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アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
第一部:
悪いあの人、かわいそうなわたし
ではなく、 これからどうするのか → 他者尊敬・他者受容を実践する
自立とは なにか?
教育の目標は 社会的自立の生活知なのか? それだけでなく 人間的自立の人間知なのか?
青年 課題の分離という考え方がありました。
「あなたは 他者の期待を満たすために生きているのではない」 そして
「他者も また あなたの期待を満たすために生きているのではない」 と。
こうして課題を分離することで 承認欲求を絶対のものとしないで 相対化できれば、
つまり 社会生活に必要な方便だと知れば、 対人関係の自由が得られ、 シンプルになる。
ところで 子どもにとっての課題とは、勉強することです。
したがって、これに 親や教師は介入してはいけない、ということでしたよね?
だとすれば、「教育」 とは なんなのですか?
哲人 では こちらから訊きますが、 家庭や 学校での 教育の目標とは なんですか?
青年 一人前の大人になってほしいということでしょうか。
哲人 そうです、「自立」 ということです。 人はみな 無力な状態から脱し、
(自立に向かって)より向上していきたい という欲求(優越性の欲求)を持っています。
赤ちゃんが 歩けるようになり、 言葉を覚え コミニュケーションできるようになっていく。
同時に 徐々に自由を獲得していく。
このような 無力で不自由な状態からの 「自立」 は、人間にとっての根源的欲求です。
【本来的に すべての人間が自ら成長したいという強い(真の自己の)欲求を持っている。
だから「その欲求の存在」 を信じ、 無条件に他者をも信頼(愛)する。
それが、教育の原点になるべきだろう】
哲人 その成長・自立を促すのが 教育です。
【教育とは 自立に向けた支援のことである】
勉強を押しつけると、「自分の主権(課題)が犯された・自主性が侵害された」 と感じ、
かえって 自ら成長するために勉強しようとする 自主性【勇気】がくじかれてしまいます。
ですから教育とは、 課題を取り違えるような 主権を侵害するような「介入」 ではなく、
自立に向けた 「援助・勇気づけ・提案」 でなくてはなりません。
【教育・カウンセリングの前提は、自ら成長したいという欲求(主体性)の存在である。
「主体性」 がなければ 援助や提案は 意味をなさないだろうが、
その主体性を育むのも また勇気づけであり、 勇気づけるものは 無条件の受容である愛だ】
哲人 そして教えるべき内容は 「生活していくための知:生活知 必要条件」 だけでなく、
「人間が人間として 幸福に生きるための知である横の関係を築くための人間知 十分条件」 も含みます。
【教育では 主体性の存在が最重要であり、 主体性の不在は押しつけにつながる。
とは言うもの すべての子どもが 勉強に取り組む主体性が高いというワケではない。
しかし 人間知に対する欲求がない子どもは存在せず、ここを 主体性の足掛かりとする】
共同体の中で どのように生きるべきなのか。 他者と どのように関わればいいのか。
どうすれば、その共同体に 自分の居場所を見出すことができるのか。
「わたし」 を知り、「あなた」 を知ること。
人間の本性を知り、人間としての在り方を理解すること。
アドラーは こうした知のことを「人間知」 と呼びました。
この人間知は 書物によって得られる知識ではなく、
他者と交わる 「現実の対人関係の実践」 から学んでいくしかないものです。
【他者を無条件に信頼(愛)することによる
劇的な対人関係の改善や 他者の成長を 一度でも経験することができれば、
この人間知が何か 心底 理解できるだろう】
青年 教育の鍵は、 その 「人間知」 をどう伝えていくかだと?
