「幸せになる勇気」第一部:これからどうするか | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

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第一部:
悪いあの人、かわいそうなわたし

ではなく、   これからどうするのか 
→ 他者尊敬・他者受容を実践する
 
 
教育の目標とは

青年「課題の分離」 という考え方がありました。
あなた 他者の期待を満たすために生きているのではない」 
  そして、  「他者もまたあなたの期待を  満たすために生きているのではない」と。
  こうして課題を分離することで 承認欲求を相対化(機能化)できれば
  対人関係の自由が得られ、 シンプルになる

  ところで 子どもにとっての課題とは、勉強することです。
  したがって、これに 親や教師は介入してはいけない、ということでしたよね? 
  だとすれば、「教育」とはなんなのですか?
哲人 では こちらから訊きますが、 家庭や  学校での 教育の目標とはなんですか?
青年 一人前の大人になってほしい、   ということでしょうか。
哲人 そうです、「自立」ということです。   人はみな 無力な状態から脱し、
【自立に向かって】より向上していきたい   という欲求優越性の欲求)を持っています。
  赤ちゃんが 歩けるようになり、 言葉を覚え コミニュケーションできるようなっていく。
  同時に 徐々に自由を獲得していく
  このような  無力で不自由な状態からの   「自立」 人間の根源的欲求です

【本来的に すべての人間が自ら成長したい  という強い(心の座の)欲求を持っている
  だからその欲求の存在を信じ無条件に  他者を信頼(愛)する
  それが、教育の原点になるべきだ】

  その自立を促すのが  教育です。
  勉強を押し付けると、「自分の主権(課題)が犯された・自主性が侵害された」 と感じ
  かえって 自ら成長しようとする 勉強しようとする勇気【自主性】がくじかれてしまいます。
  ですから教育とは、 課題を取り違えるような  主権を侵害するような「介入」ではなく、
  自立に向けた   援助勇気づけ提案」  でなくてはなりません。

【教育・カウンセリングの前提は、自ら成長したいという欲求(主体性の存在である。
主体性がなければ  援助や提案は 意味をなさないだろうが、
  その主体性を育むものも「勇気づけ」 か?  勇気づけるものは「無条件の受容:」 だ】

  そして 教えるべき内容は、「生活していくための:生活知:必要条件」 だけでなく、
「人間人間として 幸福生きるための である  横の関係を築くための 人間知」 も含みます。
  共同体の中で どのように生きるべきなのか。  他者と どのように関わればいいのか
  どうすれば、その共同体に 自分の居場所を見出すことができるのか。
わたしを知り、「あなたを知ること。
  人間の本性を知り人間としての在り方を  理解すること。
  アドラーこうした 「知」 のこと人間知」 と呼びました。
  この人間知は、  書物によって得られる知識ではなく
  他者と交わる対人関係の実践から 学んでいくしかないものです。
他者を無条件に信頼することによる 劇的な対人関係の改善や  他者の成長を経験すれば
  この人間知が  理解できるだろう】

青年 教育の鍵は、 その 「人間知」 どう伝えていくかだと?
関係性の在り方は、現実の関係そのものを  通してしか 伝えることができない】
哲人 ええ、カウンセリングも同じです。
  カウンセラーは、相談者の 「自立」 に向けて援助する。
  そして 自立のために必要な 「人間知」を、  共に考えるのです。あくまでも 「援助」 です。
人間関係の在り方 についての 智慧」 が、   「人間知」 】
  カウンセリングを受けた結果、  相談者が  どのような決断を下すのか。
  ライフスタイルを 変えるのか、 それとも  変えないのか。
  それは 相談者本人の課題であって、          カウンセラーは そこに介入できないのです。
  馬を 水辺に連れて行くことはできるが、    水を呑ませることはできないのです
  くり返しになりますが、 カウンセリングも子どもの教育も本質的には 同じです。
  アドラー心理学ではカウンセリングのことを「治療」 とは考えず、 【横の関係による】
再教育の場だと考えます。
  カウンセラーとは 教育者であり、 教育者とは カウンセラーなのです。
  ともに、「横の関係が 基本原理です。

【 「自立」が 社会的な自立のことだけを意味するなら、それは 生活するための
必要条件」 であり、 そのためには 「生活知」  だけでいいだろう。
  だが それが幸福のための人間的な自立を意味するなら、 そのためには 「人間知」 が必要だ。

  幸福のためには、「わたし」 や 「あなた」という人間の「心の構造と状態 
  よく 知っていなくてはならない。
  つまり 人間知とは心の構造と状態のことを 基にした 人間関係の智慧 のことである。

