もともと出世や名誉に対する欲がない先生は、自分よりはるか年下の医局長や院長といった上司にも、妙な劣等感や嫉妬を抱くことなく 自然なフレンドリーな態度で接していかれます。

  先生の中では、「自分は自分。他人は他人。他人の人生と自分の人生を比べても仕方がない」という意識が 常にぶれずにあるようです。戦中戦後の混乱と激変の世の中で生き抜いていくためには、いちいち 他人と比較して落ち込んだり嫉妬したりする暇はなかったのかもしれません。

「他人さんのことなんか気にしている暇あったら、目の前の仕事をこなそう」

「皆それぞれの立場で、たくさんの悩みや苦しみを抱えている。どんな立場になっても 悩みや苦しみは常について回る。だから 羨んだりしても意味がない」

  そんなふうに 先生は考えているようです。

  転職したり 定年退職後に再雇用されたりする人もどんどん増えている世の中ですが、先生の人間関係の築き方、捉え方は 大いに参考になると思います。

  さて、今年も8月15日に、日本は73回目の終戦記念日を迎えます。中村先生とお話ししていると、戦中戦後の想像を絶する混乱期を生き抜いてきた日本人が いかにタフで強かったか、我慢強かったかが 身に染みて分かり、敬服の念を禁じ得ません。

  物質的にも 経済的にも はるかに豊かになった日本で、生命の危険なく働けている平和に感謝しつつ、私自身 もっとストレスに打たれ強くならなければと 背筋が伸びる思いがします。この拙稿を通じて、読者の皆様にも 中村先生が持ち続ける戦中世代の力強さを その片りんだけでもお伝えすることができれば幸いです。


こちら「メンタル産業医」相談室  奥田弘美(おくだ ひろみ)さん
精神科医(精神保健指定医)・産業医・労働衛生コンサルタント