【関係性の在り方は、現実の関係そのものを通して右脳的にしか 伝えることができない】
哲人 ええ、カウンセリングも同じです。
カウンセラーは、相談者の 「自立」 に向けて援助する。
そして 幸せな自立のために必要な人間知を、 共に考えるのです。 あくまでも 援助です。
【人間関係の正しい在り方についての・人が幸せに生きるための 智慧が 人間知】
カウンセリングを受けた結果、 相談者が どのような決断を下すのか。
ライフスタイルを変えるのか、 それとも 変えないのか。
それは 相談者本人の課題であって、 カウンセラーは そこに介入できないのです。
「馬を水辺に連れて行くことはできる」 が、 「水を呑ませることはできない」 のです。
くり返しになりますが、 カウンセリングも子どもの教育も、本質的には 同じです。
アドラー心理学では、 カウンセリングのことを「治療」 とは考えず、 【横の関係による】
「再教育」 の場だと考えます。
カウンセラーとは教育者であり、 教育者とはカウンセラーなのです。
ともに、「横の関係」 を基本原理とする、 自立に向けた支援なのです。
【 「自立」 が 社会的な自立のことだけを意味するなら、それは 生活するための 必要条件であり、
そのためには「生活知」 だけでいいだろう。
だが それが幸福のための人間的な自立を意味するなら、 そのためには 「人間知」 が必要だ。
この人間知は 幸福に生きるための十分条件となり得るだろう。
幸福のためには、 「わたし」 や 「あなた」 という 人間の 「心の構造と状態」 を
よく 知っていなくてはならない。
つまり 人間知とは、心の構造と状態のことを基にした 「人間関係の智慧」 のことである。
すべての人間の 心の構造とその本質は、 はるか昔からずーっと 変わっていないが、
心の(要素の)状態は 後天的に取り入れる情報の蓄積の影響を大きく受け、
時代や地域により 様々に異なっている。
したがって個人が違うのは 持って生まれた脳の特性の違いだけでなく、
その中に取り入れる 情報の違いも大きい。
この個人間の大きな違いを理解することが、 人間知の大前提であると言ってよいだろう。
さらに この違いの存在とともに、
心は この人によって違う要素と どんな人間でも同じ本質という
二重構造からなることを知る必要がある。
そして 人間が横の関係でつながるためには、
この違いを認めつつ 互いの本質がまったく同じものであることを理解する必要がある】
尊敬とは なにか?
尊敬とは、ありのままにその人を見て 他者信頼(ありのままのその人を受容)すること
哲人 具体的に どこから始めればいいのか。
教育・指導・援助が 「自立」 という目標を掲げるとき、 その入り口は どこにあるのか?
答えはひとつ、 「尊敬」 です。 教育の入り口は、それ以外にあり得ません。
役割として 教える側に立っている人間が、 教えられる側に立つ人間のことを 敬う。
特定の立派な他者だけを尊敬するのでなく、 家族や友人、 通りすがりの見知らぬ人々、
さらには 生涯会うことのない 異国の人々など、「ありとあらゆる他者」 を尊敬する。
【尊敬することは受容することであり、 つまり愛することである】
根源にあるのは「人間(の存在そのもの)への尊敬」 です。
【存在=要素+本質なので 要素と本質の両方を尊敬する。 違いも ありのままに認める】
尊敬なきところに良好な人間関係は生まれず、
良好な関係なくして 言葉を届けることはできません。
【ありのままの他者を無条件に受け入れることが尊敬であり、 尊敬することは 愛すること。
そして実際に尊敬することで 尊敬の大切さを伝える】
[エーリッヒ・フロムの言葉]
尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、 その人が唯一無二の違う存在であることを
知る【受け入れる】能力のことである。
尊敬とは、その人がその人らしく(違いを受け入れて)成長発展していけるように、
気づかう【ケアする:愛する】ことである。
【受け入れるとは】 目の前の(違う)他者を変えようとも操作しようともしないことです。
なにかの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」 を認めるのです。
【ありのままの自分を認めれば、同じように ありのままの他者を認められる(受容できる)】
そして もし誰かから 「ありのままの自分」 を認められたなら(これが勇気づけとなり)
その人は 大きな力(勇気)を得るでしょう。
【主体性を尊重して 変えようとしなければ、
他者は 自らの成長したいという 根源的な欲求に基づいて、 自発的に変わっていく。
これは、 「偉大なるパラドックス」 である。
「ありのまま」 とは、 人間の中の要素(能力や才能や価値観 等)の違いを評価しないで、
つまり そこに優劣はつけずに 変えようとせず、そのままを認めて 受け入れること】
尊敬とは「勇気づけ」 の原点でもあります。
他者を操作しようとする態度・矯正しようとする態度には、 いっさいの尊敬がありません。
【 「良い」 要素:条件を満たしている、 つまり
立派だから 尊敬するのではなく、 「無条件」 に 尊敬するのである。
「勇気づけ」 もまた、 無条件の受容(愛)によってなされる】
相手が変化する保証は どこにもありません。 保証がないからこそ 無条件の尊敬なのです。
まず 「あなた」 が始めなくては、すべての他者を尊敬しなくてはならない。
どうやって 尊敬するのか?
