昨日の道新コラム。
久々に 「共感」という言葉を目にした。 そういえば 仏教を学び始めたころ、 この言葉をよく聞いた。
今なら、 この言葉が たしかにキーワード だったと、よく分かる。
アドラーなら こう言うだろう。「他者の目で見て、 他者の耳で聞き、 他者の心で感じること」
人間にとって、 おそらくもっとも大切なことは「全面的に、無条件に、受容される」ことであろう。
そして 自分が すでに受容されていたことに気づいたなら、他者を 無条件に受容する
こともできるようになる。
それが 「愛」 であり 「慈悲」 であり 「思いやり」 であった。
そのための 大前提が「共感」なんだろう。
「愛する」ことが、「愛することができる」 ことが、 こんなにも心地よいことだとは 知らなかった。
「愛される」 のでなく、 「愛する」 ことこそが 「幸せ」そのものだ。
それを知ることが、人がこの世に生まれてきた 理由(わけ)なんだと思う。
今日の道新コラム。
たしかに、 現実の世界は ゼロでも 100%でもない。
「悪い人」 もいなければ、 「良い人」 もいない。
その もやもやした現実から目を背けて、 「悪人 vs 善人」という
「安易な妄想」に浸っていてはいけない。
その 「妄想」 のなかで、 自分を 「善人」 の側に置こうとしてはならない。
その、単純に割り切れない グレーゾーンの現実の中にこそ、 「生きている奇跡」 がある。
その中で、 「愛する」 ことができるかどうか、 みんな 試されているのかも知れない。
[ブログ記事「どっちでもない」を参照のこと]
ただし、
『あなたたちが 目をそらす 「不完全」 さは、 私たちの社会が生み出したものではないのか』
と言う このコラムの著者は、『 「完全」 なる正義』という妄想に囚われているのではないか、
私は そう感じた。