  すべての人間の 心の構造は、はるか昔からずーっと 変わっていないが
  心の状態は 後天的に取り入れる 「情報」 の影響を大きく受け、  時代や地域により  様々である
  個人が 違うように見えるのは、    持って  生まれた特性の違いだけでなく、
  その中に取り入れる  情報の違いが大きい
 

尊敬とはありのままにその人を見ることであり
他者信頼(ありのままのその人を受容)すること

哲人 具体的に どこから始めればいいのか。
  教育・指導・援助が   「自立」 という目標を掲げるとき、 その入り口は どこにあるのか?
  答えは ひとつ、「尊敬」 です。         教育の入り口は、それ以外にあり得ません。
  役割として 「教える側」 に立っている人間が、  「教えられる側」 に立つ人間のことを敬う
  特定の他者を尊敬するのではなく、   家族や友人、 通りすがりの見知らぬ人々、
  さらには   生涯会うことのない 異国の人々など、ありとあらゆる他者 尊敬する
尊敬することは    受容することであり、   すなわち 愛することである】
  根源にあるのは「(存在としての)人間への尊敬です
  尊敬なきところに 良好な人間関係は生まれず  良好な関係なくして
  言葉を 届けることはできません
【ありのままの他者を、無条件に受け入れることが「尊敬」 
  そして 実際に尊敬することで、 「尊敬の大切さを伝える

[エーリッヒ・フロムの言葉]
「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、  その人が  唯一無二の存在であることを
  知る【受け入れる】能力のことである」
「尊敬とは、その人がその人らしく成長発展していけるよう
  気づかう【受け入れる:愛することである」

【受け入れるとは】 目の前の他者を 変えようとも操作しようともしない ことです。
  なにかの条件をつける  のではなく、      「ありのままのその人を認めるのです。
【ありのままの自分を認めれば、同じように ありのままの他者を認められる受容できる
  そして もし誰かから「ありのままの自分」  を認められたなら、
  その人は 大きな勇気を得るでしょう。

【主体性を尊重し 他者を変えようとしなければ
  他者は 自らの成長したいという  根源的な欲求に基づいて、 自発的に変わっていく
  これは、 「偉大なるパラドックス」 である】

  尊敬とは「勇気づけ」 の原点でもあります。
  他者を操作しようとする態度矯正しようとする態度には、 いっさいの尊敬がありません

【 「良い」 要素条件を満たしている、 つまり
  立派だから 尊敬するのではなく、  「無条件に 尊敬するのである
勇気づけまた、 無条件の受容(愛)によってなされる

  相手が変化する保証は どこにもありません
  保証ないからこそ無条件尊敬なのです
  まずあなた」 が始めなくては、 尊敬しなくては ならない
 

どうやって 尊敬するのか

哲人 尊敬とは、   言葉で なされるものでは  ありません
  他者の関心事(他者世界) 関心寄せる態度(social interest)よって なされます
  自己への執着(self interest)、   他者への関心(social interest)  切り替えるのです。

【自分の見ている世界だけでなく 様々な世界がある。
  他者は その(自分と違う)別の世界を見ているということを知り、 その世界を尊重する】

  他者からの尊敬を 強要することできません。
  尊敬のボール、 自らそれを投げた人にだけ返ってきます
  たとえば、「子どもたちの関心事」 に 関心を寄せる。
  あなたの目から見て、どんなに低俗な遊びであろうと
  まずは それどんなものなの理解しようとする。  自分もやってみて ともに遊ぶ
「遊んであげる」のではなく、 自分自身が  それを楽しむ。  そのとき 初めて 
  子どもたちは   自分たちが 認められていること、子ども扱いされていないこと、
  一人の人間として「尊敬(受容)」されていること を実感するでしょう。
  これは  あらゆる対人関係で求められる、   尊敬の具体的な第一歩です
  われわれはもっと他者の関心事」 に関心を寄せる必要があります
  われわれに必要なのは、「他者の目で見て、  他者の耳で聞き他者の心で感じる
【他者の立場になってみる】こと」 です。

  あなたは 今、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の心で感じようとしている。
  だから 子どもたち関心事について「下劣」だの「醜悪」 だのという言葉が出てくる。
  子どもたちは、    それを 下劣だとは 思っていません。では 彼らは 何を見ているのか 
  まずは、  そこを理解することから 始めるのです(social interest)
青年 では どうやって、 主観から逃れられないわれわれが 「他者の心」」 を持てるというのですか?
哲人 主観から 逃れられないし、 他者になることもできない。しかし 
  他者の目に映るものを想像し耳に聞こえる音を想像することはできます。まずは、
もしも わたしが この人と同じ種類の心と  人生を持っていたら?」  と 考える(想像する) 
  そうすればきっと自分同じ課題に直面し、  同じようなやり方で 対応するだろう
  と 想像できるはずです