他者に関心を持ち 他者の世界を想像することで、 まずは 他者の立場になってみようとする
哲人 尊敬とは 言葉で なされるものでなく、 習得可能な技術としての態度で なされます。
他者の関心事(他者の世界)に 関心を寄せる態度(social interest)によってなされます。
自己への執着(self interest)を 他者への関心(social interest)に切り替えるのです。
【social interest によって他者の立場に立てれば、 自分の見ている狭い世界に限定されない
広い 様々な世界があることに気づける。
他者は その(自分と違う)別の世界を見ていることを 感覚的にも理解し、 尊重する】
他者からの尊敬を、強要することは できません 【自分が尊敬することしか できない】
尊敬のボールは 自らそれを投げた人にだけ返ってきます。
たとえば、「子どもたちの関心事」 に 関心を寄せる。
あなたの目から見て、どんなに低俗な遊びであろうと、
まずは それがどんなものなのか理解しようとする。 自分もやってみて ともに遊ぶ。
「遊んであげる」 のではなく、 自分自身が それを楽しむ。
そのとき 初めて 子どもたちは
自分たちが認められていること、 子ども扱いされていないこと、
一人の人間として 「尊敬(受容)」 されていること を実感するでしょう。
これは あらゆる対人関係で求められる、 尊敬の具体的な第一歩です。
われわれは もっと「他者の関心事」 に関心を寄せる必要があります。
われわれに必要なのは、 「他者の目で見て、 他者の耳で聞き、 他者の心で感じること」です。
あなたは 今、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の心で感じようとしている。
だから子どもたちの関心事について 「下劣」 だの「醜悪」 だのという言葉が出てくる。
子どもたちは、 それを 下劣だとは 思っていません。では、 彼らは 何を見ているのか?
まずは、 そこを理解することから 始めるのです(social interest)
青年 では どうやって、 主観から逃れられないわれわれが 他者の心を持てるというのですか?
哲人 主観から 逃れられないし、 他者になることもできない。
【他者になるという目的を設定しても 決して届かないが、なろうとする過程が大切だ】
しかし 他者の目に映るものを想像し、 耳に聞こえる音を想像することはできます。
まずは、
「もしも わたしが この人と同じ種類の心と 人生を持っていたら?」 と 考える(想像する)
そうすれば、 「きっと自分も 同じ課題に直面し、 同じようなやり方で 対応するだろう」
と 想像できるはずです。
【想像してみようと決意することが、 相手の状況や気持ちを想像するスタート地点だ】
たとえば、 まったく勉強しようとしない 生徒がいる。
ここで 「なぜ勉強しないんだ」 と問いただすのは、 いっさいの尊敬を欠いた態度です。
そうではなく、 まずは「もしも 自分が彼と同じ心を持ち、 同じ人生を持っていたら?」
と 考える。つまり 自分が 彼と同じ年齢で、 彼と同じ家庭に暮らし、
彼と 同じ仲間に囲まれ、 彼と 同じ興味や関心を持っていたらと 考える。
そうすれば「その自分」 が、 勉強という課題を前に どのように反応してしまうのか、
なぜ 勉強を拒絶するのか、 想像できるはずです。
このような、相手の立場になってみようとする態度を なんと呼ぶか、分かりますか?
