「幸せになる勇気」第三部:普通であることの勇気 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

第三部:競争原理から協力原理へ

みんな普通  あなたも わたしも 普通で  同じ
   普通同じであれば協力共感できる
   同じであれば愛することが容易になる

 
青年 アドラーは、褒めることも 否定する。
褒めることは『能力のある人が 能力のない人に下す評価であり
  その目的は『操作である」 と。
  しかし  教育の現場では、   褒める:勇気づける  ことによって  どんどん 積極的になり、
  伸びていく生徒がいますよ。

褒めることと 勇気づけることは、一見よく似ている。しかし 背景にある意識が違う。

  同じ言葉をかけたとしても、それを どんな意識のもとで発言しているのか? 
    評価・コントロールしようとして褒めて いるのか? 
    それとも、 援助し 勇気づけようとして  いるのか?
  尊敬の気持ちが 褒め言葉になることだって  あるだろう。

  操作しようとして褒めることが 問題なのであり
  アドラーの否定する「褒めること」とは、  そのことである】

哲人 褒めたら喜び、伸びる子どもたちがいるのに、どうして 褒めてはいけないのか?
褒められること」 を目的とする人々が集まると、 その共同体には 「競争」 が生まれます
  他者が褒められれば 悔しいし、自分が褒められれば 誇らしい。
  いかにして 褒められ褒められるか
  こうして共同体は、 褒賞をめざした競争原理に支配されていきます
青年 なぜ競争がよくないのです
哲人 競争相手とは  すなわち「敵」 です
  ほどなく子どもたちは、 他者はすべて敵なのだ」 
「人々は わたしを陥れようと 機会を窺う、  油断ならない存在なのだ」 という
  ライフスタイルを身につけていくでしょう

【褒めたからといって、 いつもいつも 競争が生まれるワケではないし、
 「競争」 という言葉を使っていても、 互いを高めあうライバルは「敵」 ではないので、
  アドラーの表現の仕方は 偏っている

  そして その心理学も 多くの人々には非常に有効だが、 そうでない人も 稀にいるので、
  かならずしも 「普遍的なものではない
  始めに、 アドラー心理学は  「メガネの処方」  であると言ったのは、 そういう意味である】

  競争原理に染まった 共同体は、     「病んだ共同体」 と言えます。
  この中の一人が 問題行動をくり返すとき、  個人の素質に焦点をあてるのではなく、
【現代の資本主義原理における社会という】
  共同体のあり方を 考える必要があります

  全体のあり方に対する処方箋が 必要です。
  そのためには   賞罰をやめ、 競争の芽を   ひとつずつ摘んでいき、 学級・社会:共同体から
【現実的には無理でも 考え方理想として】   競争原理を なくしていくことです。

  あなたのクラスは、大丈夫ですか? 
  賞罰というアメとムチで、 生徒を動機づけようとはしていませんか? 
  かりに 問題児がいるとして、それは その子の問題なのではなく
  クラス全体の問題 なのではありませんか?
  問題のある、  そんな会社【そして社会あるかも知れませんね。

 
競争原理 縦の関係」 「横の関係協力原理

青年 わたしが 問題にしているのは、 現実に生きる人間です。
  繊細で どこまでも不器用な 柔肌の子供たちです。
  彼らは 個別に、そして もっと健全な形で  承認欲求を満たしてあげる必要がある。
  すなわち 褒める必要がある
【この場合は 勇気づけのための褒め言葉
  そうでなければ、 くじかれた「勇気を  取り戻せない  【たしかに そうだろう】
   【それには答えずに、哲人は こう言う】
哲人 人間は、心の成長よりも 身体の発達の方が遅い。そのため無力感を感じざるを得ない
  心は「~したい」 のに、  からだは それについていくことができない。
  この「自らの不完全さを経験する  子どもたちは、劣等感を抱かざるを得ないのです。
  だから、すべての人間は不完全な存在」  としてスタートするのです。

【アドラー自身が 劣等感を克服しようとして成長してきたので、 こういう言い方になる】

  この不完全さ努力と成長の促進剤となり、  この努力が 文明を進展させてきました
  文明とは、 人間の生物的な弱さを補償するための産物であり
  人類史とは、 劣等性克服する歩みなのです
【アドラーの過去の劣等感 こう言わせている
青年 人間【アドラーは】は 弱かったからこそ、これだけの文明【理論】を築き上げた?