  たとえば、  まったく勉強しようとしない  生徒がいる。
  ここで 「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは、 いっさいの尊敬を欠いた態度です。
  そうではなく、 まずは「もしも 自分が彼と同じ心を持ち、 同じ人生を持っていたら?」
  と 考える。つまり 自分が 彼と同じ年齢で、  彼と同じ家庭に暮らし、
  彼と 同じ仲間に囲まれ、   彼と 同じ興味や関心を持っていたらと 考える
  そうすれば「その自分」 が、 勉強という課題を前に  どのような態度をとるか、
  なぜ 勉強を拒絶するのか、  想像できるはずです。

  このような態度なんと呼ぶか、 分かりますか?
青年 想像力、ですか?
哲人 いいえ。これこそが「共感」なのです。
  共感とは 他者に寄り添うときの態度であり、  技術なのです
  そして  技術であるかぎりあなたも  身につけることができます

【 「~だろう」という   「状況の想像」に   とどまるのは 同情であり、
  共感は、 他者と同じ気持ちになることであり、気持ちの想像」である。

  同じ気持ちになるためには十分な情報が必要。 だが  同じ気持ちになったとしても、
  課題の分離ができていれば、 巻き込まれて 一緒に苦しむことはない】

青年 でも 子どもたちは 少しでも甘い顔見せれば増長し、 手がつけれなくなってしまいますよ。
哲人 おっしゃるように、  子どもは   天使ではありません。ひとりの人間です。
  しかし【独自の課題を持つ】ひとり人間である  からこそ尊敬を払わなければならない
  対等な存在として 接するのです。   彼らの興味関心に共感を寄せながら。
  そして あなたが身をもって実践することによって尊敬するとはどういうことか示す
  尊敬という 対人関係の土台築く方法を示し 
  尊敬に基づく 関係のあり方を 知ってもらうのです

  アドラーは言います。「臆病は 伝染する。 そして 勇気も伝染する」と。
  当然「尊敬」 もまた、 伝染していくでしょう。
  始めるのは、 あなたです
  理解者がいなくとも、 賛同者がいなくとも。
身をもって尊敬を実践することで、正しい「関係の在り方を伝える
  それが 教師の幸せであろう】

青年 われわれ教育者に 課せられた役割は、  子どもたちを尊敬し
  尊敬とは なにか【受容であること】を示し、  尊敬【横の関係】を学んでもらうこと
  と おっしゃるのですね?
哲人 はい。教育に限らず、あらゆる対人関係の第一歩はそこになります
青年 しかし、 学校教育に そして資本主義社会で求められているのは
  茫漠とした「人間知」 などではありません。
  保護者や社会求めているのは、 学力の向上であり、
「生活していくための 『知』である生活知」  です。
 

  アドラー心理学の 鍵概念であり、     理解の難しい共同体感覚」 
  そのためには共感という技術が必要になり
  共感の第一歩は他者の関心事に関心を寄せ他者の目で見て他者の耳で聞き
  他者の心で感じること
  そうすれば、 他者の気持ちを  ありありと自分のなかに再現できるようになる

共感の前提は、「受容である
 

なぜ変われないのか

哲人 ところで、 あなたが変われない理由は  何なのですか?
青年 ほんとうは  変わりたくないから
哲人 そういうことです。  これは  「変化とはなにか?」 という問いにもつながっています。
  変化するとは、 ある意味 「死そのもの」  ともいえます。
  自分を 変えるとは、 「それまでの自分」 に見切りをつけ、「それまでの自分」 を否定し
それまで自分  二度と顔出さないよう  いわば 墓石の下に葬り去ることを意味します

【この部分の説明は 明らかに間違っている。  自分を変えるとは
  それまでの自分(自我   わたし自身の主人格から サブ人格に 変更することつまり
「わたしの主体 から 「わたしの機能 にすることであり、 「自我滅尽する ことではない

  それは 自我の死でなく 役割変更に過ぎないのだが、 自我にとってはまるで 死のようだ 
  という意味である。  では 代わりに登場する  主 「人格」 とは、 何ものなのか?】