青年 想像力、ですか?
哲人 いいえ。 これこそが「共感」 なのです。
共感とは 他者に寄り添うときの態度であり、 技術なのです。
そして 技術であるかぎり、あなたも 身につけることができます。
【 「状況の想像」 にとどまるのは 同情であり、 共感は「気持ちまでも想像」 して その結果
何かをしてあげたいと思う行動をともなう。
とにかく、
同じ気持ちになれず たとえ左脳的であろうとも その気持ちを精一杯想像してみること。
そして 右脳機能により 同じ気持ちになれたとしても、課題の分離ができていれば、
その気持ちに囚われ 巻き込まれて 一緒に苦しむことはないだろう】
青年 でも、 子どもたちは 少しでも甘い顔を見せれば 増長し、
手が つけれなくなってしまいますよ。
哲人 おっしゃるように、 子どもは 天使ではありません。 ひとりの人間です。
しかし【独自の課題を持つ】ひとりの人間である からこそ、 尊敬を払わなければならない。
対等な存在として 接するのです。 彼らの興味関心に共感を寄せながら。
そして あなたが身をもって実践することによって 尊敬するとはどういうことか を示す。
尊敬という対人関係の土台を築く方法を示し、 尊敬に基づく関係のあり方を知ってもらうのです。
アドラーは言います。「臆病は 伝染する。 そして、勇気も 伝染する」 と。
当然、尊敬もまた 伝染していくでしょう。
始めるのは、 あなた(わたし)です。理解者がいなくとも、 賛同者がいなくとも。
【身をもって尊敬を実践することで、正しい 「関係の在り方」 を わたしからあなたへ 伝える。
それが 教師(わたし)の幸せであろう】
青年 われわれ教育者に 課せられた役割は、 子どもたちを尊敬し、
尊敬とは なにか【受容であること】を示し、
尊敬【横の関係】を学んでもらうことだと おっしゃるのですね?
哲人 はい。教育に限らず、あらゆる対人関係の第一歩はそこになります。
青年 しかし、 学校教育に そして近代資本主義社会で求められられるようになったものは、
茫漠とした「人間知」 などではありません。
保護者や社会が求めているのは 学力の向上であり、生活していくための知である生活知です。
【その通りであり、それこそが 問題である】
アドラー心理学の鍵概念である共同体感覚。 そのためには 共感という技術が必要になる。
「共感」 の第一歩は「他者の関心事」 に関心を寄せ、 他者の目で見て、他者の耳で聞き、
他者の心で感じる【これが尊敬することであり、 つまり 左脳的に 相手の立場になること】
そうすれば、他者の気持ちを 右脳的に 自分の中に再現できるようになる(かも知れない)
「共感」 の前提は、もちろん 「受容」 であり、 そして何度も繰り返すが、 受容とは愛のことである。
「愛」→ 「共感:conpassion」→ 「共同体感覚」 自己受容→他者信頼→他者貢献→共同体感覚
なぜ、変われないのか?
哲人 ところで、 あなたが変われない理由は 何なのですか?
青年 ほんとうは 変わりたくないから?