哲人 さらにいえば、人間は その弱さゆえに共同体をつくり、 協力関係のなかに生きています。   生きざるを得ないのです。
【人間は 群れ(社会)を作る動物】
  狩猟採集時代のむかしから、  われわれは  集団で生活し、仲間と協力して 獲物を狩り
  子どもたちを育ててきました
  協力したかったのではありません。
  もっと 切実に、  単独では 生きていけないほど弱かったのです。
  そのためには共感が必須でした
  逆にいうと、 人間にとって 孤立ほど恐ろしいものはありません
  孤立した人間は身の安全が 脅かされる  にとどまらず、心の安全までも 脅かされてしまいます
  一人では 生きていけないことを、 本能的に熟知しているのですから。
  だから われわれはいつも、 他者との強固な  「つながり(共感) 希求し続けているのです。

  ゆえにすべての人には 共同体感覚が内在し
  それが 人間のアイデンティティと 深く結びついているのです。
  甲羅のない亀など 想像できないように、 あるいは首の短いキリンなど想像できないように、
  他者から切り離された人間など ありえないのです。
  共同体感覚は「見につける」 ものではなく、  己の内から「掘り起こす」 ものであり、
  だからこそ「感覚 として共有できるのです。
  共同体感覚は、 つねに身体の弱さを反映したものであり、 それと切り離すことはできない。

  横の関係としての 共同体感覚掘り起こすべきなのに
  それを 一歩間違えてしまうと縦の関係の承認欲求引き出してしまうのです

なぜ間違えるのか  それは、 何かを達成して承認を得ることが幸せだと勘違いし
  承認の完全さを追求してしまうためである

承認:賞賛  「幸せ」 必要条件にとどめておけず、 十分条件と取り違えて 追求し続けてしまうからである。

ほんとうの幸せ、ただ「あるがままにあることの 納得をともなった実感であり、 
  それは 追求するものでなく、 追いかけることで  姿を隠してしまう 厄介なものである

青年 しかし、 その劣等感と 共同体感覚の  生来的存在が、
  なぜ 承認欲求を認めないことにつながるのですか?  なぜ 間違えてしまうのですか?
哲人 ここで、「問題行動の5段階」 の目的を  思い出してください。
青年 自分のことを認めてほしい、そして特別な地位を得たい。そうですよね?
哲人 では、 「特別な地位を得る」 とはなにか。  なぜ それを求めるのか?
  人間の もっとも根源的な欲求は  所属感(安心感)」です
ここにいてもいいんだ(このままでいいんだ)ありのままで 大丈夫だ】という実感です

  それを「確実完璧永遠」感じているために
  共同体のなかで「特別」 な存在であろうとします。「その他大勢」 にはなりたくない と。
  いつ いかなるときも、 自分だけは「完全居場所が確保されていなければならない。
  所属感に、わずかな揺らぎの存在も 許したくない。
  所属感安心感の完全さ」 を求めすぎて、  横の関係であるべきものを
  縦の関係に 置き換えてしまうのです
不確かさ」【 = 無常ありのままの真実に耐えきれず
  本来の協力原理を 競争原理とはき違え、  承認欲求の道を 突き進んでしまうのです
  しかし、 この世 完全 などあり得ません。  承認には 終わりがないのです
  ですから、この路線(縦・競争・承認などを押し進んでも、その先に 
  ほんとうの価値は実感できないのです。
青年 そうかも知れませんが…

哲人 褒められることでしか  幸せを実感できない人は人生の最後の瞬間まで
もっと褒められることを求めます
  その人は「依存の地位に置かれたまま、  永遠に求め続ける 生を
  永遠に満たされることのない 生、  送ることになるのです。
青年 では、どうするのです?
哲人 他者からの承認を 求めるのではなく、   自らの意思で、 自らを承認するしかない   のです。
【わたししかいない】
わたし の価値を 他者に決めてもらうこと。  それは依存です。一方 
わたし」 価値を 自らが決定すること。  これを「自立」と呼びます。
  幸福な生は、どちらですか

青年 われわれ自分に自信【自己受容による  自信 : ありのままでいいという  安心感が持てないから、
  他者の承認【による間接的な自信:大丈夫という納得感を 必要としているのですよ!
哲人 それは、「普通であることの勇気」が  足りていないからでしょう。
  ありのままで いいのです。
特別」 な存在にならずとも優れていなくともあなたの居場所そこ:普通にあります
  平凡なる自分を、「その他大勢ただの人としての自分を 受け入れましょう自己受容
人と違う(より優れている)ことに価値を置くのではなく
わたしであることに 価値を置くのです。
  それが 「ほんとうの個性」 というものです
「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、
  その「違い」 の優位性ばかり 際立たせようとするのは
  他者を欺き 自分に嘘をつく生き方に 他なりません
  あなたの個性とは 相対的なものではなく、  絶対的なものなのですから。
【あなた存在そのものあなたしかいない】
 