  そこまでやって ようやく あたらしい自分」  として生まれ変わるのですから。
  では  いくら 現状に不満があるとはいえ、  「死」 を選ぶことができるのか。
  底の見えない闇に 身を投げることができるのか。  そう簡単な話ではありません。

【私が変わろうとするたびに、私は「うつ」  になった または「うつ」なりそうになった。
  その度に、 「うつ」ならないために、 「うつ」  から逃げ出すために、 道を引き返していた
  そして もう 逃げてはいけない、 と思った】

  だから 人は変わろうとしないし
  現状を肯定するための「このままでいい」  材料を探しながら生きることになる
「いまの自分」を肯定するために「原因論」  を持ち出し、
  それに合致する記憶だけを呼び起こしている。
青年 われわれは  自らの生(生き方:ライフスタイル)を選び、
(それを 正当化するための)自らの過去を  選ぶ、ということですか?
哲人 過去に起きたつらい出来事を「教訓」 や  「思い出」として語る人もいれば、
  いまだ  その出来事に縛られ、      不可侵のトラウマとしている人もいます。
  縛られている人は、 その不幸な過去を必要としているのです。
  悲劇という安酒に酔い、不遇なる「いま」 のつらさを忘れようとしているのです。
青年 それは 強者・勝者の論理ではないですか?
哲人 それは違います。わたしは人間の可能性を信じる(他者信頼)からこそ、
  悲劇に酔うことを 否定しているのです。
  では、 われわれがカウンセリングで使う   この三角柱を見てください。
  この三角柱は、 われわれの心を表しています。
  いま あなたからは、三つある側面のうち  二面だけが見えるはずです。
  なんと 書かれていますか?
青年 一面には「悪いあの人」 もう一面には  「かわいそうなわたし」と。
哲人 そう。
  カウンセリングにやってくる方々は、      ほとんどが このいずれかの話に終始します。
  自分を責める他者  または 社会への憎悪を語るか、自分の不幸を 涙ながらに訴えます。
  そして、 これはカウンセリングの場限ったことではありません。
  でも われわれが語り合うべきことは、 ここにはありません。 本質の解決にはつながりません
  それは みな、他者の課題だからです。
悪いあの人」の話を聞き、 「かわいそうなわたし」の話を聞き、「それはつらかったね」
「あなたなにも悪くないよ」 と同調すれば、  ひとときの癒しは 得られるでしょう。
  しかし それは、結局「依存」ではないですか?
青年 じゃあ、どうするのです?
哲人 三角柱の、いま隠れているもう一面。   ここに なんと書いてありますか?
青年 ・・・ 「これからどうするか【目的論】

【変わる・・・    過去の自分を殺す・・・
  原因論に囚われているかぎり、このような(上記のような)発想は出てこない
  だから、原因論ではなく 目的論なのだ
  幸せに イキイキと生きるという 「目的」   のために、「これからどうするか」 なのだ 】
 
[プラユキ・ツイッター]
「責任をとれる人」とは      「相手のせいにしない人」である。
  相手責任転嫁したとき「あなた変わらないかぎり私は変われない」 相手に主導権を渡し
  苦しみや 納得のいかない現実を  自分の力で変えていく可能性を放棄してしまう。
  自身が主役【 わたししかいない】と気づいたとき、  現実を変えていく力が蘇ってくる。
 
 
第一部のまとめ:
横の関係  尊敬信頼(受容)でつくられる

  教育とは人々と良い関係【横の関係】を築き、  (単に 生活の面だけでなく)
  生きていく上で自立することを(押しつけでなく)援助することである
  本来 すべての人間(生徒)が持っている自ら成長したいという欲求」 の存在を信じて
  教師が生徒を尊敬しながら 関わる。
  この態度を示すことによって、 あるべき  人間の関係【横の関係】
  実践の場で  その対人関係を通して  学んでもらう

  尊敬とは ありのままを認め、 他者を変えようとしたり操作しよう とはせず
他者の関心事」 に 関心を寄せ
他者の目で見て他者の耳で聞き他者の心で感じ」 ようと すること
  他者の主権(課題)踏み込まず 尊重すること
  他者の興味関心に 共感を寄せながら、    対等な存在として 接すること

  自分を変えるとは、「それまでの自分に  見切りをつけ否定し
  二度と顔を出さないよう  葬り去ること
  そこまでやって ようやく、「あたらしい自分」  として  生まれ変わることができる
【でも、 自我を「完全に」なくそう・・・    と してはいけない

  問題は・・・ 「これからどうするか」 だけ



(最終改訂:2023年1月23日)