【というより、一度出来上がった神経回路を組み換えることは 大変だから。 でも 可能】
哲人 そういうことです。 これは 「変化とはなにか?」 という問いにもつながっています。
変化するとは、 ある意味 「【自我の】死そのもの」 ともいえます。
自分を 変えるとは、 「それまでの自分」 に見切りをつけ、「それまでの自分」 を否定し、
それまでの自分が二度と顔を出さないよう、 いわば墓石の下に葬り去ることを意味します。
【自分を変えるとは、
それまでの自分(自我)を わたし自身の主人格から サブ人格に 降格すること、
「わたしの主体」 から 「わたしの機能」 にすることである。
それは 自我の死でなく 役割変更に過ぎないのだが、 「自我にとっては まるで死のようだ」
と言いたいのだろう。
だから 自我は必死になって抵抗し、それ故に 変わることが とても難しいのである。
一旦 変われたと思っても すぐにまた 元のライフスタイルに戻ってしまうものであり、
ダイエットした後のリバウンドに似ている。
それゆえに、アドラーが このような過激な表現を使ったことには 大いに共感できる。
もしくは 自我のすべてを葬り去るのでなく、
それまでの自分の中の問題となっていた部分だけを完全に葬り去る と理解すべきだろう。
では、代わりに登場する あたらしい自分を名乗る主人格とは いったい何ものなのか?
自我は 二重構造の中の要素の部分であり、それに代わる主人格が 本質の方なのである】
哲人 そこまでやって ようやく、 あたらしい自分として生まれ変わるのですから。
では いくら 現状に不満があるとはいえ、 【自我に】死を選ぶことができるのか。
底の見えない闇に 身を投げることができるのか。 そう簡単な話ではありません。
【死を選ぶのは自我でなく、 いま表舞台に登場しようとしている本質=真の自分である】
【私が変わろうとするたびに、私は「うつ」 になった、 または 「うつ」 になりそうになった。
その度に、 「うつ」 にならないため 「うつ」 から逃げ出すために、道を引き返していた。
しかし マインドフルネスの修行を開始し、 これ以上 逃げ続けてはいけないと気づき、
その道を進む以外の選択肢がなくなり、
1年半ほどの 先の見えないとても辛い時期を乗り切ったあとに、やっと 光が現れた。
しかし それから何年も経った後でも まだ、 それまでの自分で問題となっていた部分を
完全には 葬り去れてはいなかったことに 気づくことがあった。
したがって この変化は生きている限り永遠に続くものだと 覚悟せざるを得ない。
そして、「はじめに」 で書かれていた
「ほんとうの理解であれば その厳しさに身を震わせることになるはずだからです。
生き方まで変わるようになるには、 それまで生きてきた年数の半分が必要になるのです」
という言葉に素直に頷うなずくしかなかった】
哲人 だから 人【自我】は変わろうとしないし、
現状を肯定するための「このままでいい」 材料を探しながら生きることになる。
いまの自分を肯定するために原因論を持ち出し、 それに合致する記憶だけを呼び起こしている。
青年 われわれは、自らの生(生き方:ライフスタイル)を選び、
(それを 正当化するための)自らの過去を 選ぶ、ということですか?
【実は、自我とは ライフスタイルそのもの】
哲人 過去に起きたつらい出来事を「教訓」 や 「思い出」 として語る人もいれば、
いまだ その出来事に縛られ、不可侵のトラウマとしている人もいます。
縛られている人は、 その不幸な過去を必要としているのです。
悲劇という安酒に酔い、不遇なる「いま」 のつらさを忘れようとしているのです。
青年 それは 強者・勝者の論理ではないですか?
哲人 それは違います。わたしは人間の可能性【自由意思】を信じるからこそ、
悲劇に酔うことを 否定しているのです。
では、 われわれがカウンセリングで使う この三角柱を見てください。
この三角柱は われわれの心を表しています。
いま あなたからは、三つある側面のうち 二面だけが見えるはずです。
なんと 書かれていますか?