青年 実は わたしは、心のどこかで 学校教育の限界を感じています。
  クラスのなかには、         さまざま個性・ライフスタイルを持った子どもたちがいます
  そのライフスタイルは、   家庭で身につけたものです
【家庭で身についたライフスタイルが、 学校社会で さらに強化される
  そして いまなお、生徒たちは 一日の大半を家庭で過ごしています。
  だとすれば、  人格形成まで含むような   「広義の教育」 は 家庭の責任である。
  教師の役割は「狭義の教育」   つまり 教科レベルでの教育でしかないと思えます。
  ですから 子どもたちの問題行動も、それは家庭の問題です
哲人 それは 違います
  問題行動なりなんなり、 あらゆる言動には、  それが向けられる相手がいます
  子どもたちも また、親に見せる顔教師に見せる顔友だちに見せる顔、  すべて違うはずです。
  では、 あなたのクラス問題行動をくり返す生徒がいたとして、
  その行動は 誰に対して向けられたものか? 
  それはあなた」 に対してですよね
  その問題行動はあなたと生徒との関係のなかで生じた問題なのです。

  わたしひとりの友人として申し上げます。
  あなたは ずっと教育の話をされているが、ほんとうの悩みは そこではない
  あなたは まだ、幸せになれていない。  「幸せになる勇気」を持ちえていない
  そして、 あなたが教育者の道を選んだのは、  子どもたちを救いたかったからではない。
  子どもたちを救うことを通じて、  自分が 救われたかったからです。

  他者を救うことによって 自らが救われようとする
  自らを 一種の救世主に仕立てることによって、 自らの価値を実感しようとする。
  これは 劣等感を払拭できない人がしばしば陥る 優越コンプレックスの一形態であり、
メサイヤコンプレックス」 と  呼ばれています。

【メサイヤ・コンプレックスも   他者貢献と紛らわしいので、要注意である。
  オウムの麻原彰晃や その高弟たちも、
  このメサイヤ・コンプレックスを   抱えていた可能性が大きい】

  不幸を抱えた人間による救済は 自己満足を脱することがなく、   誰ひとりとして幸せにしません
  実際、あなた 子どもたちの救済乗り出しながら、 いまだ 不幸のまっただ中にいる
  自分の価値を実感することだけ願っている
  だとすれば、  これ以上   教育論を ぶつけ合っても意味がない。
  まずは、  あなたが自らの手で 幸せを獲得することです。
  これは もはや仕事や教育を超えた、 あなたの人生そのものを問うテーマなのです。

  あなたが いまだに幸せを実感できていない理由は簡単です。
  仕事交友愛の3つからなる 「人生のタスク」  を回避しているからです。
  あなたはいま、「仕事」として  生徒たちと向き合おうとしている。しかし、
  生徒たちとの関係は「交友」なのです。
  ですから 生徒たち「ひとりの友人」 として、 尊敬の念を持って向き合うべきでしょう。
  そこのボタンを掛け違えたままでは、教育がうまくいくはずなどありません。
 
 
第三部のまとめ:
承認欲求を棄て
普通の自分で(ただの人として)生きる

  賞罰が汎用される アメとムチで支配されている共同体には、「競争が生まれる
  競争相手はであり、 そこでは
「世界は油断ならない存在」 というライフスタイルが形成されてしまい、「が必要となる

  人間には  牙も翼もない
  その弱さゆえに 共同体をつくり、 「協力」  して生きていくしかなかった
  ゆえに、 他者との  強固なつながりを希求せざるを得ない

  共同体感覚すべての人間内在後から  「身につける」 ものではなく、
  自らの内から掘り起こす」 ものである
  本来は  横の関係として それを掘り起こす  べきなのに、一歩間違えると、
  縦の関係である承認欲求を引き出してしまう

不確かである  自然の摂理を無視し、  「完璧かつ永遠の所属感(安心感)を求め
  他者と比べて「特別な存在であろうと   無理することが間違いの原因になる

完全 などあり得ず 承認には終わりがない
  承認欲求を原理として生きる人は、 死ぬまで  「賞賛」 を求め続け
  永遠に満たされない 生を 送ることになる

  そうではなく普通 であることを受け入れ、  特別であろうとはしないで
わたしである」 ことに価値を置き自分で自分を承認しなくてはならない



(最終改訂:2023年1月29日)