青年 一面には「悪いあの人」 もう一面には 「かわいそうなわたし」 と。
哲人 そう。
カウンセリングにやってくる方々のほとんどが、このいずれかの話に終始します。
自分を責める他者 または 社会への憎悪を語るか、自分の不幸を 涙ながらに訴えます。
そして、 これはカウンセリングの場に限ったことではありません。
でもわれわれが語り合うべきことは ここにはありません。 本質の解決にはつながりません。
それは みな、他者の課題だからです。
「悪いあの人」 の話を聞き、 「かわいそうなわたし」 の話を聞き、「それは つらかったね、
あなたは なにも悪くないよ」 と同調すれば、 ひとときの癒しは得られるでしょう。
しかし それは、結局「依存」 ではないですか?
青年 じゃあ、どうするのです?
哲人 三角柱の、いま隠れているもう一面。 ここに なんと書いてありますか?
青年 ・・ ・ これからどうするか【目的論】
【変わる・・・ 過去の自分を殺す・・・
原因論に囚われているかぎり、このような(自分を殺す ような)発想は出てこない。
だから、 原因論ではなく 目的論なのだ。
「幸せにイキイキと生きる」 という 「目的」 のために、「これからどうするか」 なのだ】
では 変わるために 具体的にどうするのか?
【あなたが変わらない限り 私は変われないと 責任転嫁することは、相手に主導権を渡し
苦しみや 納得のいかない現実を 自分の力で変えていく可能性を 放棄してしまうことだ。
対して 自身が主役だ(わたししかいない)と気づけば、 現実を変える力が 甦よみがえる。
だが 本を読んで理解するだけでは、 人は 変わらないものだし、
ほんとうに変わりたいと 思っても、 思うだけでは やはり人は 変われない。
変わるためには 脳のトレーニングが必要だ。
(いったん築いた認知を変えようとしない 過剰な自我 要素 の機能を少し抑えるために)
ものの見方(認知)を 別のものに変え、 その見方に従って 行動してみる。 そして
その結果 どうなったのかを検証してみる。
結果が、 今までと異なる次元のレベルで 新鮮であれば、その インパクトは大きく、
それが自己の変容につながっていくだろう。
それを 繰り返していけば、自分(の脳内の配線)が 少しずつ変化していき、
気づいたときには 別もの 本質 になっている。
自分の認知を試しに変えてみて それに基づく行動を変える チャレンジ:実践をしてみる。
その結果、他者からの反応が変わる。
その結果を 元の認知にフィードバックすることで、 試した認知の妥当性を判断する。
その繰り返しが 正しい認知を教えてくれ、 その正しい認知が 脳に焼きつけられていく。
そうやって 自分が変容していく。このためには マインドフルネスの技術が必要だろう】
第一部のまとめ:
横の関係は 尊敬・信頼(受容)でつくられる
教育とは、人々と良い関係【横の関係】を築き、 (単に 生活の面だけでなく)
生きていく上で 幸せに自立することを (押しつけでなく)援助することである。
本来 すべての人間(生徒)が持っている 自ら成長したいという欲求の存在を信じて、
教師が 生徒を尊敬しながら関わる。
この態度を示すことによって、 あるべき 人間の関係【愛に基づく 横の関係】を、
実践の場で つまり教師と生徒の実際の対人関係を通して学んでもらう。
尊敬とは ありのままを認め、 他者を変えようとしたり、 操作しようとはせず、
「他者の関心事」 に関心を寄せ、
「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じ」 ようとする【他者の立場に立つ】こと。
他者の主権(課題)に踏み込まず 尊重すること。
他者の興味・関心に 共感を寄せながら、 【要素を評価して 優劣をつけることなく】
対等な存在として 接すること。 【つまり、これが 「受容し 愛する」 こと】
自分を変えるとは、 【意気込みとしては】それまでの自分 自我 に見切りをつけ、 否定し、
二度と顔を出さないよう 葬り去ること。
そこまでやって ようやく、あたらしい自分 本質 として 生まれ変わることができる。
【でも、自我を「本当に・完全に」 なくそう としてはいけないことを 忘れてはならない】
問題は・・・ 「これからどうするか」 だけ。 そのために試行錯誤の実践を行う(トライする)